「今からそっちに行っても、いいかな……?」
 電話口から聞こえる院長のかすれた声は、いつもより穏やかだった。同時に、いつもより言葉が途切れ途切でもあった。
「来るんですか? ええ、いいですよ」
 自分にお爺ちゃんがいるのなら、きっとこんな感じだろうと思った。
「ええー、部屋から出る準備をしておいてほしい」
「部屋から出るって……。え、え?」
 考えただけで悪寒がした。全身の毛穴から体温が消えていく。受話器を握る手に力が入り、一瞬にして酸素が奪われたように息が苦しくなった。部屋から出る準備などと、院長らしくもない。呼吸の変わりに、全身を掻き回したい衝動に駆られた。
「いや違うんだ、待ってくれ。外に出るわけじゃない」
 どうやら察してくれたようで、院長はすぐに訂正した。もう少し遅ければ受話器を叩きつけていただろう。
「施設の中から出るわけじゃないんだ。その……ワシが悪かった」
 僕が沈黙を守ったままでいると、院長は言葉を続けた。
「自分の一番大事だと思う物をひとつ、用意していてほしい。部屋から出る準備を……なんて大げさすぎた、すまん……」
 声は小さくなり、首を下げる院長の顔が浮かんだ。僕は院長の笑顔が好きだったので、申し訳ない気持ちになった。きっと院長がそうしたように、僕も首を下げた。
「本当にすまんかった……」
「いえ、僕の方こそ迷惑をかけてすみません」
 是非きて下さい。待ってます。そう返事をして、受話器を下ろした。
 院長は二分と経たずやってきた。部屋に入ってくるなり、言った。
「耕平、おめでとう。卒業だ」
 電話での他人行儀な取りなんてなかったかのような、とびっきりの笑顔だった。
顔中に皺を寄せた院長の笑顔を見て、僕も笑った。
「あれ、僕まだ十五ですよ。一年早いと思いますけど」
 卒業の後は、どうなるんだろう。卒業してからのお楽しみ。
「何度も言うが、外には出ないぞ。安心してくれ」
 院長の目は、涙ぐんでいた。

     ◇

「今回もダメだったか」
 知らない声が言った。体の感覚は薄れ、何も考えが浮かばない。
「同じ人間が二人いてはいけないんだ。すまない」
 院長の声が言った。そういえば僕は卒業するらしい。
「大丈夫ですよ院長、その内慣れますよ」
 知らない声が院長に声をかけたようだった。
「君はいつもそう言うんだな。何度経験しても、慣れないことはあるもんだ」
「そろそろ、もういいですか?」
「ああそうしてくれ」
 

リピート・アフター・クローン



     1

 健太が自分で自分の目玉を潰してしまった。色鉛筆をグーで握って、一刺し。真二も亮平も僕も口を開けたまま固まったが、和明だけは刺さった目玉を指さしてケラケラと笑っていた。
 絵美が受話器に走って院長を呼んだ。すぐに院長と何人かの先生が来て、その場は解散となった。
 次の日、健太を除いた僕たち四人は畳部屋に呼び出された。施設内にある唯一畳のある部屋だ。
 全員、正座して院長の顔色を窺う。普段なら頭髪と髭が真っ白なのに対しておちょくり、触り、はしゃいだりする日常があったかもしれない。けれど今はとても軽口を言えるような空気ではなかった。
 唯一、和明だけがニヤけた顔で落ち着きなく上半身を揺らしている。
 畳部屋に窓はなく、照明となるのは人工の光だけだった。
「何があったのか聞かせなさい」
 色を識別できないのをからかっただけだ。今回が初めてというわけじゃない。まさか目を潰すなんて誰が想像できる。すねた口調でそう答えたのは、真二だった。
「真二、一番年長のお前がそれでどうする。やっていいこと、悪いことの区別くらいわかるだろう」
 院長は真二をまっすぐ見つめ、徐々に視線を他の人にも向けていく。
 真二は目をそらした。絵美はずっと俯き、亮平は泣いていた。和明は目を合わせようともせず、体を揺らしたままだ。僕だけが目を合わせたままだからか、視線は僕を見たまま止まった。
「耕平、誰が健太を苛めた?」
「別に苛めてたわけじゃないけど」
「悪いことをしたら、正直に告白しないとダメだ」
 丁寧に諭すように言って、決して怒鳴ることはない。院長が声を荒げるところなんて見たことがない。
「耕平、お前はいくつだ? もう十一だ」
「何歳かなんて関係ないよ、どうして僕に聞くのさ」
 真二が十二歳で、僕が二番目に年齢が高かった。それが何だと言うのだ。
 院長は首を振って、目頭を掻いた。
「お前たちには立派に育ってほしい。頼むから正直に言ってくれ」
 聞きたくなかった。立派に育つとか、院長には大人の意見を押し付けてほしくなかった。 
いつものように笑顔で話しをしたかった。
「健太は目が見えなくなったんだぞ。取り返しのつくことじゃない」
「見えないのって片目だけだろ。だったらもう片方は見えるからいいじゃん」
 知らん顔を突き通していた和明が横槍を入れた。
「和明! お前はなんてこと言うんだ。ならお前は片目が見えなくなってもいいというのか」
「だっておれちゃんと見えるし、だったら潰さなくていいじゃん」
 院長はそれには答えなかった。わかったとだけ言うと、正座を崩す。片足ずつ、時間をかけて立ち上がる。
「ワシには手におえん。先生たちに説教をしてもらう」
 全員の目が院長を向いた。泣いていた亮平が一瞬黙り、またすぐに泣き出す。
「わかった、言うよ」
 真二が立ち上がって言った。受話器に向かう院長を静止するように手を広げる。和明は大きく息を吐いて、背後に倒れこんだ。
「わたしは何も言ってないのに」
 絵美が独り言を言うように小さく零した。僕は立ち上がって真二の隣に立った。
「僕たち別に先生に怒られるのが怖いからとかじゃなくて、本当に何て言ったらいいかわからなくて……ごめんなさい」
 頭を下げると、真二も続いた。
 院長は一分ほど考えこんだ。その間、亮平と絵美も立ち上がって頭を下げた。
 最後に和明がごめんなさいと言った。一番深く頭を下げていたが、ただみんなの真似をしただけにしか見えなかった。
「今日はもういい。あとで健太にも謝るんだぞ」
 受話器から離れる。先生を呼ぶ気はもうないようだった。変わりに、もう一度全員の顔を見た。今度は誰も目をそらさない。
「もう自分の部屋に戻ってゆっくり休みさなさい。明日また話を聞くから、ちゃんと自分の中で整理をつけてくるように」
 はいと返事をして、それぞれの部屋に戻った。廊下では誰も喋らなかった。

