兄曰く、生きるとはそれ即ち経験則である。
大概の生き物は、生きていく上で必ず失敗をする。迂闊に獣道を歩いていて外敵に喰われる。迂闊に毒のある果実を食べて死ぬ。その失敗が重ければ重いほど、その二の轍を踏まないようにできているものだ。
人間とて、同じことである。日常のほんの些細なこと、例えば、熱いものを食べて口の中を火傷すれば、その次からは冷まして食べるようになるだろう。もしも、散歩の途中で近所の飼い犬に噛みつかれたら、以降はその家には近づかないようにするだろう。自分の浅薄な言動で他人が傷つけば慎むし、腐った牛乳で腹を壊せば食料の管理に神経質になる。つまり、自分の失敗を、ひとつずつ拾い上げてじっくり眺めて判断を下すようになるのだ。
そう、すべては経験則だ。人は自らの経験を糧に生きている。二度と痛い思いをしないように、常に細心の注意を払うのだ。多少気が抜けても足元の小石に気づくのは、経験則が生きるからだ。
かつて、兄は俺にそう言った。
しかし、それらは所詮、経験に過ぎない。
俺は、それがしばしば人の限界域を飛び越えてしまうことを、これまた経験として知っている。

端的に言ってしまおう。
俺は、“置いて行かれた”のだ。





突然ですが、人類は滅亡しました。







ときは、晩秋。
俺は高校2年生で、修学旅行の真っ最中だった。
もう少し正確に言うなら、修学旅行はまだ始まったばかり、目的地である京都に向かう旅路の途中であった。俺の高校も、いわゆる修学旅行のテンプレートを律儀になぞり、クラスごとに分かれて大型バスに乗り、高校生らしくがやがやと賑やかしく旅を過ごしていた。
何の変哲もない、それでいて少しだけ特別な日。
そんな記念すべき日の折、俺の身に降りかかった災厄は、文字通りだった。
トイレ休憩のために立ち寄った、高速道路のサービスエリア。

そこに、置いて行かれた。
置き去りにされてしまったのだ。

まさに、一瞬の出来事だった。俺たちの乗ったバスは休憩のため、高速道路のとあるサービスエリアに停車した。出発時間と今後の予定を簡単に説明され、生徒たちはトイレに立ち寄るため、あるいは飲み物や軽食を買うためにバスを降りていった。俺も例に洩れず、サービスエリア内の建物に入ったのだ。
何のことはない。用を足したらすぐさまバスに戻って、居眠りを再開するつもりだった。同じクラスどころか、同じ学年にすらひとりの友達もいない俺にとって、修学旅行はある種の拷問といっても過言ではなかった。輝かしい青春を謳歌しているのは、いつだって自分ではなく他人。多くの人にとって、現実なんてそんなもんだろう。俺だってそうだ。
・・・まあ、そんなことは今はどうでもよくて。

とにかく、トイレから出て駐車場に戻ると、そこに俺の学校のバスはなかった。

最初は、どこかで見落としたのかと思った。このサービスエリアの駐車場は広大で、同じようなバスは何台も並んでいる。これでは、見落としてしまうのも無理もない。そう軽く考え、駐車場を隅から隅まで行ったり来たりして改めて確認してみた。
しかし、何度往復しても、俺が乗るべきバスはどこにも見当たらなかった。
腹の底に、ひやりととある不安がちらついた。・・・いやいや、そんなまさか。冷静を装って腕時計を見る。俺がバスを降り、用を足してから5分と経っていない。何よりも、クラスごとに点呼をとる時間まで10分近くも残っているではないか。

このことが、何を意味するのか。

俺は、あまりのことにそっと目を閉じた。
じんわりと、背中に厭な汗が滲む。見たくもない事実が、喉も通らないような現実が、俺の胃のあたりにのしかかってきた。・・・ああ、なんと現実とは残酷なことか。最初からそんなものに期待なぞかけちゃいないが、こんなのあんまりではないか。
そして、この状況、割と冗談ではない。俺は、この場でどうすればいいのだ。生まれて初めて、心の底から、どうしよう、という言葉が口をついて出た。そんな俺の情けない呟きは、サービスエリアの喧騒に瞬く間にかき消される。まるで自分自身の存在もかき消されていくようで、不安の上に恐怖が重なった。
出発していくバスにクラクションを鳴らされ、慌ててサービスエリアの建物の前に戻った。隅っこの喫煙所の近くまでくると、少し人気が少なくなっている。建物の白い壁に背中を凭れて、腕組みをした。顎に手を当て、少しインテリぶって考えたところで、解決案は何ひとつとして浮かばなかった。
さて、困った。
今まで幾度となく、こういった校外行事は経験してきた。課外授業、社会科見学、遠足、そして修学旅行。形ばかりのイベントだけは盛りだくさんな学生生活の中で、しかし、よもや旅の途中のサービスエリアに置き去りにされる、などというエキセントリックな体験などしたこともない。もしも、こんな残念な人生経験を積んだことのある者がいるならば、すぐにでも某ファーストフードのクーポン券と引き換えにこの状況の打開策を仰ぎたいところだ。
さて、幸か不幸か、そんな哀れな知り合いは俺の周りにはいない。ハンバーガーは俺が食べられるとして、今現在困っていることに変わりはない。やれやれ、だ。俺は、深く深くため息をついた。
さらに悪いことに、俺は今携帯電話を持ち合わせていない。おまけに、財布も荷物と一緒にバスの中に置いてきてしまったから、サービスエリアにある公衆電話も使えない。どこへも連絡が取れない状況だ。我ながら迂闊だった、と思う。が、果たして誰がこうなることを予想しただろうか。
そもそもこの修学旅行、あまり気乗りのする行事ではなかった。最近の、我ながらどうかと思うほど怠惰な生活態度に兄が怒り心頭になるまでは、参加する気すらなかったのだ。そんな中、兄の説教と良心の呵責と、己の義務感に駆られて修学旅行に参加してみたら、このざまである。まさか兄がこの事態を予測していたとは思えないが、こうなってしまうと兄に恨み言のひとつも言ってみたくなる。・・・そんなことをしたら何が起こるかわからないから、一生実行しないが。
はあ、とさらに大きくため息をついた。息を吸い込んだ拍子に、喫煙所の煙の残りかすを思い切り吸ってしまい派手に噎せる。煙草というのは、どうにも好きになれないもののひとつだ。年間何人の人間がこの煙を直に吸い間接的に吸い死んでいくか、大々的に広告をうたれているというのに、なぜこうも懲りないのだろう。
そそくさとその場を離れながら、俺はあらためて考えた。携帯電話や金銭を持っていなくとも、どうにかして学校に連絡をとる術はあるだろう。幸いにして、このサービスエリアは規模が大きい。トイレに向かう途中で見た案内板によれば、ショッピングモール内に総合案内所も交番もあるらしい。慌てず騒がず、まずはそこに相談してみよう。



