曖昧な。


 目が覚めると、お箸がお茶碗を掻いている音がした。誰かがご飯を食べているらしい。寝過ぎて重たい身体を動かして、携帯の時計を見る。午後12時過ぎだった。私は今日何も履修していないから休みだけれど、両親は仕事で、弟も高校に行っている。家には誰もいないはず。一体誰だろう。頭がだんだんと冴えてきて、異常事態に緊張していく。携帯を握り締めて、音に耳を済ませる。お皿からおかずを取る音が聞こえる。咀嚼しているような音も。お母さんかお父さんが休憩に帰ってきたのか、弟の高校が午前までだったのか。鼓動が早くなるのを携帯で押さえながら、思い切って起きてしまおうか考える。ご飯を食べているのだから泥棒ではないはず。食べている音も聞こえるから幽霊じゃないはず。一度怖い方に考えてしまうと、なかなかそれを振り切れない。身体が汗ばんでくる。できるだけ静かに立ち上がって、襖に手を掛ける。聞こえてくる音は気付いていないのか、気にしていないのか、暢気に食べ続けていた。喉で鼓動を感じながら、勢いよく襖を開けた。
 ガタン、と大きな音が鳴った。驚いたお茶碗は宙に浮いたまま静止する。私は息も止まりそうになっていた。誰もそこにはいなかった。テーブルの向こうの台所が、何にも阻まれることなく見える。お茶碗とお箸は、浮かんでいるのに。見間違いだ。襖を掴む手に力がこもる。お茶碗とお箸がゆっくりとテーブルに降りて、傍にあるボールペンが立ち上がった。メモがパラパラとめくれる。一番上がちぎられ、何かを書いていく。黒い文字は見えても言葉はわからない。硬い音が途切れ途切れに鳴る。ペンが倒れ、メモがこちらを向く。
『こわくないよ』
 目が瞬時に見開いた。汗や胃液が身体から流れ出ようとする。目が釘付けになって、足は一歩も動かない。残忍な笑みを浮かべた、鋭い牙を持つ物体に一瞬にして捕食されるような恐怖。何か言わなければここで終わる。終わってしまう。開けさせまいとする口を無理矢理開け、唾の粘着を剥がし、声を発する。
「うそだ」
 半分息のようなものだった。声が空間に響き渡ると、メモは裏返りながら落ちていった。ペンがまた文字を書き出していく。心臓が両耳に分裂して、喉も振動して息苦しくなる。ペンのゆっくりと倒れた音に心臓が跳ねる。メモが振り向く。
『私は透明人間です』
 頭が真っ白になった。予想外の言葉に瞬きをして、何度も文字を読み返した。なかなか意味が頭に入ってこない。しばらく掛かって理解すると、力が自然と抜けていき、襖から手が離れた。人間だ。でも、得体は知れない。どうしたらいいかわからなくなって、呆然とする。メモがゆっくりと伏せていく。目で追って、着地した瞬間、はっとした。
「何しにここへ?」
 はっきりとした口調だった。油断させておいて、襲い掛かってくるかもしれない。相手を見据えた。まるで見えているかのように。台所の蛇口に浮いた、白い光沢を見つめる。その場から動かせてはいけない。目に力を込める。紙のめくれる音。メモがもう一枚ちぎられる。呼吸は深くなり、喉が狭くなる。胸が膨らみ、限界まで吸い込むと息が詰まって苦しい。吐いても解放されない緊張感。身体全体の筋肉は硬直し、微かな震えを起こしている。メモが空気に擦られて振り向いた。文字が小さくて見えない。前に身を乗り出して凝視すると、気が付いたのか、メモは少し前に出た。
『お腹が空いていたのでお邪魔しました』
 テーブルの上を見ると、いくつかのおかずが並んでいた。
「お腹、空くの」
 メモから目を離し、台所の蛇口を見た。メモは一瞬震え、隙間に文字を埋める。
『はい』