     ◇

 結局、健太は残った目玉も潰してしまった。治療を受けて落ち着いたかと思えば、食事中に箸を使って、一刺し。それ以来、健太の世界は自室だけが全てになった。外に出ることはなく、リハビリを受けようともしない。オムツを着るようになった。大人たちを除いて僕以外と会うことを拒んだ。だから直接謝ったのは僕だけで、真二たちは電話越しに謝罪しただけだった。それだって健太は無視を通した。
 健太の態度に真二たちの罪悪感は消えてなくなり、若干の心配をしていた絵美でさえ健太の名前を聞けば機嫌を悪くするようになった。
 僕だけは健太と会うことがあったが、そのことに対して何か言ってくることはなかった。当然、健太の話題は出さないようにした。
 健太は初めからいなかったかのような扱いになった。先生たちはそれに対して何を言うでもなく、何時も通り授業を進めた。院長は何気なさを装ってはいるものの、本音では何とかしてやりたいと思ってるいに違いなかった。
「いまから遊びに行ってもいいかな?」
 電話口から聞こえる院長のかすれた声。
「今から? もう八時だよ」
「眠たいかい?」
「僕は大丈夫だけど。院長は寝なくていいの?」
「ああ、ちょっと話したくてね」
 こうやって院長は部屋に遊びに来ることがあった。六十を過ぎると人と話すことくらいしか楽しみがないと言うだけあってよく喋るし、人の考えていることを当てるのがうまかった。僕自身、院長と話すのは好きだ。
 六畳半の部屋には勉強机があり、ベッドがあり教科書がある。奥にはおもちゃ箱があって、本棚がある。
 漫画を読んだりテレビを見たりするときは地べたに寝転び、よく座布団を蹴飛ばしたりする。けれど院長が来るときはちゃんと真ん中辺りに戻しておく。
 ノックの音がした後、横開きにドアが開かれた。僕は院長が座布団に腰掛けるのを待った。以前、背中を押して急かし過ぎたせいで転倒させてしまった事がある。それ以来僕は院長の体を乱暴に扱うことはやめた。
「ふう、ここの座布団は座り心地がよくてね、つい来たくなる」
 僕は院長の傍に寝転んだ。
「それ、どうせみんなにも言ってるんでしょ」
 院長は笑って鼻の頭を掻いた。夜だといつも眼鏡をかけていて、掻く度に上下に動く。僕が眼鏡をかけると、視界がぼやけて何も見えなくなるのが不思議だった。目が悪くなるからと、なかなかかけさせてくれない。
「耕平が最後に健太と会ったのはいつだったかな。確か……」
「五月の最後だよ」
 事件があってからもう二ヶ月が経っていた。今では月に、二、三回会う程度の仲だ。
 目が見えないので閉じこもりっぱなしなのはしょうがないのかもしれない。そう思う一方で、やっぱり何かもったいないなと今でも思っている。
「今回みたいなケースは初めてでな。ワシもどうしたらいいかわからんかった」
「僕に言ってもしょうがないよ。だってわからないもん」
 健太は大人たちの中でも院長とだけは会いたがらなかった。どうしてなのか聞いても教えてくれない。
「耕平、お前は賢い子だ。お前だけはいつも賢い。もちろん真二たちが賢くないと言ってるわけじゃない」
 院長とパズルで遊ぶときがあれば、僕がみんなと遊んだ時の事を聞かせる日もあった。そういう時、院長はずっと笑顔でいた。
 けれど今みたいに真面目な顔をして、どこか疲れた様子で難しい事を話す日もあった。そんな時は僕も嫌な顔をしないようにしたし、実際嫌な気はしなかった。疲れているのなら寝た方がいいと思っていた時期もあったけど、院長は話をするのが好きなのだ。僕は上体を起こし、足の裏同士をくっつける格好で院長と向き合った。
「みんないつかは必ず卒業するんだ。耕平、お前もそうだ」
 十六歳を迎えると、この施設から卒業する。立派な大人として、新しい人生が待っている。
「卒業したら、どうなるの?」
 どれだけ同じ話をしても、院長の丸い顔から笑顔が消えることはなかった。ただ、卒業について聞くときだけは違った。一瞬表情に影が落ちるのを僕は知っている。だからなるべく言わないようにしていた。今は真面目な話しをしている時だから、言ってもいいと決めていた。
「それは卒業してからのお楽しみだ」
「新生活のスタート?」
「そう。いつまでもワシと一緒にはいられんからの。いずれはワシの事なんか忘れて家庭を作って、お父さんになる。それがごく普通のことじゃ」
「無理だよ。だって外に出られないんだよ、僕。無理だよ、ずっとここにいてもいい」
 部屋に窓はあるがずっと閉めたままだった。網戸も締めて、太陽の光が入って来ないようにしてある。
「そんなことはない。テレビから見る外の景色はどうだ。太陽だって映るだろう。どうだ、それでも怖いか?」
「それは怖くないけど、考えただけで嫌な気持ちになるよ」
「今こうして話せているだけで進歩しているんだ。昔はテレビから見える程度でもダメだったんだ。それが今ではどうだ? もっと自信を持て」
 そう言って、僕の頭をなでた。院長の言葉を聞くと本当に自信が湧いて来るように思えてきて、外に出られる気がしてくる。ただ、テレビの映像がダメだった記憶なんてなかった。
「けど、やっぱりダメだよ」
 なでる手が離れた途端、沸きかけた勇気が消えていく。もっとなでてほしくて院長に抱きつくと、無言で背中をさすってくれた。それが気持ちよくてしばらく全身を預けていると、瞼が重たくなってきた。
 時折、院長が何か言っているがよく聞こえない。
「お前たちはワシの生徒。絶対にまともな生活を送れるようにしてやるからな」
 