このサービスエリア、もとい高速道路自体が出来上がったのは今年の4月だ。
つまり、半年ほど前のことである。道路もサービスエリアの建物も、まだまだ新しいといえば新しい。それこそ、高速道路が開通したばかりの頃、ちょうど高校の夏休みが始まった頃だったが、それはそれは盛況だった。しょっちゅうテレビ番組で特集が組まれ、雑誌に取り上げられ、インターネットの口コミサイトで大いに騒がれた。新しい高速道路というだけでなく、各地のサービスエリアも広く取られ、充実した施設がいくつも造られた。綺麗な道路を走りたい、サービスエリアの食事や土産物を楽しみたいという、実に物見遊山的な観光客がまさに山のように集結した。
しかしその盛況ぶりも、半年ともたなかった。俺が今いるサービスエリアは、この新高速道路の圏内で最も大きな規模を誇っている。しかし、今や、田舎の高速道路の道の駅の方がまだ混み合っているのでは、と疑いたくなるほど空いているのだった。観光をするには微妙な時期ということもあるだろうが、ほとんど皆が興味を失くしてしまったことが一番大きいのだろう。もはや、中途半端に新しい道路にもサービスエリアにも、わざわざ来ようと思う人間などいないのだ。
そんなうらぶれたサービスエリアのモール内を、俺は歩く。
建物の中心は吹き抜けになっており、奥に長く続いている。ちょうど広場になった中心部には大きな噴水、広場を囲むように立つ柱のもとには観葉植物の植え込みがうるさくない程度に配置されている。まるで、都内のファッションビルかと見紛うほど、立派な建物だ。
しかし、そんな建物の中を行き交う人はまちまちとしかいない。明るく華やいだ雰囲気の中にこうも人影が少ないと、かえって不気味さを煽っている。しかし、幸いなことに、こんなところを制服姿でひとりぽつんと歩く男子高校生に見向きをする人もいないようだった。俺はひそやかに安堵する。
モール内の土産物屋やフードコートから、ひっきりなしに騒がしい音楽が流れている。そのせいで、建物自体は閑散としているのに、ごちゃごちゃと散らかっているような雰囲気を醸し出していた。建物は洒落て綺麗なのに、何かもったいない。下品な流行りの音楽など流さないで環境音楽でも流しておけばいいものを、これではあまりに趣味が悪いと思った。
などと、流行に置き去りにされたさびれたサービスエリアの行く末など余所に置いておこう。今は我が身の心配だ。白い石造りの噴水の横を過ぎ、建物の入り口の前に据えられた案内看板を眺める。総合案内所は正面入ってすぐ、交番は右に折れて突き当りをさらに左。交番ならいろいろと手っ取り早いだろうが、たったこれだけのことで警察のご厄介になるのは忍びない気がする。というのは建前で、何よりも単純に恥ずかしい。こんな状況に陥っていること自体羞恥で死にそうだというのに、この上兄にでも知られたらと考えるとぞっとする。きっと、末代までの笑い者だ。
とはいえ、兄に知られることはどうしても避けられまい。どうせ回避できないならば、これ以上ことを大きくすることもないだろう。
まずは総合案内所に向かうことにした。包み隠さず事情を話せば、電話くらいは貸してもらえるだろう。やっぱり恥ずかしいこと極まりないが、この際贅沢は言っていられない。ここでぐずぐずと迷っていても、いいことはないだろう。
財布があれば適当に飲み食いして遊んだ後に助けを求めたのだが、残念ながらそれもできない。絶好の機会というものは、いつだってこちらの状況を察してはくれないものだ。

そして俺は、何のためらいもなく中央の自動ドアを潜った。




ぷっつりと、音楽が途切れた。
瞬きをする。途切れたのは、騒がしい音楽だけではなかった。
さらに瞬きを、数回。
何度目をしばたいても、結果は同じだった。建物に入って、すぐ目の前に広がるはずの光景が、そこにはなかった。

あたり一面、目に痛いほど眩しい純白に染まっていた。

否、正確には一面どころではない。視界の隅から隅まで、淡く光を放つような白で埋め尽くされている。何が起きたのか理解が及ばず、思考が停止した。凍りついたように動かない思考を後目に、目の隅まで埋め尽くすような白は、どこまでも続いていた。
あまりの眩しさに、俺はなす術なくその場に立ちすくんだ。
最初は、急に明るい建物の中に入ったせいで目が眩んだのかと思った。外は薄曇りで少し暗かったし、そんな中でも建物の証明は眩しいくらい点けられていたからだ。が、もはやそういう問題ではない。いつまで経っても、建物の内部らしき景色は一切見えてこないのだ。
白が続く。頭の奥まで染め上げるような、白。
これはなんだ。なんなんだ、いったい。
さまざまな言葉が、脳内を錯綜する。ぐるぐると巡ってまとまらない。当たり前だ。俺は、間違いなくサービスエリアの建物に入ったのだ。それが、なぜか気がついたらこんな得体の知れない真っ白な空間に放り出されている。我が愛しい現実ながら、SFかぶれの映画の中か、と突っ込みを入れたくなる。入れたところで、これ以上のボケを返されても困るわけだが。
そんなとりとめのないことを考えてみて、どうにか気を落ちつけようと試みる。しかし、どうにも俺の足は動かない。今やそんなふざけた考えも、身体中に張り巡らされた緊張を解くには至らないようだ。この状況を把握しようにも、目の前にあるのは雪よりも味気ない白だけだ。ほんのちょっとの糸口すら見つからない。
サービスエリアに置き去りにされる、という事件だけでも十分両手に余っていたというのに。現実は、常識の範疇を軽く飛び越えて俺にドロップキックをかましてきた。痛い。痛くて気絶しそうだ。しかし、このあまりの現実の厳しさに卒倒するわけにはいかない。状況把握はまるでできる気がしないが、せめて歩くなり走るなり逃げるなり足を動かす努力を

「あら、新しい入居者の方ですか?」

降って湧いた声に、俺は再び身を固くする羽目になったのだった。



声の主は、すぐに見つかった。
固まった身体を、ぎしぎしと音を立てそうなぎこちなさで動かして、後ろを振り返る。
俺の真後ろにいたのは、露出の少ないゆったりとした服を着た女だった。この白黒の貫頭衣のような衣装は、見たことがある。これは、いわゆる修道女、シスターの装束だ。頭部を頭巾に似た長い布で覆い隠し、首から銀色の十字架をさげている。これがシスターの衣装だということは知っていたが、間近で見るのは初めてだ。ただ、俺には妙な趣味及び性癖等はないので、本物(?)の修道女を見ても特に何も思わない。
その、いかにも清楚で信心深そうなシスターが、俺の目の前にいる。
というか、近い。
本当に目と鼻の先に、白い肌と褐色の瞳が見えた。
「うわぁっ!?」
思わず、大声をあげて大きくのけぞった。
我ながら鈍いというか、反応がワンテンポ遅れている。反射神経は鋭い方だから、今回は混乱しているからということにしておいてほしい。切実に。
俺が数歩下がってのけぞったのを見て、シスターは小首を傾げて不思議そうな顔をした。不思議がりたいのはこっちだ、と心の中で叫ぶ。
すぐにでも逃げられる体勢になった上で、じっと様子を窺った。敬虔な修道女に襲いかかられる、などということが起きたら、それこそ今の事態に輪をかけて大事件だ。しかし、幸いなことにそんな事態には至らなかった。
「あらあら、驚かせてしまったようで・・・申し訳ございません。あなたを脅かすつもりはないんですよ」
シスターは両手を胸の前で組み、神聖な笑顔を俺に向けた。
俺を見咎める様子も、ここから出て行けと怒鳴りそうな気配もない。どうやら、この女神のような笑顔を見る限り、俺に危害を加える気はないようだ。油断はならないが、この得体の知れない真っ白な空間で、話の通じそうな人に会えたことには変わりはない。
俺は、思い切って口を開いた。
「あ、あの、」
「はい」
シスターは、相も変わらず笑顔で俺の言葉に応対する。
「急にこんなことを訊いて、すごく申し訳ないんですが」
「はい。何でしょう?」
ごくり、と、生唾を飲みこんでから、言った。

「いったい、ここはどこなんですか?」

率直も率直、これ以上ないくらいシンプルな問いだ。
俺の問いを聞いたシスターは、一瞬だけ驚いたように大きく目を見開いた。否、驚いているというよりは、訝しんでいるようだった。決して、闖入者を怪しむという風ではない、不思議な表情だった。
何か妙なことを訊いてしまっただろうか、と思う間もなく、シスターの不審げな表情は露と消えた。今し方と全く変わらぬ輝かしい笑顔を浮かべたシスターが、そこにいた。密やかに安心するが、シスターが次に吐いたとんでもない発言のおかげで、シスターの表情の真相を知ることは叶わなかった。
それどころか、俺はさらにとんでもない火種を、素手で拾ってしまうことになった。

