「目が似てるから、きっといけるよ。ちょっと顔貸して。」
5月31日。高校三年生、私の18回目の誕生日は、月曜日だった。
朝から降り続いた雨は6時限目になっても止むことはなく、どしゃ降りが軒下でばしゃばしゃ言っていたのを覚えている。授業をサボって、わざわざ外の体育倉庫なんかで落ち合った二人には、その音は何かと好都合だった。
先に着いた私は、倉庫にあった埃っぽいブルーシートを適当に広げ、その上に鞄を放り投げた。靴を脱いで座り込み、彼を待つ。
がたり。アルミのドアが開く音に大げさに驚いた私に彼も驚いたような声をあげた。二人で苦笑いをしながら挨拶を交わす。
「あ、やべえ。鞄、教室に置いてきた」
「あはは、サボり慣れてないなあ、」
「うん。授業サボるのとか一周回って面倒くさいし」
言い訳とか。詮索とかもされるし。彼はそう言ってブルーシートの空いたところに座り、眼鏡を外した。眼鏡が無くても、生活に支障は無いらしい。眼鏡をしていない彼の顔は見慣れている。
「靴、脱がなくていいの?」
「いや、靴脱いだら逃げられないじゃん。誰か来ても」
「こんな雨の日にこんなとこ誰も来ないよ。それに鞄、教室にあるんだから、逃げようもないでしょ」
私が「諦めなよ」と彼の肩を叩くと、彼はその勢いに押される様にブルーシートに仰向けに寝転んだ。大の字に力を抜いた両腕がぎりぎりブルーシートに乗っている。頑なに靴を脱がない両足はシートからはみ出て砂にまみれていた。
「もう、この長い…足!邪魔だなあ、上乗って良い?」
「下腹部はやめてください」
「腹筋の方がやばくない?内臓出ちゃうよ」
「…お前はその体重全部乗せる気なのか?腹に膝着かなきゃ平気だよ、多分」
彼がそういうなら、と私は彼の上に馬乗りになった。ぐえ、と本当か冗談か彼が悲鳴を上げた。
「悲しいよ。普通は欲情するところでしょ」
彼は何も言わずに笑っていた。
好きな男の子と体育倉庫に二人きり。心躍るシチュエーションだ。しかし彼とは色気もそっけもない間柄だった。
ただの友達、でも私は彼を親友と呼びたいくらいには信頼していた。彼と私は、とてもよく似ていると感じていたし、一緒に過ごす時間はあまりに心地が良すぎた。
似たもの同士、彼にずっと寄りかかっていられるなら、恋人になれなくてもよかった。
今年の5月31日は月曜日。私への誕生日プレゼントの代わりに、私は彼に特別なお願い事をしていた。
真面目な彼に授業をサボらせて、こんなところで待ち合わせたのもその為だ。
『お化粧をさせて欲しい。絶対私と同じ顔になると思うから』
私は自分の鞄から、高校も三年目で使い古した化粧道具の入ったポーチを取り出し、彼の顔の横にぶちまけた。
「…母さんの匂いがする」
「おばさん、いつもちゃんとお化粧してるもんね」
彼の前髪をヘアクリップで持ち上げた。彼が地味に笑っている。
「…なに、今更照れてんの?」
「いいや。そのさ…」
「なに」
彼の歯切れの悪さも放って置けずに、それでも私は手を動かしていた。下地を手の甲に出す。出しすぎた。これ、容器に戻せるかなあ。
「人の顔って下から見上げると大体不細工になるよな」
「…アンタも今から同じ顔にしてやるわよ。化粧なめんな」
「下から見ると、だよ。美人にしてよ、せっかくだし」
彼の頬に手を伸ばす。少しかさついた肌に指を引っかけながら、油っぽい下地を丁寧に伸ばしていく。
私の心臓の音はとても早く、早くなっていた。
「こうして、男に、化粧する事もなかなか無いなあ」
「女に化粧される事もそうそう無いよ。自分でもしないけど、俺は」
「それは、どうだろう。案外いけるかもよ。びっくりさせてあげるよ」
「動くな。怪我するよー」
ビューラーを怖がる彼の顔を押さえつける。私の緊張はだいぶ解けて、楽しむ余裕も出て来ていた。
私の言葉に彼が固まっている間に、マスカラまで塗り終えた。再度のビューラーで睫を持ち上げることは諦めよう。
「うあー、女すげえ、ほんとすげえ、毎日こんな」
「慣れだよ、慣れ」
「毎日こんな思いしてまで、こんな、」
次はアイライン。私は息を詰めて彼に顔を寄せる。このままキスしたら、どうなるかな。なんて事を考えて、そして忘れた。他人に引くアイラインは怖すぎた。
震える手で彼の瞼を引っ張りながら、アイラインを引き終えた。私は彼に顔を近付けたまま、思わずため息をついていた。彼が、ぶっと吹き出したのを見て、しまった、と思った。
「もう少し目閉じててね。アイシャドウのせたら、もうほぼ完成だから」
