おたんじょうび、おめでとう



 『これから僕がここに記す文章の全てを、社会不適合者の脳みそツルツル汚豚ちゃんこと、友人Aに捧げる。心して読むように』
 朝露が草木をしっとりと湿らせている早朝、植物の為だけに与えられたかのようなその静謐な時間に、
不穏な影をもたらす真黒なノートが私の家の郵便受けに窮屈そうに捻じ込められていた。
小さな郵便受けをガッタンガッタン鳴かせて、ようやくそれを取り出すことが出来た頃には私の息は上がっていた。手に取ったそれはがさがさとした乾いた感触。
どうやらご丁寧にも墨汁でまんべんなく塗りたくったらしい。いい年こいて、下らんことをする阿呆め。こんなことをする人間など私の知り合いにおいてただ一人しかいない。
他人の労力ながら、もっとましなことに生かせと私は内心で憤慨した。さらに表紙には明らかに修正液で書きましたと言わんばかりの字体で「DEATH NOTE」とある。
なんと幼稚な……つくづく救いようのない馬鹿野郎め……。心内で愚痴愚痴と呟くも、ひそかに横目でチラチラと死神の姿を探る私なのであった。
 さてその表紙を捲った一ページに、かくして冒頭の文章があった。お目出度い脳みそしてるのは、果たしてどっちだ! 突如、脳内クイズダービーが始まった。
解答者席に座るのは、赤コーナー関口宏、黄色コーナー三宅裕司だ。何故この人選だと首を傾げそうになったところで思い出した。どっちの料理ショーだ。
そう気が付いたら、急に白けた。もともと色づいてなんかいたわけじゃないから、この言い回しは妙だと思ったけれど。
今思えばあの番組ストレスが溜まるだけだったな。今夜のご注文はどっち!? なんて中年のドアップで勢い込んで聞かれたところで、結局食べられないし。
聞いてみただけです(笑)ってか。それはそれは。ワロスワロス。(それは+ワロス)(それは-ワロス)=それは^2+ワロス^2
 一人でそんなことを考えながらブヒブヒ笑ってたら正面の立花さんちの二階のカーテンが微かに揺らめいたのを見た。
私は巨体に似つかわしくない機敏な動き(自己申告)でその場から逃げ出し、家の中に隠れ、家の中でもさらに逃げて、ようやく自分の部屋という安心できる隠れ場所に身を落ち着けた。
植物の為だけにあるような静かな早朝にしか、表に出られない。もうほとんど植物人間だな、と一人ごちて、そのバチあたりさに、また一人でブヒブヒ笑った。
 社会不適合者の脳みそツルツル汚豚ちゃんは、本日二十歳になりましたのだ。



 私の家に不吉な黒いブツを捻じ込んだのは、高校生時代の同級生、優木ユタカという、いかにも優男系の名前をした、それはそれは残念なキモオタである。
かつて、彼と私はオタクの温床である美術部に属していた。と言っても、相手の境界に踏み入らないことに関しては長けている(コミュ力が無いともいう)オタクどもである、互いの存在を認識してはいたものの、会話なんてものは一切なかった。
そんな私たちの均衡は、とあるの女神の降臨によって破られたのだ。その女神には名前があった。東野加奈だ。ひがしの、でもなく、とうの、でもない。あずまの、かな、である。
素晴らしい名前である。心して覚えるように。まあなんというか、加奈って本当に女神だった。オタクだらけの、いつ異臭騒ぎで訴えられてもおかしくない美術部とはちがい、爽やかなエイトフォーの香りが漂うバスケ部に彼女は属していた。
バスケ部では髪型を強制的にショートカットに統一されているようであったため、加奈も例外なく短い髪形をしていた。ショートカットが似合う女の子に真の美しさが現れるとかどうとかいうスレをどこかで見たような気がするが、
それはまったくもって正しい、と私は主張する。猫っ毛な彼女の髪は、一本一本が悲しいくらいに細くて、さらさらと風になびく音が幻聴として聞こえてくるようだった。もっとも、彼女はその髪質を気にしているらしかったが。
 ハゲやすいんだって、と彼女は心配そうに笑った。そして私の髪に手を伸ばし、「Aはいいなあ、髪の芯が太くてさ」と撫でてくれた。今振り返ってみても、憤死しそうになる思い出だ。