     ◇

 授業が終わると体育館に移動した。外に出て遊ばないのは、みんなが気をつかってくれているからだろう。僕がいるときは体育館で遊ぶのが暗黙の了解だった。みんなが外で遊びたそうにしている時は、僕は部屋に戻るようにした。鬼ごっこやかくれんぼをして遊ぶ自分を想像しては、うまくいかずに眠ったりする。
 体育館倉庫にはバスケットボールからテニスラケットまで何でも揃っていて、その日は絵美の得意なバトミントンをして遊んだ。絵美は気分が乗らなかったり急に飽きたと言って部屋に戻ってしまうことがあったが、その日は大丈夫だった。
 みんな汗だくになって、夕方を過ぎる頃にはバテて解散になった。
 六時前になると夕食が待ちきれなくてみんなが台所に集まってくる。コロッケにポテトサラダ、焼き魚にみそ汁。
 五つあった椅子は今では四つに減っている。夏を向かえようとしている今でも、健太の話題は誰も口にしない。
 
     2

 八月を迎えると気温は三十度を上回り、室内にいても汗が吹き出るようになる。
 熱い時期はいつも和明の機嫌が悪い。上半身は裸で、常にうちわを仰いでいる。うちわがない時は苛々して物に当たる。亮平や絵美を泣かしたりするし、真二に八つ当たって逆に泣かされていたりした。僕も物を投げられた。だから八月から九月辺りまでは、和明とは距離を置くのが当たり前になっていた。
 涼しくなると何事もなかったかのように輪に戻ってくる。みんなはそんな和明を迎え入れる。僕が外に出られないように、和明は熱いのが我慢できないのだ。体を動かして出る汗とは違う。みんな知っているから喧嘩することはあっても、攻めたりしない。
 九月の終わり頃、僕は久しぶりに健太の部屋に行くことになった。
 その頃には月に一回会うか会わないかになっていて、徐々に疎遠になりつつあった。先月は健太が会いたくないと言って僕を拒んだ。
 今回会うことになったのは、健太が僕と話したいと院長から聞いたからだった。そうでなければ今月も会いに行かなかったかもしれない。
「ごめん耕平、前は追い返したりなんかして」
 健太はベッドに背を預けていた。テレビからはアニメが流れている。いつも通り目には包帯が巻かれている。当然、視力はないだろう。
 ドアノブの前に棒立ちしたまま僕は言った。
「最近会ってないからわかんないけど、なんか元気ないね」
 健太は四月に両目を失くした。初め、目が見えなくなって安心しているのだと豪語していた。目を失う以前より声に覇気があって、病的なまでにテンションが高かったのが印象的だった。僕としては疲れることが多くて、あまり会いに行かない理由のひとつでもあった。最も七月を過ぎた頃には、高揚した様子も影を潜めていたが。
「うん、なんか色々嫌になったんだ。それを言いたくて……迷惑だよね。ごめん」
 苦笑する健太の顔色は悪かった。膨れ気味だった顔の肉がすっかりなくなっている。食事を残すことが多くなったと、院長が言っていたのを思い出す。
「なんで僕にだけ言うの? みんなを拒絶してさ。院長にも会わないし」
「耕平、今日なんか怖いね。やっぱりずっと怒ってたのかな」
「あのさ、みんなに会ってよ。健太、もういない奴みたいになってるよ。先生でさえもそんな感じ」
 今までは僕が一方的に会いに来るだけだった。今回初めて健太から会いたいと言って来たのだ。ならちゃんと、今こそ僕の疑問に答えてもらうつもりだった。
「ねえ耕平、僕さ、本当は院長の事もみんなの事も全然嫌いなんかじゃないよ」
「そんなこと知ってるよ」
 奥に見える窓にはカーテンがかけられている。僕が言わなくても来るとわかれば予め閉めてくれている。そう思ったところで、少し感情的になっている自分に気がついた。
