なんてことはない。5月31日、金曜日。それは私にとって特別な夜だった。
本日2回目のショーを待つ控え室。
僕は定位置に座って僅かな酔いを醒ましていた。今頃は、仲間達が総出でお客さんのテーブルを回って話を弾ませているはずだ。主役の出番はショー本番から。今夜の主役は"彼女"。
オネエサマ方がまつげに爪楊枝を乗せて喜んでいる声が聞こえる。さっきまでここでしていたことを、客前でやって見せてはしゃいでいるに違いない。
オネエサマ、つけまつげを新調したらしいよ。今日のは高いやつなんだって。
私の誕生日だから?
そう、人がね。客がたくさん来るだろうからって張り切ってる。
良い人なんだか、現金なんだか…。
でも良い事だろ?あの人見てると元気が出るよ。毎日がお祭りみたいでさ。
…なんだか他人事みたいね。アナタももっと張り切りなさいよ。
他人事だろ。君の、誕生日なんだから。
やだ、アナタの誕生日でもあるでしょ?
『認めなさいよ』
僕が鏡に視線を移すと、彼女と目が合った。
今日も彼女は綺麗な顔でこちらを見ている。
…今日、君、化粧濃くない?
化粧したのはアンタでしょ!なんなの?
いやあ、本当は薄化粧の方が好きなんだけど…オネエサマ達が今日は特別だって張り切ってるから。空気を読んだというか…でも、それにしたってさあ…
ここまで青いアイシャドウとかコントみたいよね。
でも、うん。似合ってるよ。映画みたいで良い。
あらそう。拳銃でも持ってみようかしら。そんな感じよね?
今更ショーの演出は変えられないよ。
…もう!だから馬鹿正直はイヤなのよ!冗談に決まってるじゃない。面倒だわ。
鏡に向かえば、僕はいつでも彼女に会える。
"彼女"は出逢った頃よりも大人っぽく、そして美しくなっていた。
伸ばした髪の毛は、あの時選んだカツラと変わらぬ程黒く真っ直ぐ。長く伸びて、浮き出た鎖骨を隠している。
2回目のショーも終えた。各テーブルへの挨拶回りをしている。
着物の胸元には、割り箸に挟まれた色とりどりの紙幣が押し込まれている。私はそれを落としてしまわない様に、大きな胸を押さえていた。
「お誕生日様!こっちこっち!」離れた席で奥様方が一万円札を振っているのが見える。何度も見たことのある顔ぶれだった。
きっとボトルも入れてくれたに違いない。私は疲れてきた頬の筋肉をぐっと引き締め、唇を綺麗な形に整えた。
右手で胸元の札束を押さえながら、左手は出来るだけ大きく振って彼女たちの席に駆け寄った。
前かがみになって寄せた胸の谷間に、割り箸に挟まれた一万円札が差し込まれる。みんなから一枚、ということらしい。
「やだ!ちょっと、万札じゃない…!いいのー?」私は出来るだけ大きな声で驚いた。こうして彼女たちがくれた好意を出来るだけ持ち上げるのだ。
『お気に入りの子のお誕生日だからね、』と豪快に笑いながら、空のグラスを手渡してくれた。続いて別の手が反対側から伸びてきて、そのグラスにキラキラとした液体を注いでゆく。
私はテーブルを見て、驚いてしまった。
「今日はまた一段と美味しそうなのがのってるわねえ!」
テーブルの真ん中には、彼女たちにしては珍しく良いシャンパンがどーんと鎮座していた。
この人たちはみんな、時々息抜きと刺激を求めてやってくる、ただの主婦だ。きっとみんなで金を出し合ったのだろう。
おめでとう!の声に押されるように、注がれたシャンパンを一気に空にする。この一杯の重さをまともに考えると目眩がしそうだったから、私は彼女たちの笑い声と張り合うように大きな声を出した。
「ありがとう!ステージからもみんなが来てるってすぐ解ったわ!声が大きいから目立つのよ、」私がそう言うと、奥様方はまたガッハガッハと笑った。