 さてさて、不本意ながら私とユタカのことに戻ろう。
実はこの男、無類の百合好きであったのだ。とにかく女の子同士の絡みだったら何でも良い。 趣味も好みもないところが恐ろしく、その片割れが私でも構わないという雑食振りに、さすがの私もドン引く思いだ。
そんな彼が私の二十歳の誕生日に寄越したもの、それは小説のようであった。しかも、私と加奈を対象とした同人誌ともいうべき代物だった。
「ききききき、きも!!!!」
悲鳴が出た。あまりの衝撃と悪趣味さに両手がぶるぶると震えた。だがしかし、誰が何と言ったって、引きこもりは時間を持て余しているのだ。もはや誰も何も言わないが。
私はベッドに身体を投げると(その衝撃でベッドは相当なダメージを受けた)仰向けになってそれを読み始めた。本来ならばこの時間は私の睡眠時間だ。それを削ってやるんだと、ユタカに文句を言いたくなった。
 隣りの部屋の戸が開き、弟が部屋を出た音がした。とある平日の朝であった。



 いつの間にか眠っていたらしい。
 窓の外はいつの間にか暗くなっていた。ユタカ著の百合小説は持って回ったような言い回しの連続で、その文章が結局何を伝えようとしているのかが良くわからないということが多々あった。
私がすっかり飽きてパソコンを立ち上げると、メールが一通、受信箱に届いているのに気付いた。開くとそれはユタカからであった。百合小説の感想を求めているようだ。実に欲深いやつである。
私はできるだけオブラートに包んで『つまんねーよ、カス』という内容を送信した。送信してから数分経って、返事が届いた。ユタカは「人の親切に対してなんて態度だ」ということを包み隠さずメッセージにしてきた。
私は、オブラートに包んでやったのがその親切に対する精一杯の誠意だろうがと憤慨しながら、罵詈雑言を乗せた返事を書いた。見るも聞くも醜い往復書簡が山となっていくうち、ユタカがふいに「どこが悪かったのか言ってみろ」と吹っかけてきた。
なので私は冒頭の三ページくらいで見つけた四十三箇所の駄目な点を懇切丁寧に説明してやった。返事をよこしたユタカは怒ってはいたが「まだ三ページしか読んでないのかよ」ということばかりに終始着眼しており、私は情けなくなった。
「もっと読ませる文章書いてから文句言え」という私の攻撃に怯んだのか、ユタカはしばらく言葉を無くしていた。
「ふん、豆腐メンタル野郎が」
 そう呟いて、私はネットの海に身をゆだねた。
 見なくてもいい動画を見ながら、しなくてもいいコメントをして、どうでもいい時間を過ごしていると、新着メールを告げるポップアップが現れた。寝落ちでもしていただけなのか、ユタカからの返事だった。
「まだ懲りていなかったか」
 開くと、本文はない。添付ファイルだけだ。一瞬ウィルスでも送りつけてきたかと怯んだが、それがワードのテキストファイルだったのを見て、開いてみることにした。
「お? これって……」
 百合小説の修正バージョンであった。
「ひひひひひ、暇人!」
 悲鳴が出た。時間を持て余したニートのアグレッシブさに思わず涙が出そうになった。
 けれどそれから、私とユタカの百合小説完成への道は始まったのだ。なんだか謀られたような形で、片棒担ぐことになったのは腑に落ちないけれども。