 文章が来ると思っていた。何て返そうか悩む。沈黙が痛く、早鐘を打つ鼓動に焦らされる。「お腹は、いっぱいになりましたか」
 メモは裏返り、もう一度前を向いた。何を示しているのかわからなくて、首を傾げる。メモは大きく前に出て、震えた。さらに首を傾げると、またメモは裏返り、そのまま静止した。しばらく経つと、急にメモはすばやく降り立ち、ペンも流れるように文字を書いていった。一際大きな音を立ててペンは倒れ、風を起こしてメモが振り向いた。
『はい、に指を差してたんです』
 行が変わり、
『すみません』
 納得したように首を動かした。ほっとしたようにメモが少し下がった。つられて安心してしまいそうになったが、すぐに気を取り直した。まだ油断してはいけない。
「わたしはあなたが怖いです」
 鼓動はまだ早いが、振動は小さくなっていた。メモは素早くそれに応える。
『はい。怖がらせてしまってすみません。今すぐ立ち去ります』
 早く書いたせいか、文字が崩れて見える。誠実な対応に身じろぎしてしまう。罪悪感が湧いてしまった。応えに迷っていると、椅子が音を立てた。クッション部分も鳴ったので、立ち上がったに違いない。床を叩くような音が聞こえる。こっちに来るか、と身構えたが、そのまま帰ってしまうかもしれない。玄関への扉が音を立てる。帰るつもりだ。扉は大きく開き、床の音を通して、ゆっくりと閉まった。だんだん音が遠ざかっていくのを聞きながら、テーブルに顔を向けた。まだご飯の残っているお茶碗が目に入った。おかずも、かじったままのものがある。床の音と、心臓の音が重なる。十回ほど鳴ったとき、床は砂利へと変わった。玄関を歩く姿を想像する。砂がもう一回擦れる間、心臓は百回打った。大きなドアノブを捻る音。
 飛び出した。玄関への扉を壁にぶつけるほど開いて、
「待って!」
 遠くもないのに大声を上げた。玄関の扉は少しだけ開き、外の光を取り込んだ。埃の舞っているそこには、何もいない。扉は一向に閉まらず、何かが押さえているのがわかる。大した距離を動いていないのに、息を切らして玄関を見つめる。
「ご飯、全部、食べて良いですよ」
 小さく砂を擦る音。それ以上動かない。
「残されても、迷惑です。捨てるの、やだし」
 何てことを言っているんだろう。得体の知れない、危険かもしれないものを引き止めるなんて。外の雑音が入り込んで、耳に馴染む。何も動かなかった。いつまで経っても動く気配がない。本当はもう、そこにはいないんじゃないかと思った。ただ、扉が一向に閉まらないから、いるんだろうとは思った。心臓の動きを感じ続けて、気合を入れる。ゆっくり前に進むと、じゃり、と鳴った。まだいるみたいだ。内心驚いて、立ち止まりそうになった。反応が遅れたせいか進み続けている。砂が鳴って、扉が閉まった。大きな音と振動にぶつかった。帰ったのかと思って慌ててサンダルを履いた。扉まで近づくと、何かに触れた。
「わっ」
 思わず声が出た。まじまじと見つめたが扉があるだけ。恐る恐る引っ込めた手を伸ばしていったら、突然手を掴まれた。心臓が飛び跳ね、悲鳴を出す暇もなかった。怯えで見開いた目で辺りを見渡す。見えない。数回震える呼吸をして手を引き抜く。案外、簡単にはずれた。掴まれた手を胸の前で押さえる。心臓がとても早かった。砂の擦れる音がして、脊髄反射で音の方を見ても、音はそれっきりでどうなっているのかわからない。しばらく見つめていたけれど、進展もない。不意に、メモの破れる音がした。慌ててリビングに戻ると、ペンがこつこつと動いている。メモが浮いて、こっちを見た。
『ありがとうございます』
 行が変わって、
『いただきます』
 最初は何のことだかわからず戸惑っていたが、すぐに思い出して、ほっと息を吐いた。