「はい。ここは、セレスティア星団第4惑星“ガルダ”、ラキューナの地球侵略拠点及び先遣師団基地です」

シスターの笑顔はどこまでも透明で邪気なく可憐で。
俺は、静かにパニックに陥った。



彼女の言葉を、一字一句違えずに理解するには至らなかった。
星団? 地球侵略? 基地?
耳馴れない言葉だけが耳をすり抜けて、辛うじて聞き覚えのあるやけに物騒な単語だけが頭に残っている。何を言われたのか理解をする前に、俺は再び彼女に訊ねていた。
「・・・って、どういうことですか?」
これまたシンプルで正直な問いだ。
もう少しましな質問ができないものかと思うが、まるで考えがまとまらないので致し方ない。
「どういうこと、と申されますと?」
「いや、割と最初から何も意味がわからないかなって」
「意味、ですか?」
シスターは、顔に笑みをはりつけたまま、まるでさもないことのように答える。
「大変失礼ですが、あなたは入居希望者の方ですよね? あ、もしや入居手続きのことで何かご不明な点がおありですか?」
「え? 入居?」
「ええ。こちらはラキューナの地球侵略総本部ではありますが、民間人の居住施設も兼ねております。先遣調査団のご家族の方、抽選により居住許可を得た方が優先になっております。どちらかにお心当たりがありますよね?」
「は? えっ? せ、せんけん・・・?」
「少々お待ちください。すぐに情報照会を行いますね」
いやいやいや、待て待て。
今までの彼女の発言もほとんど理解できないというのに、ますますわけのわからないことになってしまった。全く要領を得ない訊き方をしてしまった俺も俺だが、これ以上事態が悪化すると考えていなかっただけに、大いに混乱した。
・・・今の話を聞く限り、なにか? このシスターは宇宙人だってのか? そんなもの、思考回路を180度転換しても、信じられる余地がない。何かのドッキリの類と判断するのが正常だろうが、しかし俺なんかをドッキリにはめる奴が果たして存在するのかという新たな疑問が浮上する。一生答えの出ない自問自答を繰り返しても仕方ないので、俺は素直に質問を重ねた。
「あの、これ、何かの企画・・・か何かですかね?」
「企画? ・・・ああ、そうですね。これはラキューナ人の威信をかけた国家プロジェクトです。そもそも地球侵略は、我々ラキューナ人の1000年前からの大志であり悲願です。長き試行錯誤と国家間の調整の結果、全ての条件を満たした今、ようやく我々はこの太陽系第3惑星地球に・・・」
・・・まずい。また訊き方を間違えた。馬鹿か、俺は。奇妙な講釈が始まってしまったではないか。
意味のわからないことを滔々と語るシスターだったが、その大真面目な顔を見ていると、口を挟むよりも聴き入ってしまいそうになる。なるほど、こうして聖職者は自らの信者や檀家を増やしていくのだろうか。そもそもシスターの衣装というだけで、効果は絶大だ。聖職者のくせに、やり方が汚い。などと思うが、実際問題、聖職者とて生きていく上では何ごともこんなもんなのかも知れない。
などととりとめのないことを考えていても、シスターの話は終わりそうにない。仕方がないので、俺は咳払いをし、少々声を荒げて彼女の話に割って入った。
「ちょっと待って、待てって!」
俺が強い口調で拒否反応を示すと、シスターはきょとんとして黙った。
なぜかそこで、俺に非はないはずなのに気が咎めてしまい、思わず目を逸らした。わけのわからない話とはいえ、相手の話の腰を折るという行為は正直気持ちのいいものではない。
今度はなるべく、穏やかな表情を作ることにつとめてやさしく言った。
「・・・あー、えっと、そういう企画って意味じゃないんですけど」
控えめにそう言うと、シスターは先ほどと同じような、わけがわからない、という顔をした。
・・・否、わけがわからないのはこっちだよ。そろそろ脳のどこかの血管が切れて、卒倒どころかそのまま遠くへいってしまいそうだったが、どうにか頭を抱えて大袈裟にため息をつくだけにとどまった。
もう、下手な気を遣わずにストレートにものを言った方がいいだろうか。このままでは、話がどこへ転がっていくか予想もつかない。
はやく、何か言わなければ。
「・・・どうやら、ずいぶんお疲れのようですね。少し休まれますか? 入居手続きは、そのあとにいたしましょう」
シスターが、合ってはいるがかなり見当違いな提案をしてくれる。
「いや、そういうわけじゃなくてですね」
「横になったほうがよろしいですか? 申し訳ありませんが、現在簡易休憩室しか空いておりませんので、そちらでお休みいただくことになるのですが」
「だから、そうじゃねえって!」
このままではこのシスターのペースにハマりかねない。
今度こそ俺が声を荒らげると、シスターは再び口を閉ざした。先ほどのような純粋無垢な不思議そうな表情ではなく、明らかな疑いの色が混じっている。そんな眼差しに臆することなく、俺はさらに言い募った。
「さっきから、あなたの言ってることが一言もわかんないんですよ! 俺はそもそも地球人で日本人で、宇宙人とかそういうのは信じられなくて・・・ていうか!」
「・・・・・・」
「これ、テレビのドッキリか何かですか? それともどっかそのへんの大学が主催してる、素人巻き込んでリアクションを観察するタチの悪い実験ですか? そんな宇宙人が地球侵略に来たみたいな突拍子もない話されても、俺見ての通りのリアクションしかしてませんよ? やった甲斐ないでしょ? 大真面目な顔して台本読んでないで、早くネタばらししてくださいよ! いきなりそんなこと言われても正直困りますしそれに」
必死にまくし立てているうちに止まらなくなる。もはや自分でも何を言っているかわからないが、坂道を転がり落ちるようなスピードで口が回る。かわりに頭は回らなくなっている。そのせいで、目の前にいるはずのシスターが今どんな顔をしているのか、見えなくなっていた。
「失礼いたします」
「俺だって暇じゃな・・・え?」
やけに丁寧な物言いに気づいたときには、もう遅かった。
どん、という鈍い音が耳に届く。あれ、と思う間もなく、視界が暗転していた。ぐるりと揺さぶられたように脳が傾ぐ。うわ、きもちわるい、吐き気が・・・
そして。
目の前が真っ暗になった。



次に目が覚めたのは、これまた真っ白な空間だった。
再び視界は隅々まで白く染まる。もはや、この白さにも慣れてしまった。周囲は変わらず淡く発光を続けていて、起き抜けの目には少々厳しい。目がしばしばする。周囲は、圧迫感も何もないので、天井の高さも、壁までの距離もわからない。
真っ白な部屋の中で、俺は再び目を瞬いた。
背中に、ふかふかとした温もりを感じる。どうやらベッドか何かの上に横たわっているようだ。身体はだるく、どんよりと重たい。頭の奥がじんわりとしびれているようだ。それでもなんとか起き上がろうとして、項のあたりに痛みが走った。殴られたような、鈍重な痛みだ。どうやら先ほど、あのシスターに文句を言っている途中で、俺は殴られるか何かして気絶してしまったらしい。
なんと物騒な真似をするシスターだ。シスターのくせに。否、もしかしたら、というかもしかしなくても、あの女はただのシスターではないのではないか。そもそも彼女はその口ぶりから、彼女がただの人間であるのかどうかすら怪しいのだ。ここがどこかということよりも、あのシスターの正体をまず真っ先に探るべきだった。今さら後悔しても始まらないが。
さて、これからどうするか。
俺は、横になったまま思考を巡らした。呑気にベッドに寝ながらどうするもこうするもないだろうが、このまま寝ているわけにもいかない。俺を気絶させたのがあのシスターならば油断ならないし、もしほかに仲間がいてそいつがやったとするならば、さらに警戒が必要だ。一刻も早く、ここから逃げ出さなくては。
しかし、どうやって?
動かせる範囲で首を動かして、あたりを見回してみる。辛うじて見える範囲には、ドアや窓らしきものは見当たらない。予想はしていたががっくりする。こういう場合、使えそうな脱出経路があったとしても、厳重な鍵でもかかっていそうなことがせめてもの救いか。
物理的に脱出することは不可能。
ならば、どうするか。
選択肢の大部分は絶たれていた。この真っ白な空間を霧のように晴らせるのならば話は別だが、生憎俺は魔法の類は使えない。
見事なまでの、八方塞がりだ。
ならば。ならば、もう・・・