 二十歳の誕生日から二ヵ月が経った。
 ユタカとの共同作業はいまだ続いていた。ぐええ、共同作業なんて言葉使うんじゃなかった。
 それにしても、ユタカの小説には圧倒的にネタが足りなかった。まあ当時高校生の私からの報告が情報の全てなのだから仕方がないかもしれない。
この二ヵ月間、私は加奈のことを思い出すばかりだった。彼女とは一年生の頃同じクラスだった。加奈は、クラスカーストの上位に君臨していたけれど、
底の方の奴らとも分け隔てなく接してくれた。私なんかとも。
 放課後に何の予定もない私は一人で教室に残り、宿題を片付けていたのが常日頃だった。家で充実したオタクライフを過ごす為だ。その為ならば私は必死になれる。
そんな時突然、加奈が私の前に立った。その頃の加奈は私にとって、クラスカースト上位のメンバーのうちの単なる一人だった。宿題してるの? と彼女は聞いた。
私はどもりにどもって、なんとかそうだ、と返事をした。上位メンバーの人と話をするのも初めてだった。
「あ、ああずまのさんは、ぶかっ……ぶかつじゃ、じゃないの?」
「うん、部活だよー。でもちょっとここで見ていよっと。見ていても良い?」
 思えば、加奈はずいぶん自由に友人と友人、他人と他人の間を渡っていた。結局、どこにも属していなかったような気がする。
その時、私は緊張して何を話したのか覚えていたのだけれど、加奈が、私と話すのが楽しいと言ってくれたことだけは覚えている。多分、死ぬまで忘れないと思う。
ボケて寝たきりになったとしても、忘れないんじゃないかと思う。この時ほど、嬉しかったことなんてないから。ほんの数十分の間だったのに、彼女が部活の為に教室を出ていく前には加奈は私の中で特別な人になっていた。
 改めて振り返ってみると、なんだか不思議な話だ。説明しようと思っても上手くできないし、私自身、この瞬間のことはなんだか夢のように思える。
「最初は何ともなかったのにな」と呟いてもみる。けど、確かにこの日の前と後では、私の世界は決定的に違っていた。
 欠点のない人だと思った。底の方にいる奴らからも比較的好かれていたし。
それでもごくまれに僻みの混じった中傷の声を聞くこともあった。ときどき融通が利かないとか、頑固だとか。でもそれのどこが欠点なのだろうと思った。
オセロがくるりと反転するように、私の前で彼女の短所はすべてチャームポイントになった。
 あの放課後以降、ふとした時に声を掛けてくれるようになったのが嬉しかった。
一度こちらから勇気を出して挨拶したときは素通りされしまって、まるでこの世の終わりのような絶望を味わったけれど、すぐに踵を返して私の目の前に立ち、
おはよう、ごめんね、ぼーっとしてた! と言って笑ってくれた。嬉しすぎて、胸が苦しかった。心臓がどろどろに溶けて甘いジャムになってしまったみたいだった。
 そんな私を見ていたのだろう、ユタカが声を掛けてきたのはそんな頃だった。好きなの? って聞かれてそれを自覚するなんて、ありがちなテンプレに見事はまってしまったのだ。
 私はユタカが望むような同性愛者だったのか、それとも多感な思春期にありがちな禁断の愛への憧れだったのか。
もとより、ナイチンゲール症候群みたいなものだったのかも知れない。別に世話をされていたわけじゃあないけれど、畜生同然の私に声を掛けてくれた、みたいな発想がないことはないのだ。
ああ、それでも、言い訳のように聞こえるかもしれないけど、加奈がクラスカーストの上位だなんて徐々に忘れていったさ。いや、そもそも比べるという概念が徐々になくなっていったんじゃないか。
加奈だけ特別だった。それが当たり前になっていった。
 私たちは、結構気が合っていたように思う。ユタカに好意を指摘されて驚いたものの、私は加奈に対する態度を変えなかった。ただし、捌け口はユタカだった。
加奈が笑ってくれてどれだけ嬉しかったかを逐一報告し、一緒に遊んでどれだけ楽しかったかを切々と説いた。そして加奈の前ではなるべく自然に、友人として過ごした。
線香花火の先端の火球みたいに、少しでも動いたら落ちて終わってしまうように思っていた。そう考えたいわけでは決してなかったけれど、大切で、かけがえがなく思うほど、失うときが怖かった。
だから動けなかった。死んでも動きたくなんかなかった。



