「6:18分、そろそろだ」
まぶしい朝日が窓から入り込み、二階の廊下を明るく照らす。その中に一人たたずむ制服姿の山本梓は、一室のドアーの目の前に立っていた。
梓はゆっくりと深呼吸をしてからいつものおまじないを頭の中で三度繰り返す。
(私は今から吉池美奈子、私は今から吉池美奈子、私は今から吉池美奈子……)
おまじないを言い終えると再び静かに深呼吸。目を開き、ドアーをそっとノックした。
「おにいちゃん、入るね」
軽く滑りのいいドアーを開け部屋に入ると机の上には勉強道具で広がっていて、ベッドの上には毛布で出来た大きな雪山がそびえ立っていた。
「おにいちゃん、朝だよ、起きて」
梓はベッドに寄ると雪山を揺らしながら布団を引き剥がす。その中には小動物のように丸くなって眠っている吉池達樹がいた。なぜか制服姿で、手には電源が入ったままの携帯ゲーム機が握られていた。
「もう! またそんな恰好で!」
眠る達樹の体を揺らしながら梓が何度も名前を呼ぶ。すると、ゆっくりと気だるそうに達樹が体を起こした。
「ん~~、おはよう美奈子」
大きなあくびをしながら達樹がつぶやく。
その言葉に梓は一瞬ドキリとしながらも、いつものようににっこりと笑って返事を返した。
「おはよう、おにいちゃん」

――私のしていることは許されないことなのかもしれない。
  でも、それで彼がまた昔のように笑ってくれるのならば、私は喜んで受け入れることにする。
  たとえその笑顔が私に向けられたものじゃないとしても、
  この嘘偽りが、彼にとっての幸せあることを願って――

White lie



学校へ向かう道中でも吉池達樹は大きなあくびを繰り返していた。
「おにいちゃん、また夜遅くまでゲームしていたの?」
「まるでオレがダメな学生みたいな言い方だな」
「そんなんじゃないけど、だってゲーム機持ったまま寝てたし、それに制服のままだったし」
「美奈子、おまえは誤解している」
「?」
「あれにはちゃんとした科学的根拠があるんだ」
「科学的って……」
「いいかい? ゲームをしていたのはあくまで息抜き。オレはテスト勉強をしていたんだ」
「再来週テストだもんね」
「うむ、だが残念なことに息抜きの途中で急激な睡魔に襲われてしまってな」
「ようするに妥協しちゃったんだね」
私の一言で達樹の顔が歪む。
「ま、まぁテストまで時間はあるから問題はないさ」
「じゃあ制服のまま寝ていたのは?」
「あれはその……あれだ」
「どういうあれなんです?」
少し困ったような顔をする達樹に、私はにやにやとした表情で聞き返す。
「制服着たまま寝たら、起きた時にすぐ家から出れるだろ?」
「シワだらけの制服のままで行くつもりだったの?」
「……」
ぐうの音も出ないとはこういう状態のことなんだろうな。と私は思った。
達樹の困った顔は、まるで小さな子供のようで、見ているともっといぢわるしたくなるような衝動に駆られる。
だけど、今日はこれくらいにしておいてあげよう。朝から元気をなくされては、その日のテンションも低くなってしまいかねない。
「ま、私がシワ取りしてあげたことに感謝してよね」
「……恩に着ります」
いつもと変わらない、どこにでもあるような高校生同士の登校風景。梓はそんな毎日が好きだった。
隣同士の家に住み、幼稚園のころから一緒にいて、それでいて互いに恋愛感情を抱いている。
そんな少女漫画のような奇跡的な境遇に生まれて私はとても幸福な人間なんだと思っていた。
だけど、この先の角に差し掛かると、唐突に現実を突きつけられることになる。
「じゃあ、こっちが中学だから」
「おう、またな美奈子」
「いってらっしゃい、おにいちゃん」
達樹はにこやかな笑顔で私に手を振ると、道をまっすぐ歩きだした。
「…………」
私が立ち止った曲がり角の先には、達樹の妹である美奈子が通っていた学校がある。
私はその方向をちらりと見ると、向きを変え、先に進んだ達樹とは違う道へと歩き始めた。

吉池達樹には中学生の妹、美奈子がいる。 いや、正確に言うならいたのだ。
吉池美奈子は、去年の夏休みに交通事故で帰らぬ人となった。年の離れた兄妹だったこともあり、二人はとても仲が良く、よく遊んでいた。その中に、私も参加させてもらっていた。
「おねえちゃんは、いつになったらおにいちゃんと結婚するの?」
そんな言葉を、美奈子からよく言われていた。私は恥ずかしなりながらも、将来はそうなるんだろうなと考えていた。たぶん、達樹もそう思っていてくれたのだと思う。
だけど、美奈子が亡くなってから、達樹は目に見えて元気をなくしてしまった。
彼にとって妹を失った悲しみというのは並大抵の辛さではなかったのだろう。高校にもいかず、部屋にこもり、ただ泣き崩れている日々。
そんな彼を私も彼の両親もなんとかしようとした。だが、状況は悪くなる一方だった。
ところがある日、不意にやってきた達樹に私はこう呼ばれたのだ。 「美奈子」と。
その日から、吉池達樹の頭の中から山本梓という人間に代わり、失った吉池美奈子が誕生したのだ。