「いつも来てくれてありがとうね。」
なんだか少ししおらしい気持ちで呟くと、『そういうところが好きなのよ』『かわいいわねえ』と、奥様方はまるでお母さんみたいな顔になって私の肩を叩いてくれた。
『ほら、あっちのお兄さんたちが呼んでるわよ!』『きっともっと良いお酒が飲めるわよ!』『ちょっと赤くなってきたわね、気をつけるのよー?』
背中を叩く手、頬に触れる手、髪の毛を控えめに撫でる手に気持ちごと押される様に私は席を立った。
そうして向かったテーブルにいた若いサラリーマン2人は、初めてのショーパブというものに幾分か興奮しているようだった。
きっと冷やかし…興味本位の来店だったのだろう。テーブルには飲み放題のビールしか乗っていない。
初めてのショーパブが誕生日イベントの日だったなんて、少し気の毒な気もしたが、
「思っていたより本格的なんですね!」と顔を赤らめて眼鏡を持ち上げる仕草から緊張が読みとれて、割と気分が良かった。
ぎこちない手がそれぞれ、樋口さんの描かれたお札を差し出すので、
「今日は初めましてなんだから、別にいいのよ?」今日はみんな張り切ってるからこうだけど。と、私は札束入り乱れる自分の胸元を指さしながら、笑って遠慮したけれど、彼らは黙ってそこに5千円札を差し込んでくれた。
ありがとう、と呟いて控えめにその手に胸を押しつけると、2人とも複雑な顔になった。
その沈黙を吹き飛ばすように私は声を上げて笑った。「ごめんなさいね!柔らかくてびっくりしたかしら?」「気兼ねなんてする事無いわよ、だってほら、…ね?」
お兄さん達は少し狼狽えた様にお互い視線をあわせた後、「これでオカマさんって…思ったより可愛くてびっくりしただけです」と言った。
もっと口の上手いオネエサマが来てくれたので、私は席を立った。各テーブルへのご挨拶も済んで、そろそろお開きだ。
私は挨拶の前に少し酔いを醒まそうとバーカウンターの定位置に腰掛ける。
シャンパングラスにはジンジャーエール。
"彼女"はどこか、とろんとした表情をしていた。
可愛いってよ、良かったね。
馬鹿じゃないの?あれは、アナタに言ったのよ。
君に言ったんだよ。君に。
…そう。じゃあ、私を作ったのは誰?
君を作ったのはあの日の君だよ。
違うわ、私を作ったのはアナタよ。
『認めなさいよ』
"私"に逢いたくて、わざわざショーパブのドアを叩いたのは誰?
君がそうさせたんだろ。
アナタに初めて"私"を見せた"彼女"、は私じゃないでしょうに。
何が言いたい?
『認めなさいよ』
私、随分綺麗になったでしょう?
………ああ。
アナタが育てたのよ。きっと、もう"彼女"からはずっと離れたところに来てしまったわ。
………、そうかもしれないね。
僕はシャンパングラスの中で泳ぐ彼女を見た。
嫌に優しい顔でこちらを見ている。酔っているんだな。
『認めなさいよ』
アナタは私が好きなのよ。"私"が、好きなの。
………それは、どうだろう。
『認めなさいよ』
違うよ。僕は思い出に恋をしているんだ。
どちらにしても叶わぬ恋ね、ご愁傷様。私は好きよ、アナタのこと。
ああ、君は"彼女"だからね。そう言うさ。
………それは、どうかしら?
僕は僕に嘘を付けない。君の言う通り、正直者だからね。
その理屈で行けば、アナタは私にも嘘を付けないことになるわね。私もアナタには嘘を付けない。ふふ、今までの私はどうだったのかしら?
説教くさい話は嫌いだよ。
私も嫌い。奇遇ね。"彼女"もそう言っていたわ。
面倒な話は終わりにしましょう。
そうだね。僕は君のこと、好きだよ。ごめんね。愛してる。
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