「そんなとこに立ってないでどこか座りなよ」
「あ、うん」
 言われるまま僕はいつものスツールに腰掛けた。お尻を乗せると金属の軋む音が鳴った。 
 このスツールは僕が訪ねに来るようになってから用意されたものだった。
「耕平は……耕平はさ、僕の目についてからかったことがないし。なんか人によって態度変えたりしないから。嫌じゃないんだ、全然」
「そんなことないよ。それに院長だってからかったりしない」
「そうなんだけど、なんか院長はさ、みんなに優しくして、僕にも優しいけど、僕がいない時もきっと優しくて。なんか、会いたくないんだ」
 言葉にできない想いがあるようだったが、僕には理解できそうになかった。
「院長だって人によって態度変えないよ」
「……うん。ごめん、なんかわかんないや」
「このままずっと一人でやっていくつもりでいる?」
「実はさ」
 自分の膝をさすって、一字一句もったいぶるように健太は言った。肩を上げて、様子を伺うように僕を見る。健太には目がないので、どこ見返せばいいのか戸惑った。
「ぼく、卒業するらしいんだ」
「え、卒業?」
 健太は僕の二つ年下だった。まだ九歳で、卒業するには早い。
「聞いちゃったんだ。僕を卒業させるって」
 院長や先生に直接言われたわけではないようだった。伺うように僕を見る姿勢は変わらなかったが、目線を外すとか思えばまた僕を見たりと、忙しく動き回っている。
 僕は何も言わず、健太が話し終わるのを待つことにした。どう反応するか待っている様子だったが、構わず無言を突き通した。
「ねえ耕平。クローンって言葉しってる?」
 僕は首を振った。初めて聞いた言葉だった。
「ぼくはもうダメなんだって先生が院長に言ってたんだ。新しいクローンを用意しようって。もう卒業させよう、って」
 卒業したらどうなるのか。それは卒業してからのお楽しみだと院長は言っていた。
 健太はもう駄目だという。駄目だから卒業させるというのだろうか。そして新しいクローンを用意する。
「ぼくどうなるの? 捨てられちゃうの?」
 健太はベッドから身を乗り出して、傍に座ったままでいる僕の腕を取った。まるで目が見えているようだ。咄嗟のことに掴まれた腕を振り払った。
「そんなの知らないよ。僕にきかれても」
 健太は既に涙目だった。
 次の体は別の階に移せばいい。先生が院長に言ったそうだ。
 健太は誰かに相談したくて僕に会いたがっていたのだ。他に話せる相手がいないから。そんなに不安がっているのなら真二たちも呼べばいい。みんなでいた方が安心できるのにと、そう思った。言うとまた口ごもるのがわかっていたので声には出さなかった。
「どこで聞いたんだよ、そんなこと」
「実は……リハビリしてたんだ。こっそり、一人で」
 健太は部屋から抜け出したことがあると院長から聞いたことがあった。わーわー騒ぎ立ているところを連れ戻して、きっと精神的に苦しかったのだろうと言っていた。そんな事が一度だけあった。
「院長、心配してたよ」
 院長から聞いた話を伝えると、健太は今日初めて口元を緩めた。
「うん、悪いことした。けどあの一回だけだからね」
 一人で歩く練習をしているのを知られなくなかったから、とりあえず騒いで、それで終わりにしようとした。
 目が見えない中、一人で廊下を出歩くのは凄いと思った。ただ、どうせやる一人でやらずにちゃんと先生たちと協力してやればよかったのだ。わざわざ隠れてやる必要性を感じないが、それを言うのは野暮だった。
「卒業ってなんだろう」
 僕は言った。健太はベッドにもたれかかり、わからないと呟いた。