「おはよう」
ドアーを開け、私は教室に入る。達樹はまだ来ていなかった。
さすがにすでに高校生の梓が美奈子と同じように中学校に通うわけにはいかない。私は達樹が通る道を避けるようにして先回りをし、登校してきた。
クラスメイトと軽い挨拶を交わすと自分の席に座る。ほどなくして達樹が入ってきた。梓同様にクラスメイトにあいさつをし、席に座る。その場所は梓の二つ前の右側。表情までは見えないが、観察しやすい場所ではある。
「……」
私は友人たちと親しげに話している達樹を見つめる。その姿は昔のころと何一つ変わっていない。
やがて授業開始のチャイムが鳴り出した。クラスの生徒たちはあわてて自分の席に戻り、それと同時に教師が入室してくる。
私も、そそくさと教科書と筆記用具を取り出すと授業に取り掛かることにした。時折、前に座る達樹を眺めながら。

「吉池、君……」
吉池達樹の頭の中では、一応は山本梓は存在しているらしい。
お昼休み、中庭のベンチで一人でお弁当を食べていた達樹に梓が声をかけた。
達樹は声をかけられると一瞬止まって目を向ける。その表情からは特に感情らしいものはうかがえない。
「隣、いいかな?」
「はぁ、どうぞ」
他人行儀なあいさつをうけると、梓は達樹の隣に腰を下ろした。手際良くお弁当を膝の上に広げて食べ始める。
その姿を、隣の達樹は少し不思議そうな眼で見ていた。
「山本、さん?」
達樹がおそるおそる声をかけた。その言葉に梓はにこやかな顔で反応する。
「あの、いつもオレと飯食ってるけれど、他の女友達と食べたりしないの?」
達樹の言葉が梓の顔をわずかに歪ませた。
「いいじゃない別に、そういうの苦手なのよ」
彼の中に存在している私は、もう以前の私ではない。
学校にいる時の彼にとって、山本梓は単に周りにいるクラスメイトたちと変わらない関係になっていた。
それは真っ黒に塗りつぶされたヒトガタのような、挨拶程度はするけれど、どこにでもいて、それ以上の関係には決してならないような。モブキャラクター的な存在。
スイッチのようなもの。と言えば分かりやすいのかもしれない。
彼には、山本梓が二種類の人間に見えているらしいのだ。
学校にいるときはクラスメイトの山本梓。ソレ以外の時は妹の美奈子。
彼の見え方によって私は言動を変わるわけではないのだけれど、達樹にはそう判断されていた。
「もしかして、山本さん友達いないの?」
「あら? その言葉はそっくりそのまま吉池君にお返しするわ」
「食事は自分のペースで食べたいの!」
眉を八の字にして達樹はちょっと早口でそうつぶやくと、少しやけになったようにお弁当を強引に口に運ぶ。見事に食事のペースを乱されてるなァ。
そんな子供っぽい仕草は昔の彼ままだった。
私は彼の少しむくれた顔を見ながら、静かに食事をつづけた。
お昼を食べ終えると、お茶を飲みながら少しばかりの食休み。よく晴れた空と、やんわりとした暖かい風がほほに触れた。
そんな時、私はふとした思いつきで彼にあることを聞いてみた。
「吉池君って一人っ子?」
妹の美奈子に見える私がこの場所にいる状態で、美奈子のことを質問すると、一体どういう反応をするのだろう? と。
「なんでそう思うの?」
「ん~、なんとなく」
「なんだよそれ」
達樹は含み笑いをしながら携帯を取り出すと画面を開いて梓に手渡した。
「……」
ある程度は想像していたけれど、携帯の画面には梓の予想通りの画像が表示されていた。
「妹がいるよ。美奈子って中学生が一人」
達樹から渡された携帯電話の画面には、達樹と梓のツーショット写真が写されている。
頬と首筋、それから背中にひんやりとした何かが流れ落ちていくような感覚がした。
やはり私は美奈子の代わりでしかないのだろうか。と、頭の中でそのセリフが山彦のように繰り返される。
「か、可愛い娘だね」
私は携帯を達樹に返すと皮肉めいた言葉を返す。
「でしょ? もう中学二年なんだけれど、何時まで経っても子供っぽくてさ、困っちゃうよ」
ハハハと笑う達樹に、少しだけムカッとした感情が芽生えた。
その笑顔が、なんで私に向いてくれていないのだろうか。
私の方を見ているのに、なんで梓に笑いかけてくれないのかって。
そんなどろどろとした感情が、ふいに流れてきた昼休憩終了のチャイムによってかき消されていった。