 赤ペン先生、校閲まだですか? ニートのくせに忙しいとかありえないよね、早くしてよ。
 どの面下げてそんなことを、と思うメールが届いた。けれどそれに応戦するメールを書くことが、私はなかなかできなかった。
ユタカの小説はそろそろ佳境で、小説の中の私と加奈はもうすぐ卒業を迎えようとしていた。……今や出来上がりつつあるその小説は、百合ものというより単に青春劇のようになってしまっていたけれど。
客観的に見て、私と加奈の関係はそんなものだったのだろうと思う。
 卒業間際のこの頃、加奈は同じバスケ部の男子に告白されて付き合い始めた。
足場が急に崩れたような錯覚だった。いや、錯覚ではなかった。私の精神は気が付いたら随分高いところにあったのだろう、叩き落されて原型を無くした。
 卒業式の日、私は加奈に何度も「さよなら」という言葉を使った。「もう二度と会うことはないだろうね」とも。その言葉で、少しでも彼女が傷つけば良いと思ったのだ。
私と離れることを少しでも後悔すれば良いと。少しでも深く加奈の傷になりたかった。忘れないでと、体中の細胞が叫んでいた。醜かったし、本当に馬鹿な考えだった。
だが、加奈は私に「ありがとう」と言った。それは私を深く深く傷つける言葉となった。別れを告げられるよりも、金輪際もう会うことはないと言われるよりも、ずっと深いところに言葉の破片が突き刺さった。
心臓が痛くて痛くて、どろどろになってしまって、溶けて、醜いジャムになってしまうみたいだった。好きで好きで堪らなかった、あの時の喜びの痛みとまるでそっくりだった。
人を好きになるというのはこんなに痛いことなのかと思った。帰宅した家の庭で、みじめなほど大声を上げて泣いた。痛くて痛くて、堪らなかった。
涙が喉に詰まって「ンゴッ」と声が出た。醜すぎて笑えなかった。
 こんなに痛いものはいらない、と思った。出会わなければ良かったとさえ、思った。



 とうとうしびれを切らしたのか、ユタカから督促の電話が入るようになった。
 そして私はそれを無視し続けていた。
 加奈は短大に入学し、なんとそのまま、バスケ部男子と結婚した。二年前、子供を出産したと写真付きのメールが送られてきた。
だからつまり、私が引きこもりになって二年経った、ということになる。加奈との出会いさえ後悔した私は、まだその子供に対して恨みを抱くくらい、彼女のことが好きだった。
生まれてきたことを祝福されない子供はいないと言うのに、こんな汚い豚女なんかに恨まれて、心底この子が可哀そうだと思ったら、涙がボトボトあふれてきた。
何度も何度も、子供の写真を見た。加奈にそっくりで、大変可愛らしい女の子だった。見るたびに、心の傷口に塩を塗るようだった。あの時加奈に付けられた傷、それをぐちゃぐちゃに引っ掻き回すようだった。
ユタカと小説を書き始めて、私はそのかさぶたになりつつあった傷をまたぐしゃぐしゃにしてしまったようだ。気づかなかった自分がひどく滑稽だ。
鼻水が垂れそうになる。ティッシュがもう空になってしまった。どこかにポケットティッシュでも残っていないかと探すと、「DEATH NOTE」と書かれた黒い表紙のノートが目に留まった。情けなく、うっすらと埃をかぶっている。
私はやっと見つけたポケットティッシュで鼻をかみ、しげしげとそれを眺めた。これが届いて半年が経った。私はふと気になって、その物語の最後を探してみた。
ぺらぺらと後ろの方から捲ると、「HAPPY END」という文字を見つけた。その上に書かれた一文を読む。

 私と加奈は、オランダに移住して結婚し、末永く一緒に暮らした。

 ふざけんな、と思った。ふざけんなふざけんなふざけんな。途方もなく激しい怒りが、今までどこに眠っていたのかと思うくらい噴出し、身体中を包んだ。ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな。何がハッピーエンドだ。こんな結末は、一生来ない。
こいつを、ユタカを一発殴らなければ気が収まりそうになかった。私は怒りのあまり呻きのようなものを上げながら、いくら入っているのか分からない財布と携帯電話をジーパンの尻ポケットに詰めて部屋を飛び出した。
猛然と階段を駆け下りると、リビングに居た弟が目を見開いてこちらを見た。
「どうしたの、姉ちゃん」
 ンフゥー、ンフゥーと鼻息荒く時計をにらむと午前十時を少し回ったとこだった。
「あんた、がっこうは」
 階段を駆け下りたせいで息が上がっているのだ。
「学校って、今日日曜だし」
 ああ、日曜なの、引きこもりになると曜日なんかわかんねえんだよと答えたかったけれど、面倒だったのでやめて玄関に向かう。後ろで弟が、でかけるの、と驚いた声を出した。