「どうぞ」
 少し間が空いて、椅子に座る音。力が抜けるのを感じて、自分も向かいの椅子に座った。まだ確かに恐ろしさはある。けれど、安心していることも確かだった。警戒を捨てきれず、向かいを見つめる。お箸が動いてほうれん草を持ち上げた。追っていくと、テーブルの端まで動き、唐突に消えた。驚いて背もたれにぶつかった。その様子を見たお箸がお茶碗に降りて、メモが浮いた。
『こわくないよ』
 最初に書いたメモだ。文字を読むと、食べたんだ、と納得した。咀嚼する音も聞こえている気がする。口の中や、食道を通る様子が見えるかもしれない、と思ったら、そうじゃないみたいだ。落ち着いて、鼻から息を吐いた。
「どうぞ」
 手を出して、続きを促した。メモは横に逸れながら降りて、再びお箸が動き出した。お箸がつついているのは、全部昨日の残り物だ。ほうれん草のお浸し、焼き鮭、じゃがいもとにんじん、かぼちゃの天ぷら。これらはすべて自分の朝ごはんだった。寝起きで食べるには気が進まなかったから、代わりに食べてくれるのは有り難いことだとぼんやり思った。おかずが消える度、お箸の先も少しだけ消えていた。お箸も一緒に口に入れているらしい。自分のいつも食べている様子を思い出してみる。入れているといえば、入れているような気がした。何度か繰り返すのを見ていると、お箸が降りて、ペンが動いた。おかずが陰になって見えないが、目線だけで覗いてみる。
『そんなに見られると食べづらい』
 ぱっ、と目に入った文字を見て、呆気に取られてしまった。確かに珍しそうに見つめていたかもしれない。
「ごめんなさい」
 苦笑しながら頭を下げた。いつの間にか緊張が解けていた。警戒するのに疲れて、もう気を引き締めないことにした。自分も何か食べようと立ち上がる。台所の隣にある食パンの袋を取る。傍にある棚を開けて大きめのお皿を出して、冷蔵庫からマーガリンといちごジャムを出した。テーブルに置いて、袋から一切れだけ出す。オーブントースターに入れて、タイマーは3分半。椅子に戻ろうと振り返ると、お茶碗とお箸、焼き鮭が載っていたお皿が整えられていた。メモがこっちを向いて、
『ごちそうさま』
 下に、
『残ったおかずはどうしたらいい?』
「ラップ掛けて、冷蔵庫に……」
 戸惑いながら冷蔵庫を指した。自分がやります、と言っても良かったと思った。メモが降りてしばらく待っていると、ラップがやってきた。自動でロールが回ると、切り離され、ほうれん草と天ぷらを包んだ。ラップは元の場所に戻って、お皿が冷蔵庫へ飛んでいく。冷蔵庫が開いて、ガタゴトと音を立てながら、二つをしまった。またペンが動いて、
『食器は?』
「その、桶につけておいてください」
 蛇口の下にある水桶を指した。食器は重なって浮いて、水の中にゆっくりと降りた。中で軽く崩れていた。パンの焼けた音が鳴った。振り返ってオーブントースターを開けると、香ばしい匂いが溢れる。食パンの端を持ってお皿に引きずり落とす。振り返ると、誰もいなかった。一度も見えてなんていないけど、お茶碗やおかずがあったおかげで、見えていた気がしていた。今はどこにいるかわからない。戸惑いながら、自分が座っていた場所にお皿を置く。お茶碗があった椅子に手を伸ばしてみる。生温かいものがびくっと震えた。つられてこっちも驚いた。ペンが早足で動いて、
『冷たい』
「ごめんなさい」
 謝りながら触れた手を閉じたり開いたりしてみた。
「いたんですね」
 ぼんやりと輪郭が見え出した錯覚。『はい』が書かれているメモが浮いて、ペンがそこを示す。
「透明人間ってしゃべれないんですか?」