「お目覚めですか?」

禿げそうなくらい頭を回転させているとき、涼やかな声が耳もとに投げられた。
ぶつん、と音を立てて、思考が停止する。ぎこちなく、首を横に向けた。見るまでもなく、俺が横たわったベッドの右側に、あのシスターが楚々として立っていた。・・・この女、さっき俺を気絶させたくせに、清々しいくらいしれっとしてやがる。
「お顔の色はもうよろしいようですね。ご気分はいかがです?」
「・・・ご、ご気分もなにもないですよ」
横になったまま、絞り出すように声を出した。この状態で、割と強い口調を出せたことに驚く。
「あら、まだどこかお悪いところが?」
「はい。あなたに殴られた首根っこがズキズキしますよ」
恨みがましくそう言うと、シスターは今度は少しすまなそうに俯いた。
お、と思うが、まだ油断ならない。さっきだってあんなにご丁寧に断られたあとにぶん殴られたのだ。一応身構えておいた方がいいだろう。・・・と、相変わらず寝ながら思った。
「・・・申し訳、ございませんでした」
次の言葉を探しあぐねていると、シスターが先に口を開いた。
「実は、あなたが気を失っていらっしゃる間、あなたのことを色々と調べさせていただきました」
「えっ・・・」
シスターの声のトーンが落ち、相反して俺の心臓は勢いよく跳ねた。
・・・調べた? 俺を? いったい、何を調べられたんだ? 怖気でそろりと背筋が粟立った。ついさっき、サービスエリアに置き去りにされたとわかったときの不安の比ではない。知らぬ間に自分の身体を弄られるということが、ここまで気持ちの悪いものだとは。
しかし、その非人道的な行為とは裏腹に、シスターは誠意を目一杯滲ませた声を出した。彼女のやわらかく穏やかな声は、静かにこう告げた。
「わたくし、誤解しておりました」
「え、な、なにを?」
問い返すと、シスターは穏やかな微笑みを湛えてこう言った。
「あなたは、生粋の地球人、及び弓状列島日本国に住む日本人ですね」
「・・・・・・」
咄嗟に、言葉が出なかった。
「いや、俺さっき説明したときにそう言ってたと思うんですけど」
「わたくしたちラキューナ人は、地球侵略を果たすため、その生態を分析するべく“地球人”に限りなく近い姿をとっています。ですから、最初あなたも“この地球上のどこかに存在する”地球人の姿をとったラキューナ人だと考えたのです。・・・わたくしたちは、そこにあるものの姿しか、写し取ることができませんから」
聞いていない。その上さらに、とんでもない解説をされている。
しかし、今回は俺を同族の宇宙人と見倣して話をしていないだけまだマシだ。説明が少しだけわかりやすくなった。
「は、はあ・・・」
「あなたのことを調べさせていただいて、あなたが歴とした地球人で、ラキューナの者ではないことがはっきりいたしました。早とちりをしてしまったわたくしのミスですわ。重ねて非礼をお詫び申しあげます。本当に、申し訳ございませんでした」
ぐ、と深くお辞儀をしたシスターに、俺は慌てて両手を振った。
「い、いやいや! わかってくれたんならいいんですよ。こちらこそいろいろ言ってすみませんでした、誤解が解けて何よりです!」
ははは、と乾いた笑いをつけ加える俺の顔には、今ごろ自分でも気味が悪いぎこちない笑顔を浮かんでているに違いない。言ってしまってから、なぜ俺が謝っているんだろうと自問した。しかも、誤解が解けたのは俺が地球人だという部分だけで、根本的な問題が解決していない。そもそもこのシスターが熱心に語っているラキューナとか地球侵略とかいう部分は、それが嘘か本当かを含めてまるで説明がなされていないのだ。
それでは困る。大いに困る。
俺の困惑をよそに、俺が怒っていないことを確認して安心したのか、シスターが先ほどまでの柔和な笑顔に戻った。彼女に安心されても困るのだが、どうもこの笑顔の前ではあまり強いことを言えなくなる。
「何よりです。こちらこそ、名乗りもせずに一方的なことを申しあげて、大変失礼いたしました」
シスターは胸の前に手を置き、にっこりと笑ってこう言った。
「ご挨拶がまだでしたね。わたくし、ラキューナのエリシエルと申します。どうぞ以後、お見知りおきを」
「あ、はい。・・・えっと、俺、藤です。藤、一太郎(ふじいちたろう)といいます」
ここでようやく、お互いに名乗ることになった。
「はい。藤さまですね。よろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそ」
俺はぎこちなく、頭を下げた。
顔をあげると、エリシエルと目が合った。笑顔のままだが、先ほどまでどこか雰囲気が変わっている。なんだろう、と思う間もなく、彼女はきっぱりと言った。
「突然ですが、藤さま。あなたにお伝えしなければならないことがございます」
にこにこと、エリシエルは俺を見つめた。
その視線をまともに受けて面喰らいつつ、俺はエリシエルの次の言葉を待った。じわじわと、厭な予感だけがする。何か、重大な話をされるかも知れないが、全く予想がつかなかった。
「な、なんでしょう」
恐る恐る、俺は次の言葉を促した。
少しの間、沈黙が降りた。数十分にも数時間にも思える静寂がふたりの間を渡りきったあと、エリシエルは重々しく口を開いた。
「ええ、大変残念なお知らせなのですが」
その言葉は、静かに訪れた。