風が柔らかくなった夕暮れ、私は道路の片隅で人を待っていた。
朝、達樹と別れた曲がり角の一角。いつも美奈子が達揮との待ち合わせ場所として使っているポイントだ。
朝の時と同じように、私は達樹に会わないように一人で先に学校を出た。
いつもならば学校が終わってすぐにこの場所にくると数分足らずで落ち合うのに。
「今日は遅いな……」
時計を見ると、いつもの時間より十五分ほど過ぎていた。
だけど、達樹が寄り道して帰ってくることはまずない。あったとしても「美奈子」と合流してからだ。
「もう少し待とう」
達樹を待っている間、私はその場から見える街並みをぼんやりと眺めることにした。
これから家に向かう人達が目の前を何人も通りすぎていく。
泥だらけになってサッカーボールを持った少年たち。スーツ姿のサラリーマン。買い物袋をかごに乗せて自転車で走り抜けるおばさんたち。
なんとなく、ああ、今日も終わるんだなぁ。 だなんて感傷的な気分に浸っていた。
「何ぼーっとしてんだ、美奈子」
唐突に、そんな言葉と頭にずっしりとした重みを感じた。
振り向くと、そこには達樹がいた。私の頭に手を乗せて、わしわしと撫で回しながらにこにことした笑顔で私を見ている。
「あ、えと……」
突然のことで、私は体が動かなくなってしまった。それでも、自分の顔や耳がどんどんと熱を持っていくことは理解できた。
耳の奥から、自分の血の流れる音がビクンビクンと聞こえてくるのがよく分かる。
「き、来たなら声かけなさいよッ!」
思わず強い声で言い放ってしまった。
「何怒ってるんだよ」
「……な、なんでもない!」
私は達樹の顔を見るのが恥ずかしくなってしまった。一緒にいることが耐えられなくなってしまい、思わず一人で先に歩き出してしまっていた。
「お、おい。 待っててくれたんじゃなかったのかよ」

家で夕食を食べ終わると、私は美奈子として達樹の部屋に向かった。
本来ならば私たちは正式に交際しているわけでもないのだけれど、私は「美奈子」として時々彼の部屋にやってくることにしているのだ。
単なる暇つぶしのようなものなのかもしれないし、変わってしまっていても好きな人のそばにいたいという想いなのかもしれない。
余談になるのだけれど、達樹は食事や家での生活の中で美奈子がいないことに違和感を覚えることはない。だから、食事や私生活にまで「美奈子」として私が介入することはないのだ。
「そういえば今日ね、学校で美奈子のこと話したんだよ」
ゲームをしていた達樹がふいに私にそう言ってきた。
「え?」
突然の話題に私は少し驚いた。
「おにいちゃんはいつも中庭でご飯食べているんだけれどね、その時にクラスメイトの人と一緒になったんだ」
昼間のことが頭の中でフラッシュバックされる。
「山本さんっていう女の人なんだけれどね」
梓の胸の奥で、一際強く心臓が脈打った。
「その人、友達がいないみたいでおにいちゃんによく絡んでくるんだよ」
梓の胸のドキドキが、ムカムカに一瞬変わった。
「ふ、ふぅん。 で、おにいちゃんはどうしたの?」
「その山本さんがね、おにいちゃんは一人っ子か? って聞いてきたんだ」
梓は昼の光景を思い出す。
「だから答えた、妹が一人いるって言ってね。 写真も見せたんだ」
そう言って達樹は携帯を出して昼間見せた画像を、また私に見せた。
達樹と、梓のツーショット写真。
「美奈子のこと、可愛いって言っていたよ」
にこにこした表情で、達樹が「美奈子」を見る。
「--ッ」
その評定に、私はなんだかこらえ切れない気分になってきた。
「ごめん、おにいちゃん。 私そろそろ休むね……」
達樹の返事も聞かず、私は顔を伏せたまま部屋から飛び出してしまっていた。
私は自室に駆け込むと、膝をついて声を上げて泣きだした。
彼の私に向ける笑顔は、私じゃなくってもう死んでしまった妹へ向けられているもの。
私が彼に向けた笑顔は、彼にとっては死んだ妹が見せてくれた笑顔。
なら、ここにいる山本梓は一体誰から笑顔を貰えばいいのだろうか。
これが、彼に嘘をついている代償なのかもしれない。
いっそのこと、本当のことを言ってしまおうか。
ふいにそんな事を考える自分がいた。
「でも」
美奈子が死んでからの達樹の姿を目の当たりにしている私には、そんなことできるはずがなかった。
もし本当のことをバラしてしまったら、あの悲しくて、苦しくて、絶望的な姿の彼を、また見ることになるかもしれない。
そんなのは嫌だった。
だから、辛い思いをすることを覚悟の上で私は嘘をつき続けた。
「あきらめるには、まだ早い」
私は自分にそう言い聞かせると涙を拭って深く深呼吸した。
彼が夢から醒めて、現実に戻ってくる日は必ず来る。
それまで、私が彼のそばに居てあげよう。
彼が辛い思いをしないように支えてあげよう。
そう思い、私はまた明日から「美奈子」になることをココロに決めた。

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