 ふと気になって尋ねてみる。メモとペンが椅子のクッション近くまで落ちる。わずかにまだ浮いている。掠れた声のような呼吸音が聞こえ出して、テレビでホラーでも始まったような気分になった。掠れた声はだんだんはっきりとしてきた。高い声から低い声まで一通り出ていた。
「わ、す、れ、て、た」
 一言ずつ確認するように発せられた。低いような高いような声。たぶん男の人だろう。一番低い声が女の人には出そうにない声だった。
「そんな声してるんですね」
「ん……? ん」
 上手く声が出ないようだ。しゃべらせない方が良いのだろうか。話しかけるのを躊躇う。メモとペンがテーブルの上に戻った。
「さ、め、る」
「え?」
 と言った時に思い当たった。
「パ、ン」
「うん」
 頷いて椅子に座った。ちら、と向かいを見るが、蛇口が見えただけだった。マーガリンの蓋を開けて、こするように取る。パンくずがつかないように、マーガリンを塗る。マーガリンの蓋を閉めて、ジャムの蓋を捻る。手だけが回った。開かない。腕も使って全力で捻るが、一向に動かない。少し手が疲れた。大きく鼻で溜め息を吐いた。向かいを見ようとしたが、目玉を上げただけ。
「か、し、て」
 声が聞こえた。言ってくれた。言われなかったら頼もうとしていた。すかさずジャムを向かいのテーブルに置こうとすると、置く前に取られた。ジャムは宙に浮いたまま半回転して、振動しながら止まる。開いた様子はない。もう一度回転するかと思ったら、半分ほどでカコッと鳴り、二回転で分離した。ビンと蓋を分けて渡される。
「ありがとう」
 受け取って、ジャムを塗ろうとする。塗るものを持ってくるのを忘れていた。
「あの、後ろの棚の、左端の引き出しから小さいスプーン取ってください」
 前に身を乗り出して指を差す。椅子がガタッと引いて、しばらくすると引き出しからスプーンが浮き上がる。すべりながらすばやく飛んでくる。近くまで来たら、ひっくり返り、柄の部分を向けて止まった。
「ありがとう」
 魔法使いにでもなったような気分だった。
「うん」
 椅子が擦った音を立てて元に戻る。スプーンでジャムをすくって、パンに載せる。かたまりを、スプーンがパンにつかない程度に伸ばしていく。それを何度か繰り返す。塗りながら彼の様子が気になった。暇かもしれない。
 パンを縦にして、左下の角からかじる。甘すぎないいちごの味が、もちもちとした感触で広がる。パンくずのざらつきを歯で感じた。咀嚼しながら、前を見る。蛇口を見て、首を傾げる。
「み、え、て、る?」
 言葉の感覚が短くなってきていた。
「見えてないよ」
 言ってからパンをかじる。
「びっ、くり、し、た」
「何してたの?」
「たべる、ところ、みてた」
 しばらく咀嚼したあと、お皿ごとそっぽを向いた。椅子に座っているから、完全に背を向けることはできない。
「みえて、ない、でしょ」
 笑ってるように聞こえた。左手でお皿を持って、右手でパンを持ってかじる。上手くかじれなくて、パンくずがこぼれる。
「見えてないけど、見られてると思うといやだ」
 指に付いたパンくずをお皿に落としながら、服に落ちたパンくずを見る。仕方が無いので床に落とす。諦めてテーブルに向き直って、お皿を置く。蛇口の方をちら、と見てパンをかじった。まったく見えないけど、気になって、パンをかじる度に蛇口の方を見た。
「見てる?」
 半分ほどまで食べた。
「うん」
 上から声が降ってきた。横にいる。見上げながら飛び退いた。上から下まで眺めたが、玄関への扉があるだけだった。
「気付かなかった」
「きづいたら、おどろく」