「“人類は滅亡しました”」



「は?」
自分の呆けた声を聞いて、ようやく現実に引き戻された。
じんるいはめつぼうしました?
確かにそう聞こえたが、言葉の意味が実感を伴わない。何を言われたのか、利害ができない。
「あの・・・いま、なんて・・・?」
何がなんだかわからなくなって、俺は思わずそう訊ねていた。
もはやかすれた声しか出せなかったが、どうにかその声は彼女に届いたらしい。俺に滔々と自分たち宇宙人のことを説明していたときと同じ、ある種淡々とした声で彼女は答えてくれた。
「少し単刀直入すぎましたでしょうか。ご理解が及ばなかったようでしたら、もう一度申しあげます。よろしいですか?」
「あ、いや、あの」
「“人類は、滅亡しました”・・・あなたを残して、全人類が」
止めを刺された。
一撃必殺だった。ばったり倒れてもう立ちあがれない。ゲームオーバー、コンティニュー不可だ。
サービスエリアに置き去り、謎の宇宙人をかたるシスターときて、早くも人類が滅亡してしまった。これではあまりにも展開が早すぎはしないか。これが映画だったら、トンデモ系に走りすぎたB級以下の映画と銘打たれるかも知れない。
・・・いやいや、そんなこと考えている場合ではなくてだな。
ぐ、と上半身に力を入れて、どうにかベッドから起きあがった。傍で見ていたエリシエルが手助けしようと手を伸べてくれるが、俺はその手を制してこう言った。
「・・・そろそろ、やめてくださいよ」
「・・・やめる、とは?」
俺の押し殺した怒声にも怯まず、エリシエルは静かに言った。
「だから、やめてくださいよ、そういうの全部。どうせ嘘なんでしょ? 地球侵略がどうのとか宇宙人がどうのとか。いい加減にしてください。今までは黙って聞いてたけど、もう無理です。ていうか、なんで信じてもらえる前提で話をしてるんですか?」
苛立ちのあまりまくし立てても、彼女は顔色ひとつ変えなかった。
「・・・信じてもらえないのも無理はありません」
「だから、そういうのはもういいって言ってるじゃないですか! 何のためにこんな演技してるんですか?」
「・・・演技ではありませんよ」
彼女のあまりにも頑なな態度に、怒りを通り越して呆れ返ってしまった。
俺の表情が、俺の感情を正直に物語っていたのだろう。エリシエルは、まるで幼児に相対するような慈愛に満ちた表情を顔に浮かべた。なんだか哀れまれているようで腹立たしいが、こうもぬらりくらりとかわされると、敵う気もしなくなる。なんなんだ、この女。
「じゃあ、今の話が全部本当だとでも?」
「その通りです。藤さま」
「じゃあそれを信じるに足る証拠は?」
「・・・・・・・・・」
エリシエルは、俺の目を見つめたまま黙っている。
その目には、慈母のような優しい色が浮かんでいる。
そして彼女は、小さな子供を諭すような口調で、こう言ったのだった。
「藤さま。そんなことは、今はどうでもいいのですよ」
「は? そ、そんなことって、おれは」
「ああ、そうでした! 藤さま、まだ入居手続きをなさっていません。早速今からいたしましょう!」
「え?」
俺の言葉を無理やり遮ったエリシエルは、いいことを思いついたとばかりに、両手をぱちんと合わせてみせた。
「わたくしとしたことが、すっかり失念しておりました。少々お待ちください。書類等をご用意いたしますね」
「え、ちょ、ちょっと待ってくださいよ。まだ続けるんですかこれ?」
「ご心配には及びません! 我々ラキューナ人の本懐は、確かに地球侵略です。しかし、生き残りの方を隈なく探し出して殲滅するような、残虐思考を持っているわけではございません」
「あれっでもさっき人類は滅亡しましたって・・・」
「敗者に鞭打つような真似はしないということです。藤さまには、こちらで何不自由ない生活を送ることを約束させていただきます。どうかご安心を」
「なんか矛盾してねえか、それ」
俺の本心からの突っ込みをさらに無視し、エリシエルは説明を続ける。
「手続き自体は煩雑なものではございません。まずは藤さまに、入居するお部屋をいくつか見ていただき、どちらに入居するのかを決めていただきます。その後、こちらの書類に藤さまのご署名だけをいただいて、情報登録等はこちらで全て行わさせてもらいますので、あとはご入居だけですわ」
どこからともなく取り出した数枚の書類を手で指し示しながら説明を終え、エリシエルは締めくくりとばかりににっこりと笑った。
・・・いやいや、笑ってごまかそうとすんな。否、これは、ごまかそうとしてるんじゃなくて、本気なのか。俺には信じがたいが、少なくとも彼女は、自分が宇宙人だということ、地球侵略にやって来たこと、おまけに全人類まで滅亡させてしまったことを本気で信じているらしい。
・・・これはもう、とことんまで付き合わされるんじゃなかろうか。
今までの演出が全部、彼女の大がかりな舞台装置付きの妄想だとするならばまだいいだろう。でも、もし、そうでなかったら。本当に彼女が、人類を軽く滅亡させられるほどの力と技術を持った、異星人のひとりだとしたら。そう考えた途端、目の前のエリシエルの微笑みが、心底恐ろしいものに見えてきた。
「それでは、早速お部屋にご案内させていただきますわ。どうぞ、こちらへ」
エリシエルはそう言うと、颯爽と立ち上がり、手のひらで方向を示してみせた。
彼女の指先の方向へ目を走らせる。
つい今し方まで何もなかった真っ白な空間に、いつの間にやら凄まじい数のドアが設えられていた。
それぞれ、質感も色も、大きさも違う。個性豊かなドアが、遥か遠くまで横一列に並んでいた。
「藤さまにご案内させていただくお部屋は、一万七千六百五十三ございます。どのお部屋にも異なった特徴がございますので、何度同じ部屋を見ていただいても構いません。さあ、藤さまが見たいと仰ったお部屋から、案内させていただきますよ」
等間隔に横並びになったドアを示し、微笑むエリシエル。
その膨大すぎるドアの数に、目眩を覚えた。人智を超えた圧倒的数の暴力を前に、俺がとれる行動の選択肢は、ひとつしか残されてなかった。
「・・・それじゃあ、ここから見ます」
ともすれば簡単に殺されるかもしれない相手に、これ以上立ち向かう度胸は、残念ながら俺にはなかった。



俺が最初に選んだのは、水色のペンキが塗られた木製のドアだった。
実にシンプルな造形のドアだった。ドアの上部真ん中にはドアアイがあり、そのすぐ下に“501”と刻まれた金属製のプレートが打ちつけられている。察するに、501号室、ということのようだ。こんな真っ白い空間に階層があるとは、さすが宇宙人の技術というべきか。
「こちらのお部屋でございますね。少々お待ちください、鍵をお開けします」
エリシエルはそう言うと、シスターの装束の懐から、鍵の束を取り出した。
まるい金属の輪っかに連なった大小無数の鍵が、ちゃりちゃりと小気味よい音を立てた。彼女はその束の中から、小さな青い鍵を取り出した。青緑色のメッキ塗装が施された、金属製の鍵だ。持ち手の部分をよく見ると、魚の形をしている。ウロコとヒレを単純な線で描いた、イラストチックな魚。
彼女は、静かにドアノブの下の鍵穴に鍵を差し込んだ。
カチャリ、と、軽い音を立てて鍵が開く。
「どうぞ」
そして彼女は、ドアの脇に避け、軽くお辞儀をした。
俺は彼女を一瞥し、ゆっくりとドアに近づいた。ドアを開いて部屋に入った途端、罰ゲームのように落とし穴が開き下のプールに落とされる、などという陳腐な妄想をしてしまう。ただの水たまりならいいが、もしサメがうようよしている水槽だったら・・・いやいや、何を考えているんだ俺は。魚の形の鍵を見たから、そんな連想をしてしまったのだろうか。
頭を振って妄想を振り払い、冷たいドアノブを掴んだ。ふと、ドアノブの少し上に小さく赤い金魚の絵が描かれているのに気がついた。真っ赤なペンキで、くるりと旋回して泳ぐ金魚の広がる尾ヒレなどが、器用に描かれていた。金魚は3匹描かれている。この部屋のモチーフは、やはり魚なのだろうか。
「どうぞ、遠慮なさらず」
再びエリシエルに促され、俺は慌ててドアノブを回した。
がちゃ、と、ドアが開く。
俺は、あくまでもゆっくりと慎重に、部屋に足を踏み入れた。

まず目に飛び込んできたのは、白とは打って変わった鮮やかな青だった。
こぽこぽと、無数の気泡が水の中を立ちのぼる音。ひっきりなしに水が流れる音。水の揺蕩う音が重なり合い、じんわりと鼓膜に染み込んだ。
その理由は、目を凝らすまでもなく一瞬で氷解した。