     3

 卒業したら施設を出て行かなくてはならないのだろう。出て行くということは外に出るということ。なら一生僕には縁のないことだと思っていた。十六歳になったら卒業すると院長は言っていたが、症状が治るまでは絶対に見捨てないとも言っていた。
 先日、健太と話した。院長が真面目な話しをするように、僕たちは真面目だった。やがて答えは出ないまま話題は変わっていった。和明の機嫌について話すと健太は苦笑した。仕方ないよ、と言う。
 部屋に戻ってからはクローンという言葉の意味を考えていた。卒業させてもクローンを用意すれば問題ないとはどういうことなのか。次の体は地下に移せばいいというのも、意味がわからない。
 施設に地下があること自体初めて知った。何階建てで、今どの階にいるのかもわからなかった。階段はないし、エレベーターは鍵を回さないとやってこない。真二たちは外で遊ぶことがあるので乗ったりするだろうが、僕が乗ったことがなかった。乗りたいと思ったこともなかった。
 授業が終わり、みんなと遊んで、院長と話しをする。いつも通りの毎日が続く中、健太と話した時の事が頭から離れなかった。院長の笑顔を見るたびに違和感を覚えるようになった。
「今、行っても大丈夫かな?」
 電話口から聞こえる院長のかすれた声を聞いて心臓が高鳴った。気温の低下は夏の終わりを意味していた。秋の風は寒くて涼しいと亮平は言っていた。僕は外気を浴びないから言われてもわからない。
 院長はすぐにやってきた。いつも通りノック音がして、真っ白な毛を生やした顔が覗く。大きな眼鏡をかけている。僕を見ると顔を綻ばせて、ゆっくりとした足取りでいつもの座布団に座る。僕は院長の方を向く形で、ベッドで横になっていた。
 食べ物の話をした。食事がおいしかった、嫌いな食べ物が食べられるようになった。院長は偏食家で、嫌いなものがあるとすぐに食べ残した。食べないことに対して院長が言い訳をすると、何故か絵美が怒ることがあった。怒ったままキッチンから出て行こうとすれば、慌てて残した物を口に含んで苦い顔する。
 話していても、時計の針の音が耳から消えなかった。
「もう九時だ。今日はこの辺にしようか」
 今日も楽しかったよ。うんばいばい、今度はいつ来てくれるの? さあ、いつだろうね。
 普段のやり取りが頭の中を駆け巡る。僕は毛布を力強く掴むと、勢い良くベッドから降りた。腰に手を当てて立ち上がろうとする院長に制止の声をかける。院長は再び腰を落ち着け、眉を上げて僕を見た。
「話し足りないんだ。まだ話したい」
 僕がそう言うと、院長は唇に手をあてて考え込んだ。時間が遅いし、やることがあるからわがままを言わないでくれ、と院長は言った。
「もうちょっとだけでいいから、お願いだよ」
 手を合わせて、目を瞑る。院長の吐く息がして目を開け顔を上げると、困った顔をした院長がそこにいた。立ち上がる様子はない。
「わかった。ただしもう少しだけって約束できるならだ」
 指を立てて、約束の部分の言葉を強調した。
 僕はうん、とだけ答えてその場に座り込んだ。普段なら声を上げ手を挙げ喜びの声を上げただろう。
 足を伸ばし、ベッドを壁代わりにもたれかかるが、どうしても体に力が入ってしまう。
「聞きたいことがあるんだ」
「聞きたいこと? 何かな」
「卒業したらどうなるの?」
 本当は別の事を聞くつもりだったが、咄嗟に言葉を変えてしまった。
「いや違う。違うんだ」
 首を振って言い直す。院長には僕が何か悩み事を抱えているように見えるかもしれない。実際そうかもしれない。単純な疑問。悩みと言っていいのかもわからない。
「言ってごらん、遠慮することはない」院長はそう前置きした上で、先を続けた。「そうだ、当てて見せようか」
 得意げに鼻をならして、さらに先を続ける。
「きっと健太の事だろう?」
 一言喋る度に若干の間を空けて、丁寧で、どこか茶化すような口調。
 時間がないだろうに、全力で僕のわがままに付き合ってくれていた。それが嬉しかったけど、僕は真剣に聞きたいことがあった。疑問を口にすることで院長が困るかもしれない。真面目な話をする時は決して楽しい雰囲気ではないけど、どうしても聞きたかった。
「クローンって、何なの?」
 健太は自分が捨てられてしまうのではないかと本気で信じていた。僕は院長の顔をじっと見て、反応を待った。
「……どこで知った?」
 表情が固まり、動きが止まる。取り繕うように顔を緩めるが、どう見ても不自然だった。
「院長と先生が話してるのを聞いた」
「……忘れなさい」
 逃げるように視線をそらすのは、何か後ろめたいことがあると認めているようなものだった。
「院長って結構わかりやすい性格してるよね」
 適当にごまかしてくるかと構えていただけに、院長の反応は拍子抜けだった。
「耕平、いい加減にしないさい」
「いい加減にしなさいじゃないよ。健太、泣いてたよ」
「健太? 健太がどうしたって?」
「あっ」
 しまったと思った。口を空けたまま、閉じるのを忘れる。
「なんでもいいよ。なんとなくだけど、察しはついてるんだよ」
 嘘だった。だんだん院長の顔が険しくなっていくが、今更引き下がれるわけがないのだ。
「今日はもう終わりだ、寝なさい」
 さよならの挨拶を言えるような雰囲気ではなかった。院長が立ち上がるのを手伝うこともせず、部屋から出るのをただ黙って見送った。
 