 一語一語ははっきりだが、だいぶしゃべるのに慣れてきたようだ。棒読みなのに勝ち誇ったように聞こえて、ふてくされながらパンを食べた。咀嚼しながら、ふと思いついた。
「うっ」
 不意打ちで、左手を横にまっすぐ、勢いよく伸ばしてやった。きっと突き飛ばされたのだろう。案の定、そこに何かがあった。すぐに振り払われたが、やわらかい、生温いような、冷たいような感触が残った。意地悪く笑って見せると、ペンが動き出した。
『今、股間触った』
 メモと左手を勢いよく交互に見た。右手に持っていたパンを置いて、急いで台所まで行く。
「う、そ」
 水を出そうとする直前の声。棒読みが、より効果的に敗北を煽いだ。むかついたので、洗剤でよく手を洗っておいた。
「パンが食べれない」
 椅子に座って、溜め息を吐く。
「が、ん、ば、れ」
 わざと一言一句区切っているに違いない。無視してパンにかじりついた。完全に無視は気が引けるので、顔だけは怒ってるようにしておいた。
 全部食べきって、パンくずをお皿に落としていると、急に不安になった。いなくなってるんじゃないか。左を見上げて、
「いる?」
「うん」
「良かった」
 立ち上がって、お皿を桶につける。
「さっき、本当はどこを触ってたの?」
「おなか」
 やわらかかったことに納得がいった。自分のお腹を触ってみた。パジャマのやわらかい毛が気持ちよかった。彼の感触は全然違っていた。手を伸ばして、さっきまでいたであろうところまで、歩いてみる。やわらかい表面で内側は硬いものに行き当たった。そのまま下になぞっていくと、やわらかいものが引っ張られ、硬いものが間隔を空けてあった後、硬いものがなくなって、やわらかいものだけになった。そこで気がついた。
「もしかして、裸?」
「フルチンブギ」
 すらすらとした発音だった。瞬時に手を離して水で洗った。
「そんなに嫌?」
 もう言葉に詰まることはなかった。声がした場所をまじまじと見つめると、嫌悪が沸いた。明からさまに顔を顰めて、
「変態くさい」
 台所に近い椅子に座ろうとしたが、先程まで彼が座っていたのを思い出して、布巾で拭いてから座った。
「傷つく」
 言われると、嫌悪はあったが、申し訳ない気持ちになった。
「ごめんなさい」
 気まずい空気になった。目線が合うことはないけれど、合わせたくなくて、下を向いた。彼は動かない。不安になった。裸でいることで、痴漢的な行為をされるような気がした。前の空間を意識していると、期待しているような気がして、自分にも嫌悪が沸いた。もしするなら、もっと早くしているはず。無意味に傷つけてしまったことを申し訳なく思った。ばつが悪くて顔が上げられない。このまま帰ってしまったらどうしよう。怖かったけれど、何もできなかった。耳だけを澄まして、動きを感じる。時計の音が聞こえて、そういえば何時なんだろうと思った。起きてから1時間は経っている気がした。時計の針と心臓の鼓動が同時に音を出す。意識すると、心臓が少しずつずれ始める。どんどん不安が増して、いっそ顔を上げてしまおうかと思ったけれど、上げても見えないことが躊躇わせた。時計の音が消えて、心臓の音だけになる。手に力が入って、肩がすぼまる。
 不意に、頭を優しく撫でられた。上から左へすべるように髪を梳く。寝起きのままの絡まった髪が、つまらせながら、解ける。ゆっくりと、何度も繰り返された。泣きそうになって、我慢して顔を上げると、カレンダーが見えた。まだ撫でられている。私の言動を許してくれたのだと思った。
「ごめんなさい」