部屋の壁という壁、床という床が、全面水槽になっていたのだ。

あまりにも神秘的な光景に、息を呑んだ。
どこを見てもどちらを向いても、水を満たされた水槽に囲まれている。まるで、水族館のような様相だった。天井の照明類は消され、床を埋める水槽の底にぽちぽちと小さな照明がたかれているだけなので、ずいぶん薄暗い。その仄暗さも、水族館のそれを連想させた。
しかしよく見てみれば、床や壁全面がひとつの水槽になっているわけではなく、隙間なく大小無数の水槽が埋め込まれているのだった。それぞれの水槽には、無数の種類の魚が泳いでいる。ペットショップで売られているような色鮮やかな熱帯魚がいるかと思えば、田んぼの用水路に泳いでいそうなメダカやフナやドジョウがいる水槽もある。
水槽の中のレイアウトも、魚の種類に合わせているらしくさまざまだった。水草で覆われている水槽、石や砂利だけがゴロゴロ入っている水槽、かわいらしい陶器の置物が入っている水槽。雑なレイアウトのものもあれば、丁寧に装飾が施されているものもあった。
それぞれの水槽に供給される酸素がこぽこぽと立ちのぼり、その気泡の間を縫うように魚が泳いでいる。実に心が洗われる、癒しの光景だ。
「いかがでしょうか、藤さま」
いつの間にか、エリシエルが俺の背後に立ち、そう訊ねてきた。
「・・・なんだか、すごい部屋ですね」
「“水底の部屋”と呼ばれています。地球上の魚が、全てこの水槽に集まっているんですよ。見たこともある魚も多くおりますでしょう?」
立派な出目金が優雅に泳ぐ水槽を眺めながら、俺は何度もうなずいた。
「さらに、こういったこともできます」
エリシエルが、おもむろに右手を一番近くの水槽に向けて翳した。
すると、水槽の中の水が、中に入る魚たちを閉じ込めたまま、まるでゼリーの型抜きのようにするりと外へ抜け出した。立方体に切り取られた水が、その表面をかすかに揺蕩わせながらゆっくりと宙に浮かぶ。彼女はそれをいくつかの水槽に繰り返し、中身を宙に浮かべてみせた。
「おお・・・」
神秘的な光景に、思わず驚嘆の声をあげてしまう。
もはや何が起こっても驚くまいという、非常事態に対する妙な耐性がついてしまったせいか、目の前で起こる怪奇現象を受け入れてしまっている。我ながら逆境に強いんだなあと、妙な自分の強みに気がついたくらいだ。
四角い水槽の水だけが、ふわふわと空中を漂っている。しばらく天井近くを漂っていた水槽は、やがて俺の目線あたりまで降りてきた。鮮やかな深い青の魚や銀色に光るウロコを持った小さな魚が目に映る。思わず指を差し入れてみたくなったが、エリシエルの手前あまりに子供っぽいかと思い、自制した。
口を開けて上を見あげていた俺を見、エリシエルがくすくすと笑った。
「藤さま、大きなお口ですこと」
はっとして口を閉じた。・・・十分子供っぽいではないか、恥ずかしい。
それにしても、美しい光景だった。壁も床も全面水槽というのは、正直奇妙なセンスだとは思うが、それを差し引いても神秘的なことに変わりはなかった。
部屋の中心にはアクリルガラスのダイニングテーブル、さらに奥には上等そうなシステムキッチンが備えられていた。テーブルの上には、丸い金魚鉢が置かれている。両側の壁には、向かい合うように水色のドアがふたつあった。おそらくどちらかが寝室で、どちらかがバスルームなのだろう。ひとり暮らしの部屋としては、十分すぎるほどの広さだ。
・・・否、なんで俺、真面目にここに住むことを検討してるんだ。
「気に入られましたか?」
熱心に考えていると思ったのか、エリシエルがそう訊ねてきた。
「えっ・・・あー、ちょっと魚が多すぎて落ち着かないかなーって」
慌てた俺は、またもや中途半端な返答をすることになった。
「・・・あまりお気に召さないご様子ですね」
「あ、いや、決めるなら全部の部屋見てから決めた方ががいいかなーって思っただけですよ、はは、ははは」
無理やり笑顔を作って言い訳じみた答えを返すと、エリシエルはふわりと微笑んで言った。
「なるほど、そういうことですね。かしこまりました、では次のお部屋に行きましょうか」

再び、先ほどの真っ白い空間に戻り、俺は次の選択を迫られた。
どのドアを選ぼうか悩んでいるふりをして、少し考えてみる。実に浅薄で希望的観測じみた考えだが、もし俺が、ここに提示された部屋のどれも選ばなかった、と仮定しよう。どの部屋もいまいち気に入らないからここには住めない、と、断ってしまうのだ。そうすれば、かなり確率は低いが、ここから出られるんじゃなかろうか。
我ながら、笑ってしまうくらい楽観的で、愚にもつかない考えだ。部屋のドアは、それこそ無限にも見えるほど遠くまで連なっているし、そもそも一歩間違えたらすぐにでも殺されそうな脆弱な計画だ。しかしだ。俺の手もとにある選択肢は今や、残り少ない。やってみる価値くらいはあるかも知れない、と思った。
そう考えながら俺は、ちらりと傍らに立つエリシエルを一瞥する。どこからどう見ても、シスター及び人間以外の何者にも見えない。この女に計り知れない力があることはわかっていたが、ここにきて俺は彼女の話を信用しきれなくなっていた。先ほど人類滅亡について言及したとき、かなり強引に話を逸らしたのは、本当に提示できる証拠がないからではないか。そう考えてしまったのだ。

そして、今ならば言える。
俺は、どこまでも浅はかで短絡的な思考の持ち主だった。



「じゃあ、こっちの部屋で」
ある程度考えをまとめながら、俺はエリシエルにそう言った。
・・・よし。とにかく、何か理由をつけて入居を断るのだ。もしもそれで俺の身に危険が及ぶようならば、そのときはそのときだ。
「かしこまりました。お開けします」
エリシエルはうなずき、鍵の束を探り始めた。

俺が次に選んだドアは、深い緑色をしたドアだった。
ただの緑色、というわけではない。下地はただの木製の上に、びっしりと蔦植物が這っているのだ。葉を茂らせた蔦に覆われたドアの上部には色鮮やかな花が咲き乱れ、色とりどりの花びらを下に散らしている。この部屋のモチーフは、部屋の中を見るまでもなく一目瞭然だった。
そうこうしているうちに、エリシエルが鍵の束からひとつ鍵を取り出した。
緑色に塗装された、木製の鍵のようである。木の鍵、とは珍しい、と思う。ドアノブも木のようだから、同じ材質の鍵というわけだろうか。綺麗に木目の浮き出た鍵の持ち手の部分は、木の葉の形をしていた。
エリシエルはドアノブの上まで覆う蔦の葉を払いのけ、カチャリ、と鍵を回した。
「さあ、どうぞ」
彼女に促され、俺はうなずく。
そして、静かにドアを開けた。

「うわぁああああああ!!」
途端、悲鳴をあげてしまった。
何が起こったのかわからなかった。ドアを開けた瞬間、バサリと何かが草の中から落ちてくる音がしたのだが、その音自体には大して注意を払っていなかった。それが間違いだった。
俺は、何の疑いもなく真正面に焦点を合わせた。
そこに、見えたのは。

鎌首をもたげた、巨大な蛇だった。

しゅるしゅると出し入れされる細い赤い舌が、ぺろりと俺の鼻先を舐めた。
そして次の瞬間、蛇は威嚇音を撒き散らしながらシャーッと大きく口を開いた。口の中の奥の牙までもはっきりと視認し、俺は完全に我を忘れたのだった。
そして、この断末魔である。俺は大きく仰け反りながら、勢いよくドアを閉めた。
「いかがなさいました?」
「今の見てなかったんですか!?」
エリシエルの実に呑気な問いに、俺は思わず全力で突っ込んでしまった。
「蛇ですよ蛇! でっかいニシキヘビが目の前にバサッて!」
「この部屋は“ミッドナイト・ジャングル”と呼ばれています。蛇くらい出ますよ」
「いやいやいや! そんなところにどうやって住むんですか!?」
「ご心配には及びません。蛇の毒は全て抜かれておりますから」
そういう問題じゃねえだろ! と、さらに怒鳴ろうとしたが、同時にものすごい勢いで脱力したのでやめた。
「大丈夫ですよ、藤さま。どうぞ中をよくご覧になってください」
「もうイヤですよ!」
「まあまあ、遠慮なさらず」
そう言って、エリシエルは何の躊躇いもなく俺の目の前でドアを開けた。
俺は咄嗟に目を閉じる。が、世にも恐ろしいニシキヘビの威嚇音は聞こえてこない。俺は、恐る恐る、目を開けた。
確かに、そこにはニシキヘビはいなかった。
その代わりに、特徴的な斑点模様の毛皮が見えた。この模様は、知っている。いい歳をした中年の女性がよく着る服の柄だ。
そう。
ドアの向こうから顔を出していたのは、巨大なヒョウだった。
ヒョウは目の前でぽかんとする俺をひと睨みし、世にも恐ろしい牙を全部剥き出しにして、身も竦みあがるような凄まじい咆哮をあげた。
「ぎゃぁああああああああ!!」
俺も、思い切り悲鳴をあげていた。