 私はユタカの家を目がけて走った。巨体に似つかわしい緩慢な走りだったと思う。目の前の映像が激しく揺れている。ンフッ、ンフッという気持ち悪い息遣いが聞こえている。
あんな結末しか、ハッピーエンドと呼べないのか。体が重い。前に進んでいる気がちっともしない。ふざけんなふざけんなふざけんな! それでも私は二本の足を交互に前へと動かした。
 怒りのエネルギーは尽きることなく私の中で燃えている。



 ユタカの家の付近で私は奴に電話を掛けた。荒々しい息遣いで、
「わたし。いま、あんた、の、いえ、の、まえ」
 と伝えた。我ながら気違いじみているなと思った。目の前の家からドタドタという重々しい足音が聞こえて、玄関の扉が開くと、一人のキモオタがそこに立っていた。
「うわっ、何その顔、ひどいよ」
 言い終わらないかくらいに私は猛然とユタカに向かって突進し、その胸ぐらを掴んだ。奴はヒィッと高い声を出した。
「あんな、け、つまつ、に、は、ならな、い」
「え?」
「みて、いろ」
 そう啖呵を切っ(たつもりになっ)て、私は踵を返してまた走り出した。ここからはそう遠くない。

 私は加奈が暮らす家の前に立っていた。
 郵便ポストの前の名前に、彼女の名前があったから間違いないだろう。
苗字も違うし、旦那と子供の名前も一緒に並んでいるけれど。やっぱり、それを見ると少し胸が痛い。猛然とここまでやってきたが、怒りのエネルギーは既に収束し、私は最後の勇気をふりしぼることが出来ずにいた。
 すると、運命の方が焦れたのか、突然玄関の扉が開いた。その向こうにいたのは加奈だった。髪は随分伸びていて、色も染めたみたいだけれど、あの頃ずっと耳に聞こえていた、彼女の髪がさらさらと風に撫でられる音を確かに聞いた。
加奈は驚いていたが、すぐに私と気づいてくれた。ああ、私はその事実を傷害の自慢として生きていこう、と思った。
「お、おたんじょうびの、お、おいわいに」
 ここに来る途中で買ってきた、黄色いチューリップの花束を差し出しながらそう言った。
しまった、まだ少し息が切れている。気持ち悪いと思っただろうなと思って、おびえながら加奈を見た。けれど彼女は満面の笑顔で、覚えててくれたの? と笑った。
何度、その笑顔を見たいと思っただろう。笑い声を聞きたいと思っただろう。だけれど、そんな回数なんて、もうどうでも良い。
「うん。にさい、だよね」
 私は、加奈の脚にしがみついているた女の子に話しかけた。随分大きくなったなあと、内心で呟きながら。
女の子は最初おどおどしていたが、ややあって母親そっくりの笑顔を見せてくれた。心の底から可愛らしいと思えた。この幼女に萌え感情を抱く不埒なロリコンどもは全員殺す、と思えた。
 「じゃ、じゃあ……」
 私がそう言ってその場を離れると、またね! と言う加奈の声がした。人をこれほど喜ばせる言葉があるのだろうか。
 幸福すぎて、振り向けない。嬉しすぎて、前しか見えない。足が止まらない。私はまた駆け出した。



「ふうん、今日あの子誕生日だったんだ」
 私はユタカのおばさんが出してくれた紅茶をずず、とすすり、そうだよと答えた。死ぬほど可愛かったさ、とユタカに告げる。それからハッとなって、
「幼女萌えとか抜かしたら、殺すぞ」
「言わないよ、幼女に興味はないんだ」
「ああそう。でも私と加奈で甘酸っぱい妄想をしてハァハァすることはもう出来ないね」
 ユタカのおばさんお手製だというチョコチップクッキーは若干固い。私はそれをばりばりと咀嚼し、飲み込んだ。
「別に、ハァハァしてたわけじゃないけど。でもそうかあ、東野さんの娘さん、もう二歳なのかあ」
「おい、今、ひがしのって呼んだだろ。あずまのだよ、あずまの。ほんとお前は脳みそツルツルだな。それに、今はもう東野じゃないよ。今はさ――」


 完
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