     4

 冬になると真二たちが外に出る頻度は減り、ほとんど施設内で遊ぶようになった。
 その日は畳部屋でトランプをして遊んでいた。その後ボードゲームをしていると先生がやってきた。 
「お前たちに言っておくことがある」
 先生の登場に全員が手を止め、場は静まり返った。授業中以外に顔を見せる事なんてないのでとにかく珍しかったのだ。最も僕は院長と顔を合わせるのが気まずくなっていたので正直ほっとしていた。
 最近の院長は常に考え事をしている感じで、明らかに元気がなかった。それをみんなに指摘されては、ごまかした笑顔を見せる。向こうから積極的に話しかけ来ることもない。距離をとっているというよりは、どう話しかけていいのかわからないという感じで、心境は互い同じなんだと思った。
「急な話になるが、めでたく健太が卒業した」
 健太は今では存在しないように扱われてきたし、卒業したと言われても何と返せばいいのわかるはずもなく、誰も返事をしなかった。
「あと、余計なことは考えないように」
 用件だけ伝えると、すぐに去っていく。扉の閉まる音がした後、みんな我に返ったように顔を見合わせた。
「健太、卒業だって」
 一番最初に口を開いたのは亮平だった。
「まあ、よかったんじゃない?」
 続いて絵美が言った。早くゲームの続きをしようとボードを指差す。
「なんで俺より先に卒業してんだよ、アイツ」
「真二、卒業したいの?」
 真二の言葉に、和明がボソっと呟く。
「そういうわけじゃねえけど」
 みんなの会話を耳に流しながら、僕は不安な気持ちになった。
 先生が余計なことを考えるなと言ったとき、明らかに僕を見ていた。健太が卒業させられたのも、実は僕のせいなのではという根拠のない気持ちが込みあがってきて、いてもたってもいられなくなった。
 なんやかんやと言いつつもみんな興味はないようで、すぐにボードゲームを再開した。
「なんだよ耕平、さっきから黙って。ションベンでも行きたいのか」
「違うよ。ちょっと考え事してただけ」
「耕平さっきからつまんない」
 絵美もご立腹の様子だった。健太の事が頭から離れず、正直ボードゲームどころではなくなっていた。
「ごめん、部屋に戻る。ちょっと気分が悪い」
 健太と話した事について言うべきかずっと迷っていた。さっきの反応を見る限りでは、話してもしょうがないと思い黙っておくことにした。
「なんか卒業って聞いて、それで外に出るとこを想像しちゃって」
「……しょうがないな。それなら早く言えっての」
 引きとめようとする声を嘘でやり過ごした。こうなるとみんなも何も言ってこない。
「ごめん、ちょっと気が回らなくて」
 僕は畳部屋を後にした。
 部屋に戻るまではいいとして、何かしようとしていたわけではなかった。手持ち無沙汰になり、部屋の中をうろついた。
 特に何を思いつくわけでもなく、結局院長と話すしか先に進む道はなかった。道と言ってもどこを目指しているのか自分でもわからない。実は僕が勝手に違和感を覚えているだけで、いつも通り遊んでいる真二たちの方が普通なのかもしれない。何が正解であれ、これまでの疑問が解決されていないのだから、気にするなという方が無理だった。
 受話器を手にとってコールボタンを押すが、どれだけコールしても出ない。数分置きに何度か電話し直すが、意味はなかった。
 結局どうすることもできずそのままベッドに突っ伏して、気づけば朝になっていた。
 随分と長く眠ったようで、夕食を食べていないので空腹だった。
 例え僕が寝ていても夕食の連絡が来たら起こされるはずだった。
 何にせよどうすることもできないので、とりあえず朝食の連絡を待つことにした。七時まではあと一時間もある。それまで宿題の見直しでもすることにした。ところが七時を過ぎても連絡が来なかった。おかしいと思いつつ勉強部屋に行ってるみと、みんながいた。おはようと挨拶を交わす。
 どうやら誰にも連絡が言ってないようで、腹を空かせているのは僕だけではないようだ。聞けば昨日の夕食から連絡がないという。昨日僕が部屋に戻った後しばらくは遊んでいたが、夕食前になって一度解散したらしい。それから一度も先生や院長からの連絡はない。
「先生の野郎、遅刻かよ」
 授業がないのは喜ぶべき事だったが、食事がなくてはどうしても空元気になってしまうのは当然だった。和明だけは空腹じゃないのか、一人黒板に絵を描いて遊んでいる。せっかくの先生不在だというのに遊ぶ気力もなく、ただ無言で椅子に座って先生が来るのを待った。
 十時頃には教室にいても仕方ないということでみんな自室に戻った。後はひたすら連絡を待つ。他にすることもなく、腹は減り、喉の渇きが合わさって落ち着きがなくなっていく。