ぐったりと全身疲労に見舞われながら、俺は次の部屋を選んだ。
今度は少しでもまともそうな部屋を選ぼうと考え、しばらく迷った後、鮮やかな赤と白のストライプ模様に塗装されたドアを選択した。
本来ドアアイがある場所には、いわゆるロリポップキャンディと呼ばれる棒付きの丸い飴が、斜め十字に交差して飾られていた。そのすぐ下には、ピンク色の丸文字で“604”と書かれた小さな木のプレートがとりつけられている。
この明るい色合いとロリポップキャンディを見る限り、微塵も危険は感じない。ただ、これが男性向けかと言われれば、正直首を傾げざるを得ないが。
エリシエルは、今度は難なく部屋の鍵を見つけ出す。持ち手の部分が、青と白のマーブル模様の包み紙に包まれた丸い飴になっている。ずいぶん可愛らしい鍵だ。これまた、俺の趣味に合うかどうかは別として、今回こそは平和な部屋だろう。
カチャリ、と鍵が開く。
「さあ、どうぞ」
エリシエルが、変わらぬ微笑みを湛えて手をのべる。
ドアに近づき、ゆっくりとドアノブを握った。ドアノブのくびれの部分に、真っ赤なリボンが結んである。ドア全体を見ていると、まるで、バレンタイン・デーかホワイト・デーのプレゼントの装飾のようだった。
俺は、甘い香りの漂ってきそうなドアを、ゆっくりと開けた。

「このお部屋は、“キャンディポップ”と呼ばれています。男性の目から見ても、可愛らしいお部屋でしょう?」
エリシエルが先導して部屋の真ん中まで歩いて行き、俺は大人しくその後に続いた。
部屋の中の雰囲気は、最初に入口のドアを見たときの印象となんら変わらなかった。
赤と白のストライプの壁に、真紅の絨毯、真紅のソファ、真紅のランプヘッド。赤系統で統一された家具のところどころに、色とりどりのロリポップキャンディや、包み紙に包まれたチョコレートやクッキー等の菓子が散らばっている。よく見れば、家具の装飾にも菓子が象られていた。
そして、予想通り、部屋中に甘ったるい匂いが漂っていた。
「そ、そうですね・・・ちょっと目に痛いですけど」
「我がデザインながら、本当に可愛いお部屋です。私が住みたいくらいです」
目を輝かせながら言うエリシエル。
一方俺はひそやかに、この部屋作ったのあんたかよ・・・と、口には出さずに突っ込みを入れていた。
部屋の間取りは、最初に見た水槽の部屋とほとんど同じだった。ダイニングテーブルがあり、奥にキッチンがある。両側の壁にそれぞれひとつずつ設置されたドアも同じだ。別段、変わったところも見受けられない。色味と趣向は置いといて、ここなら心配なさそうだ。
・・・完全に、部屋を選ぶ基準が喰われるか喰われないかになっている。だが、どうあれ今の俺にとっては、ヘビもヒョウもいないだけで十分ありがたい。
しかし、この部屋中に漂う甘い香りは、少々きつすぎる気がする。なんなんだろう、このにおい。そこら中に飴や菓子が転がっているからそれらの匂いかとも思ったが、菓子の匂いとは違う気がする。小麦粉や砂糖が空気に溶ける優しげな匂いではなく、もっと強烈で、例えるならばどぎつい色彩の外国の花の香りのような・・・
・・・あれ?
・・・なんだか、意識が遠く・・・
え・・・? あれ・・・? あれ・・・

「藤さま!?」

エリシエルの慌てた声が耳に入った直後、俺の意識は混濁し途絶えてしまった。



「申し訳ございません。どうやら地球人の方は、体質が合わなかったようです」
気がつくと、俺は再び先ほどのベッドで寝ていた。
気絶させられたときよりも、さらに身体が重い。身体の芯に鉛でも詰められているかのようなだるさだ。おまけに、頭がガンガンする。ぐったりと手足を投げ出しながら、俺は恨みつらみを込めてエリシエルを睨みつけた。
「今のお部屋には、ラキューナ人にとっては、リラックス効果がとても高いお香が焚かれているのです。その刺激が、地球人の方には強すぎたようですね。わたくしのリサーチ不足でした」
「・・・・・・」
さらに恨みがましい視線を投げかけてみるが、彼女は気づいているのかいないのか、軽くため息をついて言った。
「まさか、あのお香で生死の境を彷徨うような危篤状態にまで陥るなんて・・・」
「!?」



その後も、俺は片っ端からドアを選び、次々に部屋を眺めた。
見た目にも危険とわかるドアは除き(黒地に髑髏のマークが描かれていたり、無数の刃物が突き刺さっていた)、部屋を検分していった。
小さな裏庭のような部屋。チェス盤をモチーフにした白黒の部屋。たくさんの猫が自由気ままに歩き回っている部屋。ログハウス風の部屋。消えないシャボン玉がふわふわ浮遊している部屋。なぜかダイニングテーブルやソファ等の家具という家具が鉄格子で囲われている部屋。
エリシエルが最初に言った通り、部屋の種類は実にさまざまだった。あまりにも目まぐるしく様相を変えていく部屋の数々は、まるででたらめに廻ってくる季節のように、なんの秩序もなく混ざり合っていた。
しかし、部屋を回っていくにつれて、俺の中の不安はじわじわと膨らんでいった。
いくら回っても、部屋がなくなる気配がないのである。
数えていないから正確にはわからないが、既に100以上の部屋は確実に見ている。そういえば、今までエリシエルが部屋数を教えてくれることはなかった。これはもしや、気に入るまでありとあらゆる部屋を見せられる流れだろうか。
考えただけでも空恐ろしい。そんなことをされたら、精神が削られすぎてなくなってしまうだろう。
冗談ではない。新しい手を考えなくては。
「いかがですか、藤さま。これまででお気に召したお部屋はございましたか?」
エリシエルが、丁寧にそう訊ねてくる。
俺はもはや、苦笑いしかできなかった。・・・まずい。疲弊のあまり何も思いつかない。
これまでだって、特別頭が冴えていたわけではなかった。しかし、さっきから必要以上に驚いたり妙な臭いを嗅がされて気絶したりと、精神と肉体にかかる負担が大きすぎて思考が停止している。
そんな俺の様子を察してか、エリシエルはこう言った。
「お疲れのようですね。また、どこかでお休みになられますか?」
また、さっきと同じ選択肢だ。今度はどちらに転ぶだろう。
・・・などと、シュミレーションゲームのようなことを考えたが、それで気が休まるほど俺の精神疲労は軽くなかった。
俺は、苦笑を浮かべたまま、弱々しくうなずいた。この状態で襲われても何の抵抗もできないだろうが、この疲労感には勝てそうにない。
「それでは、“今まで見たお部屋の中で”、ご休息をとりたい部屋をお選びください。そちらをもう一度、お開けいたします」
エリシエルは自分の胸に手のひらを当て、そう俺に提案をした。
・・・今思えば妙な指示だが、俺にはそれを精査する余裕など残ってはいなかった。ただ、今まで見てきた膨大な数の部屋をもう一度思い出すのか、という単純な七面倒臭さが先に立っただけだった。
それでもどうにかして一通り記憶を辿り、休むのに最適な部屋を探してみる。流石に全ての部屋を思い出せそうにはないが、いくつか候補を挙げることに成功した。その中からどうにかひとつを選出し、エリシエルにその間取りと装飾の内容を説明した。部屋番号を覚えておけば早かったのだが、生憎数字を覚えることは苦手なのだ。
「かしこまりました」
エリシエルはそれだけ言って軽く会釈をし、おもむろにひとつのドアに向かって手を翳した。
そして彼女は、その手をゆっくりと左へ振った。すると、まるで図書館の移動式の書架を動かしたときのような動きで、ドアの列が左方向にスライドした。エリシエルはその動きを何度か繰り返し、目当てのドアが目の前にスライドしてきたところでぴたりと動きを止めた。ドアが陳列棚に載っているかのように横移動していく圧巻な光景に息を呑んだが、思えば今さらのことである。
「こちらのお部屋でございますね」
手早く部屋の鍵を開け、そっと手をのべるエリシエル。
「さあ、どうぞ」
俺が選んだのは、無味乾燥な白色のドアだった。
凝った装飾もなければ、色も模様もない。ともすれば、背景の白い空間と相まって、見落としてしまいそうな部屋だ。内装も同じように、地味で特筆すべき点が見られなかったところが、逆に印象に残った部屋だった。
ともあれ、それだけ無個性な部屋ならば、休息をとるのに最適だろう。色合い的にも、目と頭に良さそうだ。
俺は、本能の赴くまま、部屋のドアを開けた。