「お前、キスする気だろ。絶対そうだろ」
「しないよ。しない」再びどきどきと逸りだした心臓に半笑いになりながら、私は彼の瞼に濃淡に分かれたブラウンのアイシャドウを乗せた。
もうこれで完成。彼が目を開ければ、私によく似た顔が出てくるはずだ。毎朝、毎日、いつも見慣れたあの顔が。
「してもいいよ別に。キスくらい」
彼がそう呟いて、瞼を開けた。
私は彼の言葉にときめく隙も無いほど驚いていた。
そこにあるのは、私の顔だった。
気持ち悪いほどに似すぎた、
…違う。
ほぼ同一人物と言っていいほどに同じ。
私の、顔だった。
自分の顔を目の前にしている。
その異様さに驚いて声も出せないでいる私の肩を、彼が掴んで抱き寄せた。私は抵抗する力も失って、彼の胸の上にどすんと落ちる。彼はむせながら笑っていた。
「あのさあ、何も言わないなら言うけど、」
「………」
「僕は君の事が好きだよ。」
「……同じ顔。」
「ん?」
「アナタ、私と同じ顔なの。気持ち悪いくらい。わたし、死んじゃうのかなあ」
「ドッペルゲンガー?無い無い。化粧はがしたら違う顔じゃん」
私の、化粧、はがしてみる?そしたらね、いつものアナタと同じ顔が出てくるんだよ。
アナタ、私のすっぴん、見たことないでしょ。
5月31日は月曜日。大好きな親友、彼女の18回目の誕生日。
僕は泣きじゃくる彼女にせがまれ、彼女を押し倒し、
メイク落としシートでせっせと彼女の化粧を落としていた。
なんだ、この状況。
「嫌いにならないで、」と彼女はさっきから繰り返している。僕は君が好きだと言った、ばかりなのに。
優しく優しく宥めるように、僕は彼女の化粧を落としていった。
次第に、ファンデーションより白い肌が露わになっていく。
瞼のアイシャドウを少しずつ落とす。彼女は震えていた。その手はどこを掴むこともなく、固く握りしめられている。
片目のアイメイクを落とし終えて、僕は既に違和感と 既視感 を感じ始めていた。彼女はまだ頑なに両目を閉じたままだ。
すべての化粧を剥がし終えた。彼女はまた震えながら泣いている。僕の心は罪悪感でいっぱいだった。
彼女に頼まれた事とはいえ、僕は彼女の嫌がることをしているんじゃないか。いや、いつかは見るものだ。…付き合うからには…。僕は喜びにふやけそうな口元を引き締めて、思い出す。
彼女からはまだ、先程の答えを聞いていなかった。ああ、でも、この反応なら、きっと。
だって、君と僕は似たもの同士。
「ねえ、」と彼女が口を開く。
「うん?」僕は出来るだけ優しく声を出した。
「約束して、」と、言いながら彼女は目をつむったまま身を起こした。次の言葉を発さぬまま、制服のブラウスの前をはだけていく。僕は目を逸らして次の言葉を待っていた。
「私と、その…色々、できると思ったら…付き合おう。」
「色々って」
「色々だよ!見ればわかるでしょ!?」彼女の声はこの気まずさを吹き飛ばそうとしているのか、少し大きくなっている。僕は彼女に視線を戻した。彼女の瞼はまだ閉じたままだ。
「できるよ」僕が即答すると、「できるわけない」とすかさず彼女の声が飛んでくる。
「とりあえず目を開けなよ」
僕はひそやかに、心の奥で覚悟を決めた。
「…そうだよね。私も無理かな。でも、ありがとう。好きだよ。ごめんね。愛してる」
瞼を開いた彼女は、僕と同じ顔をしていた。
僕は驚いた。
でも、だからって彼女の魅力が減った訳は無く、思ったより可愛かったとか。そういう事も考えていたけれど。違うんだ。僕はあの時、ただただ驚いていただけなんだ。
彼女は瞼を開いて、僕の驚いた顔を見たのだと思う。
『………ね?』と、顔を歪めた後、少し笑いながら僕の制服のパンツを降ろした。そして、先ほどの台詞を発した後、もの凄い早さで荷物をかき集めて、制服のブラウスの胸元を押さえながら、この体育倉庫を出ていった。
僕は、ずっと考えていた。
あの時、一言でもかけることが出来ていたら。
あの後、僕を避け続けた彼女にもっと上手く近付けていたら。
僕は君が好きだと言うことを。
僕が君に出来ることは、何でもしてあげたいんだ、ということを、
もっとちゃんと伝えたかった。
卒業しても、君に会いたかった。
僕にとてもよく似た人。心ごと、とても似ていた彼女のこと。
一緒にいた時間。
僕はあの心地よさを忘れることが出来なかった。
出来るなら、もう一度出逢いたいと、思ってしまった。
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