 昼を過ぎた頃にもう一度教室へ行ってみた。亮平一人が席に座って全身を机に預けていた。僕が来ると顔を上げて空腹に対する同意を求めてきた。
「喉も渇いたしお腹減ったし。このまま死ぬ気がしてきた」
 気の沈んだ考えしか浮かばない気持ちはよくわかった。階段はなく、エレベーターも使えない。僕たちには直接呼びに行く手段がないのだ。どうしよもなく、後は待つことしかできない。叫んだとしても意味はなく、そんな気力もない。
「何かあったのかも」
「そんな。見捨てられたってこと?」
「どうしてそうなるのさ」
 喋る気力もないのか、亮平はそれっきり黙った。
 一時半を回った頃、和明がやってきた。暇を持て余していたようで、またチョークで黒板に絵を描き始めた。さすがに空腹を感じたのか、ご飯はまだかと聞いてきた。僕はわからないと答えた。
 頭痛を感じるようなそうでないような、苛々が露骨になっていく。かと言って感情をぶつける相手もいない。物に当たりがちな和明も今回ばかりは誰にもやつ当たることはなかった。黒板で遊ぶのが飽きたのか、また僕に先生はどこだと尋ねてきた。
「だから知らないって」
 面白い話でもできれば多少の気はまぎれるかもしれないが、皮肉の一つすら言える余裕がなかった。何も食べてないのはもちろん、本当にどうすればいいのかわからないという不安も精神的にダメージを与えていた。
 絵美と真二が戻ってくるのは当然の成り行きだった。二人とも廊下を歩き回ったり口にできそうなものを探したりしていたようだった。無駄な行為なのはわかっていただろうが、何もせずにはいられなかったのだろう。
 真二は強く椅子を引き、半ば飛び乗るようにして座るとそのまま机に顔を埋めた。絵美は机に乗って足をぶらぶらさせて髪を掻き毟っていた。
 教室の受話器が鳴ったのは三時前のことだった。鳴った直後、眠っていた亮平と絵美が首を上げた。真二が立ち上がり、和明は無反応だった。今まで待たされたことへの怒りと、ようやくかかってきた嬉しさで表情筋が忙しく、引きつったような顔になる。
 受話器の傍にいた僕が通話に出た。
「みんなそこにいるか?」
 相手は院長だった。暴言の一つでも吐きたいところだが、そんなのは後でいい。
「みんなお腹すいて死にそうなんだよ。なんでもいいから早く来てよ」
 語気が強くなるのは、空元気というよりも脱出寸前の力強さだった。大声を出すのも面倒だと思える中、数時間ぶりに自然と腹から声が出る。それを実感すると、気が抜けて全身の力が抜けそうだった。それこそ空腹のせいかもしれない。
「すまん……本当にすまん!」
 気づくのに遅れたが、院長の息は乱れていた。大人たち全員で出かけていて、今急いで戻ってきたのかもしれない。
「そんなのいいから早く来てよ」
 何かトラブルがあった等の考えを浮かべる余裕なんてなかった。
「お前だちに謝らなければならん。いや謝って済むことでは……」
「だからそんなの後で良いから!」
「……悪かった。すぐ行くから待っててくれ」
 五分後、院長はリュックサックを抱えてやってきた。顔はやつれ、目の隈が目立ち、手で腰を抑えている。
 リュックサックに入ったペットボトルを開けて、一気に飲み干す。生き返った気分になり、実際亮平は声に出して喜んでいた。他の人は無心で飲み物を口に含んでは、呼吸を吟味している。
 喉が潤うと、院長に注目が集まる。次は食べ物だという意思から、自分たちを放置したことを攻める視線。絵美は拳を握り締めて今にも噛み付かん勢いを見せていた。
「終わった、全て終わった……すまん、本当にすまんかった」
 何を言うかと思えば、院長は床に手をつけ土下座を繰り返した。誰かが土下座をしている姿を見たのは初めてだった。わざわざ首を床につけて、何がしたいのだ。純粋な感想だった。
「健太を卒業させたのが間違いじゃった。ワシがちゃんと止めていれば……!」
 独り言のようにぶつぶつと繰り返す。何かを口走る姿は懺悔しているようで、言い逃れをしているように聞こえて、言い訳というにも無理がある。僕からすれば見当違いな事を口走っているようにしか見えなかった。謝るのはいいにしてなぜ健太の名前を出すのか。何が全て終わったのかもわからず、自己満足で言っているのかと疑いたくなる。
 飯を出せ、今まで何をしていた、遅いんだよ。ひどいよ。真二たちも院長に対して各々言葉をぶつけていた。
 僕は何も言う気が起きず、歯を食いしばって院長を見下ろすことしかでなかった。
「お前たちはワシの生きがいじゃった。けどもう終わりだ。すまん……すまん」