部屋の中は、一度目に見たときとなんら変わらなかった。
白い壁紙に、黒い床。モノトーン基調の、非常に落ち着いた雰囲気の部屋だ。部屋の中心には、真っ黒な革張りのソファがひとつ置かれている。
そして。

部屋には、先客がいた。

ひとりの男が、こちらに背を向ける形でソファに座っている。言わずもがな、俺が先ほど部屋に入ったときには人などいなかったので、ひそやかに、だがかなり動揺した。動揺しすぎて、声をかけることすらままならなかったほどだ。
そんな俺をよそに、ソファに腰かけていた男が、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がり、こちらがじれるほどの低速度で、振り返った。
そして俺は、今度こそ、息を呑んだ。

「よう、一太郎。ずいぶん遅かったな」

ソファに腰かけていたのは、ほかの誰でもない、
俺の兄だった。





今日は、本当によく驚かされる日だ。
兄に促されて黒いソファの隣に座りながら、俺はやけに冷静にそんなことを考えていた。
「どうだ、修学旅行は。楽しかったか?」
俺の心境を知ってか知らずか、兄は俺にそう訊ねてきた。
隣をちらりと一瞥する。さらりと短い黒髪に、はっとするほど端正な横顔。その上、これからパーティに出かけるのかというような、洒落たスーツを着こなしている。
どこの映画俳優だと訊ねたくなる要望をしているが、実はこれでも普段となんら変わらない、俺の兄の姿だった。
「楽しいもなにも、始まってなかった」
正直にそう言うと、兄はさもおかしそうに笑い声をあげた。
「そうか。そうだよな・・・はははは」
「そんなに笑うことないだろ」
「ははは・・・すまんすまん」
兄は笑い過ぎて目尻を指で拭ったあと、さもないことのようにこう言った。
「まあ、これでわかったと思うが、こりゃ俺の差し金だよ。全部な」
まあ、そうだろうな、と単純に思った。
冗談にせよ何にせよ、こんな大がかりな真似ができるのは世界広しといえど兄くらいのものだろう。しかし、気になることがひとつだけある。
俺は、あくまでも素直に兄に訊ねた。
「なんでこんなことしたんだよ」
「テストしたんだ」
「・・・テスト?」
「そうさ」
兄はそう言い、俺の方を見てまた、笑った。

「お前が俺と一緒に“この地球を侵略するに相応しいかどうか”のな」

ある程度想定はしていたが、これは少し予想外の返答だった。
「俺、その気はあんまりなかったんだけど」
正直にそう言うと、兄は吹き出して言った。
「バーカ。俺がお前のやる気なんか端っから気にしてるわけねえだろうが」
兄のぶっきらぼうな返答に、俺は思わず苦笑した。
そりゃそうだ。兄は、そもそも“戦力”として数えていない者を、わざわざ地球に連れてきたりはしない。兄は昔からそうだった。茶目っ気があるようでどこまでも苛烈で冷淡で、ひとつのことに固執すると、滅多なことでは諦めない。俺の心持ちなど、最初から考慮されている余地などなかったのだ。
「どっから本気だったの、“これ”」
それでも俺は、とりあえず質問を重ねる。
「どっからも何も、全部だ」
兄は、こともなげに続けた。
「さっきお前が聞いた通り、侵略本部はここに立てたし、もうすぐほかの同胞たちもやって来る。・・・そうだな、ひとつだけ嘘をついたとすれば、“人類が滅亡した”ってところか」
やっぱりそこか、と思う。
流石に人類の存続に関しては、地球侵略にまるで興味のない俺の耳にも入ってくるはずだからだ。
「じゃ、さっきの女の人・・・あのエリシエルっていうのは、誰」
「ああ、彼女は俺の同僚だよ。実質的に“地球侵略”を任されてんのは、俺と彼女のふたりだ」
へえ、と声を洩らすと、兄はへらりと笑ってこう言った。
「優秀な人だよ、ちょっと変わってるけどな」
ちょっと、という部分に大いに引っかかるが、敢えて突っ込むことはやめておいた。
それにしても、と俺は思う。
「ずいぶん趣味の悪いテストだなあ。もうちょっとなんかあったんじゃないのか」
「お前、最近の日頃の行いが悪かったからな。あの部屋云々ってのは俺たちにしか通用しない心理テストみたいなもんだ。面白かったろうが」
兄が、タバコに火を点けながら言う。
「俺にもちょうだい」
「そういうとこがだよ、馬鹿」
タバコとライターをジャケットのポケットにしまいながら、兄はにべもなく告げた。
「母星では全部許される年齢になってるんだ、何の問題があるんだよ」
俺が笑いながらそう言うと、兄は静かに首を振った。
「そういう問題じゃない。“この姿”をとっている以上は地球人の高校生らしくしろ。だからお前は義務感と責任感が足りないんだ」
「してるよ。ちゃんと兄さんの言う通り、学校でも目立たないように努力してるし」
「それは単純にお前が学校をサボりたいからだろ」
そう言われると、返す言葉もなくなる。
「・・・けど、ほかの奴らにバレない努力はしてた」
「最低限のな」
「だって俺、やる気なかったし」
「何度も同じこと、言わせんじゃねーよ」
そう言うと兄は、ゆったりと立ち上がった。
ゆらりと俺の前に仁王立ちをする兄は、凄絶な微笑みを浮かべていた。ぞろりと身体中総毛立つ。・・・恐ろしい。実に恐ろしい笑顔だ。
そして、こうなったときの兄には、絶対に逆らえないことを知っている。
「テストの結果を知りたいか? 弟よ」
兄は、笑顔のままそう訊ねてきた。
「できれば遠慮したいな」
兄の笑顔から顔を背けながら、俺は正直なところを言った。
そんな俺を見て、兄がさらに意地悪く笑う気配がした。くつくつと聞こえる笑い声の端から、兄は俺にこう告げたのだった。


「合格だ。おめでとう。今日から晴れて、お前はセレスティア星団第4惑星“ガルダ”、“地球侵略総本部”の一員だ」


俺は、うんざりするほどし尽くしたため息を、今一度吐いた。
今度こそ、これ以上考えるのをやめたかった。しかし、そんな甘ちょろいことが兄に通用しないことを、俺は経験則として知っている。
そう、経験則として。
だから俺は、観念していつものようにこう言うことしかできなかった。

「わかったよ、今日から俺も侵略異星人ってわけだな」

半ば諦め口調で言った俺に、兄は満足そうにうなずいた。

ああ、全人類よ哀れなり。と、俺は思う。
これで、地球上の“人類滅亡”は、嘘ではなくなってしまったのだ。理由は簡単だ。

俺の兄が、こうして不敵にも笑っているからである。
俺は静かに目を閉じて、心の中で数を数え始める。次に兄が何かを仕掛けるまで、そして、人類が滅亡するまでの。

カウントダウン開始。

感想  home