やわらかペット生活



「千恵さん、千恵さん、起きてください」
 私の覚醒を促したのは、今回はヌイではなく康介の声だった。康介が戻ってくるまで眠りこけてしまったのか。我ながら呑気なものだと呆れる。
「……おはよ。何時?」
「夜の7時ですよ。約束通り、なんとか仕事を片付けてきました」
 瞼を擦りながら見れば、彼はまだスーツを脱いでいないどころか、鞄も持ったままだ。まさに帰宅してすぐ、私に声を掛けたのだろう。ふと、鞄を持つ反対の手にある白いビニール袋が目に留まる。
「何、その袋」
「晩ご飯ですよ。僕は料理が苦手なので、スーパーのお惣菜ですけれど」
 一緒に食べましょう、と袋の中身を取り出す。唐揚げ弁当と鮭弁当、天丼が入っていた。どれもほんのりと温かい。
「なんで3つもあるの?」
「千恵さんが好きな食べ物が分からなかったので、選んでもらおうと思って。先に好きなものを選んでくださいね。余ったやつは……まあ、適当に食べましょう」
 そう大食漢には見えないのだが、男性は弁当の1つや2つ、軽く平らげるものなのだろうか。むしろ、朝から何も食べていない私のほうが餓えている気もする。
「じゃあ、天丼がいい。次は康介が選べばいいよ、残ったやつは半分こしよう。お腹空いてるからイケる気がする」
 ぽかんとしている康介を余所に、私はビニール袋から割り箸を奪う。指が切れそうに鋭いプラスチックの蓋を外して、中身を貪るように流し込んでいく。
「千恵さん、お弁当は温めないんですか?」
「私はそのまま食べる派。コンビニ弁当も、バターとかが入っていない限りチンしないなぁ」
「温めたほうが美味しいと思うんだけどなぁ。ああ、冷蔵庫の中の肉じゃが、食べてないんですね。困ったな、明日まで保たないですよね」
「出しちゃえばぁ? 別にお腹いっぱいでも、目の前のお皿に並んでると食べちゃうでしょ」
「冷たいままのほうがいいですか?」
「別に私のものってわけじゃないんだから、好きにして。冷たいご飯が好きなんじゃなくて、単に、料理を作らずにコンビニ飯で済ませようとする自分への戒めのために、冷や飯に甘んじるだけだから」
「何ですか、それ。意外と真面目なんだなぁ」
 くすくすと笑いながら肉じゃがを電子レンジに入れ、唐揚げ弁当に手をつける康介。匂いに誘われて、毛布の上で丸くなっていたヌイも寄って来た。座卓の上に飛び乗って、弁当に鼻を向けている。
 綺麗な部屋に、可愛らしい小型犬に、他愛のない会話。並んだ食事が出来合いの総菜であることを差し引いても、関係を誤解しそうになるほど罪のない光景に思える。口にする海老天も美味しい。
「どうしたのぉ、ヌイ。鼻がひくひくしてる。エビ食べる?」
「駄目ですよ、ヌイは生まれつき鼻が弱くて、食べてもいいものと悪いものの区別がつけられないんです。エビは犬の身体に良くないので、絶対にあげないでください」
ヌイに分けてやろうとしたら咎められてしまったので、仕方なく鮭をほぐして与える。その様子を見て、康介は満足そうに微笑んだ。温め直された肉じゃがも、よく味が染みていてご飯が進む。ただ、その作り手に思い至ったとき、肉が少しだけ苦くなったように感じた。
 腹も満ち、いよいよもって今後のことに考えを巡らせる。この部屋で夜まで眠りこけ、夕飯まで食らってしまった。完全に脱出の機会を逸してしまった気がする。外に繋がる扉を見れば、当然、鍵とチェーンロックが掛けられていた。とても一般的なはずの施錠が、私を閉じ込めるためだけに存在している禍々しいものに思えてならない。私が出て行こうと思えば簡単にできるのだが、逆に言えば私が出て行こうと思わない限り、絶対に出られはしないのだろう。
 クッションを抱えながらごろごろと考え事をしているところに、声がかけられる。
「千恵さん、お風呂沸きましたけど、入ります?」
 風呂と聞けば、一夜にして嫌な思い出を植え付けられた身としては、苦い顔にならざるを得ない。しかし康介のあまりに平然とした態度を見ていると、警戒心に尖った自分のほうがおかしいように思えてくる。長時間の穴掘りおよび穴埋めで汗にまみれた身体の臭いも、気にならないではない。ありがたく頂戴した風呂は、もちろん昨夜と違い温まっている。緊張まで湯に溶けそうになるのを、裸になった手足のところどころに残る赤い拘束の跡が、何とかそれを押し留めてくれた。嗅ぎ慣れない匂いのシャンプーで髪を洗い終えたあたりで着替えがひとつもないことに気付くが、土に汚れた服を着直さなければならないのかと憂鬱な思いが半分、もう半分は、きっと康介が何かしら気を回すだろうとぼんやり考えた。
 浴室から出れば、果たして半分の予想通りそこには清潔な服が置かれていた。この淡いピンクのワンピースが部屋着なのだろうか、パンツスタイルを好む私としては、まったくもって趣味に合わないデザイン。きっと、長い髪をゆったりと下ろしたような愛らしい人に相応しい服だ。妙な苛立ちとともに、これなら汗臭い服を着たほうがましかとも思ったが、それは既に洗濯機に放り込んでしまった。仕方なく袖を通したワンピースは、腹が立つくらいに柔らかく肌に優しい。新品ではあり得ないこの感触が、否応なく本来の持ち主を思い出させる。適当に水気を拭った髪は、迷った末に縛らずそのままにした。
「あんまり似合いませんね」
 リビングに戻って掛けられた言葉は、予想以上に冷たかった。自分でも分不相応な服だと思っていたのに、戸惑いが私を口ごもらせる。
「……だって、これが置いてあったんだもん」
「そうですね、酷いことを言ってごめんなさい。ありがとうございます、着てくれて」
「別に康介のために着たわけじゃないし」
 拗ねた言葉に、康介はまたゆったりと微笑んだ。
「では、僕もお風呂に入りますね。寝るときはベッドを使ってください。僕はリビングで寝ますから、気にせずお先にどうぞ」
 私の横を通り抜けて、さっさと浴室に向かってしまう。そう広くない部屋のこと、寝室の場所を迷うことはないが、さすがにそれを使うことは躊躇われた。あくまで紳士的な気遣いをされているのに、奇妙なまでに親密な態度にも感じられる。死んだ恋人の作った食事を、死んだ恋人の着ていた服を私に与えて、康介は何がしたいのだろうか。
眉を顰めて思案しながら、寝室らしき部屋の扉を開ける。明かりの点いていない室内は当然のこと薄暗い。それでも外の明かりのおかげで、ダブルベッドの位置は把握できた。照明のスイッチを探るのも面倒で、そのまま布団に潜り込もうとしたとき、ベッドボードに何かが置かれていることに気付く。
「……痛ッ」
手探りでそれを掴もうと触れた指に、鋭い痛みが走った。反射的に引いた右手を左手で包むと、ぬるりとした感触が伝わる。壁を叩くようにして見つけたスイッチで灯した照明の下で指を確認すれば、真っ直ぐな赤い線が細く描かれていた。ぷくりと浮かんだ血が、表面張力を超えて次々と手首に伝っていく。ベッドボードに向けた目の先には、あの包丁が置かれていた。





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