     5

 二×××年六月、ゼロ歳から成るクローンの生成に成功。ただ、完璧なクローン人間をつくるのは困難だった。生成後に必ずと言っていいほど何かしらの問題が付きまとう。
 例えば、三十歳のアルコール中毒者のクローンを赤子から生成すると、幼少期からアルコール中毒に似た症状が出始めた。後天的に脳に障害ができることも多々報告されている。同じ患者で生成を繰り返す度に劣化していくかどうか、否定肯定どちらにしても断言することはできない。
 研究は内密に行わなければならない。そのため健常者のサンプルは非常に少なく、手に入るのはどこかしら欠陥を抱えた、麻薬中毒者などの堕落した患者がほとんどを占めた。全うに生きる人間を拉致できる時代でもない。協力者は期待できず、とにかく内密であることが絶対であった。
 研究はなかなか進展する気配を見せなかった。
 そして同年十月、追い討ちをかけるような事が起こった。一人の研究員が内情を暴露してしまい、およそ百二十名にも渡る研究員が逮捕されることとなった。取締りが厳しくなり、患者を手にいれるのにもより困難を極めるようになった。せっかく確保できた患者を没収されるなど、たまったものではない。
 急遽、日本から離れた小島にある管理施設に移送するが決まり、研究もそこで行われることになった。廃棄した施設とは言え、小規模な補強があれば十分使用可能だったのが幸いだった。廃棄してたからこそ、一斉調査の時に存在が露呈しなかったとも言える。
 施設で残った患者の成長過程を記録。一定の年齢を過ぎたら再び赤子から生成し直すことにする。成長した患者は処分。可能であれば労働力として活用したいが、くれぐれも注意が必要。研究に発展があれば、それにあわせて改変していくだろう。
 施設の職員はある程度教養のあるホームレスを雇うことで人員の少なさを補うことにする。
 犯罪行為が徹底的に排除される今日、慎重を極めなければならない。再び世間の目に触れることがあってはならない。

     6

 もうすぐ二十三歳の誕生日だった。
 あの日、うずくまる院長に声をかけることもできず、ただ呆然と突っ立っていることしかできなかった。大勢の警官が押しかけてきて院長を連れて行った。実物の警察官を見るのは初めてだったが、制服を見た瞬間にわかった。
 その後、僕たちは保護された。院長の顔は涙に濡れていて、僕たちに謝罪の言葉を投げかけた。
 警官は僕が外に出られないのを知ると、目隠しをして対処した。それでも外に出ると空気が変わるのがわかり、僕は暴れた。
 クローンについても知った。僕たちは殺されては産まれてを繰り返していたらしかった。外に出られないのを障害と呼ぶかは別として、症状が治った完全な固体が産まれれば、院長は僕を人の住む土地に連れて行き、引き取ってくれる人を探すようだった。院長はそう思っていたようだ。だけど多分、あのままだと僕は研究体として永久に時を過ごしていただろう。
 院長はもともとホームレスの人で、生きる気力もなく惰性で毎日を過ごしていたようだった。そこに知らない男から施設の話しが来た。僕たちを育てることに喜びを感じて、進んで面倒を見るようになった。院長自身、いい様に使われた被害者なのだろう。
 保護された後、一度だけ院長に会った。僕を見て、ありがとうと言った。耕平はワシの生きがいだったと、自分の子供のように思えたと。生涯独身だった院長は、そう言った。院長自身、クローンとして何度も生き死にを繰り返していた。僕らと違って年齢、記憶を継続していたようだ。
 僕は結局外に出ることができず、今は精神病院で軽度の患者たちと毎日を過ごしていた。みんながその後どうなったのか詳しくは知らない。普通の暮らしを全うしている奴もいるだろうし、僕みたいに誰かの世話にならないといけない奴もいるだろう。真二なんかは普通に仕事をしていそうだ。
 ただ一人、絵美の行方だけは知っていた。
 インターネットをつなげばアイドルとしての絵美がいる。もちろんテレビで活躍するようなタレントではない。ネットの中だけで生きているようなものだ。
 ファンに接待をしてお金をもらったり、水商売をして生きているようだった。自傷行為もしていて、完全に堕落している様子だった。そんな絵美を見たくなくて、もう何年も前から絵美の情報はシャットアウトしていた。
 和明と亮平はどうだろう。まったく情報がないのでわからないけど、元気でやっているだろうか。
 健太は卒業した後、新たな命として生まれ、僕たちとは別の場所で育てる予定だったらしい。だが急遽大陸に運び出すことになり、運んでいる道中にヘマを犯し、世間にバレてしまった。
 僕たちは保護されて助かったといえるかもしれないけど、健太にはつらい人生だろう。今は僕と同じ病院にいるが、重度な患者の為一緒にいることはできない。世間から隔離され、病院内からですら危険扱いされている。
 僕はそれなりに元気に生きているつもりだ。時々病院を見学しにやってくる人がいて、そういう人と話をするのが楽しみだった。太陽の光の恐ろしさや大気の苦しさは知りたくもないが、僕の知らない色々な事を聞くことができて飽きない。
 どうあっても院長の望むようにはならなかっただろうけど、何が最善なのかはわからない。
 院長は数少ない完成されたクローンだったらしい。なので僕の知っている院長が死んでいても、今でもどこかで別の院長として存在しているかもしれない。それとももうクローンを研究する機関は撲滅されているのだろうか。
 死んでは生まれてを一生繰り返して、院長やみんなと永久に子供時代を過ごす。
 ひょっとしたら、院長にとってそれが一番幸せだったのかもしれない。
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