 右手を差し出すと、優しく握ってくれた。自分もちゃんと握ろうと手を捻ったが、上手く合わないので左手に変えた。綺麗に合わさった手が、温かくなった。右手も添えて、両手で包み込む。思ったよりもやわらかく、なめらかだった。手の甲と思われる場所を、何度も指をすべらせる。手が撫でるのを止めて、髪に指を絡ませながら降りていく。時計の針が大きく聞こえて、四つずつ数える。
 包み込んでいた右手を、少しだけ上げてみると、何かがあった。触ってみると、手のひらと四本指は硬く、親指はやわらかい場所にあたった。少しだけなぞってみると、くびれているのがわかった。なぞった瞬間、髪を一瞬だけ強く握られた。くすぐったかったようだ。穏やかな気持ちになって、右手を頼りに立ち上がる。左手を握っていた手は離れて、髪を触っていた指は後ろへと下がった。なめらかなものを感じながら、右手を硬い、平らなところまで回して、左手も、右手の下辺りまで回していった。寄りかかると、心臓の音が聞こえた。目線を音の方に近づける。見えたのは電話とメモ帳だけだった。時計よりも大きく、熱い音。身体全体が温くなった。彼は後頭部に手を置いたまま動かない。一本の指だけが、髪の毛の中で微かに動いていた。耳に響く音は、ゆっくり確かに打って、私の心臓も同調させた。
「いるんだ」
 頬が何かと接触しているせいか、妙な響き方をした。手が首の後ろを通って肩を掴み、右手と触れていた長いものが、背中を通って、左の腰まで回って、圧迫される。比例するように、私の抱きしめも強くなった。後頭部辺りに何かが触れて、出っ張ったところを調整しながら、微かに動く。落ち着くところを見つけたのか、触れたまま動かなくなった。私は目を伏せた。聞こえるものは心臓の音だけ。感じるものはやわらかさと熱さだけ。息が身体とぶつかっているのか、少しだけ返ってきた。くすぐったいかもしれない、と思いながら、気持ち良さに身を任せて、眠りにつこうといていた。

 いつまでそうしていたのか、本当に寝ていたように、何を考えていたのかわからなくなった。微かに目を開けて、ぼんやりとした目がはっきりしていくのを待った。顔の位置をずらすと、肩にあった手が首の後ろに回った。圧迫が緩くなっていた。どちらともなく、手を残したまま身体を離す。
「帰るよ」
 一気に目が覚めた。驚きで心臓が早くなる。
「帰るの?」
 目を合わせたつもりが、カレンダーの22と23に合っていた。
「うん」
 髪と腰から、すべるように感触が消えた。不安になって、感触を忘れないように意識する。
「どうして?」
 自分の手も、少しだけ下がる。
「どうしても」
 髪の毛の、本当に外側だけに触れられた。両手を、名残惜しく落としていく。温もりは、もうどこからも流れてこない。
「行くよ」
 動き出すのがわかった。
「また来て」
 玄関への扉が開く。追いかける。
「忘れて」
 小さく、床から音が鳴る。
「いやだ」
「だめだよ」
 砂を踏む音がする。玄関まで近づく。
「何で」
「いないから」
 耳に響いた。
「いるよ」
 声が震えそうになって、冗談だったら良いと思った。
「いないよ」
 気持ちがわからない。
「いるよっ」
 声が大きくなる。ドアノブを捻る音。
「ありがとう」
 開いて、出て行った。独りでに扉が閉まって、振動に髪が揺れた。ずっと見ていたのに、何もわからなかった。失望して、立ち尽くした。出て行った瞬間も、どんな表情をしていたのかも、扉を開ける手も、見えなかった。強がった言葉は、きっとばれていたに違いない。
「いるよ」
 妙に大きく聞こえるのが気持ち悪かった。
「いるよ」
 振り払うように声を張り上げる。びりびりと耳が振動する。
「いるよ」
 視界がぼやけた。もう一度出会ったら、きっと私は……

感想  home