いつものように部室のドアを開けたとき、腰に鈍痛を感じた。
 あまり意識していなかったが、ここのドアを開けるために腕以外の筋肉も活用していたらしい。
 未だ治りきっていない筋肉痛に顔をしかめながら、木成は部室への敷居をまたいだ。
「おっ! 来たねえ、木成くんっ!」
 いつもと変わらぬ快活な野根の声。
 二学期になり、夏休みの一件以来、顔を合わせるのはこれが始めてだった。
 彼女の声を聞き、夏休みに体験したあの一夜は寝苦しい夜に視た夢だったのでは――そんな考えが脳裏をよぎった。
 ――違う、あれは夢なんかじゃない。
 木成は自身の想像を一蹴すると、椅子に腰を下ろした。
「ねえねえ、ニュース見た? あの日帰ったあと、私はすぐに寝込んじゃったからさ。次の日の朝刊で知ったんだけど」
「……ええ。ぼくはテレビで見ましたけど」
「まっさかねー。あの事件の経緯、木成くんの予想通りだったなんてね。……あ、いや、予想以上、か」
「床下にも何人か埋まってたんでしたっけ」
「うん、古いのやら新しいのやら、全部で九人分の死体があったらしいよ。あのお爺ちゃん、物見遊山に来た人を警戒してたとは言ってたけどさ。見つけたら追い返すんじゃなくって、私たちみたく小屋の中に誘い込んでたみたいだね」
 十人目は私たちが先に見つけちゃったんだけどね、と小声でつけ加え、野根は笑った。くすくすと、まるでいたずらに成功した少女のように。
「いやあ、木成くんのおかげで助かった、ってことだよね。よっ、木成様っ! あなた様のおかげで今日もご飯とお味噌汁がおいしいです!」
「……丁度似たような話が、読書感想文に書こうと思ってた怪談本に載ってたんですよ」
「へえー、やっぱ読書家は想像力が違うねえ。それよりさ。あれ、持ってきてくれた?」
「もちろん」
 机に置いた鞄のファスナーを開き、透明な硝子瓶を取り出す。
 硝子瓶にはなみなみと液体が注がれ、微小の気泡が内側に付着していた。
 瓶を揺するたびに上下左右と気ままに動きつづける気泡。
 それとは異なる小さな球体が、硝子瓶の中央付近を漂っていた。
 人間の――眼球だった。
「きゃーっ! ありがとお!」
 野根はひったくるように木成の手元から硝子瓶を取り上げ、頭上へと掲げた。
 大きく開いた窓から差し込む夏の日差しが、液体に浮かぶ眼球を煌かせる。
 彼女はそのまま微動だにせず――いや、表情だけは目に見えて緩んでいた。
 恍惚とした表情。
 木成がこの場にいなければ、硝子瓶に頬ずりしているだろう。
「防腐処理としてホルマリンに浸けときました。でも、瓶を開けちゃ駄目ですよ。ホルマリンに空気が流入すると、その眼も駄目になっちゃいますんで」
「うん……そうだね……そうだったよね……」
 木成のほうをちらりとも見ずに、野根がぶつぶつと呟く。
 恐らくここにいても、今の彼女ではまともに話すことはできないだろう。
 木成は鞄を閉じると、椅子を机の下に押し戻した。
「今日はこれで帰りますね。お疲れ様でした」
 おつかれぇ、と野根の気のない挨拶を背中に受けつつ、木成は部室を後にした。
 べたつく廊下を歩みながら、鞄に入っているもう一つの硝子瓶の感触を確かめる。

 あのとき、二人の前に打ち捨てられていた〝人間の部品〟――それこそが目的だったのだが、切望していたはずの野根は手を動かそうとはしなかった。
 視界が利かず、どう拾い上げればいいかわからなかったのだ。
 そこで木成はこう提案した。
『量が凄いので、適当な大きさのやつだけぼくが拾いますね』

 そうして木成は回収した。眼球を二つ。
 片方は野根に渡し、もう片方は別の硝子瓶に収まり、彼の動きに合わせてゆらゆらと鞄の中で揺れていた。
 あの老爺が殺人容疑で捕まったいま、これは重要な参考品になるのではないか。良識のある者ならこう言うだろう。早く警察に届けなさい、と。
 だが、野根はもとより、木成もそうする気はまったくなかった。
 二階まで降りたところで、玄関口へと向かわず、再び職員棟へと入る。
 帰る前に寄るべき場所があった。
 木成は〝理科準備室〟と記されたプレートが掲げられた教室の前で足を止めた。
 部室と同じくらい古めかしい扉だ。錆色に変色したドアノブに手をのばし、捻る。部室よりも開けられる頻度が低いせいか、扉はなかなか開こうとしなかった。
 そういえばこの教室、普段は施錠されていたような。
 そのことを思いだしたとき、バキッと厭な音をたてて扉が開いた。どこか壊してしまったかもしれないが、確認する気にはならなかった。

 中は酷い臭いだった。
 準備室の手前側には使用頻度の高いビーカーやフラスコなどが保管されている。
 だが、奥に進むにつれ、ホルマリン溶液に漬けられた両生類や魚介類が姿を見せるようになった。溶液はひどく濁り、内臓の一部がゴミのように漂っている標本もいくつかあった。
 あまり手入れをされていないのだろう。
 この臭いからすると、どこかでホルマリンが漏れているのかもしれない。あまり長居はしたくなかった。
 幸いにも、捜していた物はすぐに見つかった。
 木成は眼球の浮かんだ硝子瓶を鞄から取り出すと、蓋を回し開け、躊躇なく指を突っ込んだ。
 ホルマリン溶液に手を突っ込むなど、常識では考えられない行動である。
 もちろん硝子瓶を用意したのは木成だ。そんなことをすれば手がどうなってしまうか、知らないはずがない。

 硝子瓶の液体はホルマリンではなく、ただの水だった。

 そもそも――と、濡れた眼球の感触を指先で確かめながら、木成は思った。
 警察に届け出れば、むしろ迷惑となるだろう。なぜなら――
「これは君のものだしね」
 木成はそう言うと、摘んでいた眼球を教室の最奥にいた人体模型の眼窩へと押し込んだ。
「他の部分もいつか返そうと思ってたんだけど……ごめん、あの山に置いてきちゃった」
 また涼しくなったら取ってくるからさ――それを別れの言葉とばかりに、木成は理科準備室を後にした。

 老爺が盲信するオカルト療法のため、犠牲になった人はどれだけいるのか。
 老爺の先祖も盲信していたとなると、その正確な人数はわからない。
 だが少なくとも、野根の言った十人目はちがう。十人目の犠牲者など存在しないのだ。

 あのとき、野根も直接触っていれば気がついたはずだ。
 臓器が本物ではなく、偽物だということに。
 そして、本物の臓物と比べて、あまりにも臭気がないことに。
 あるいは帰り道、木成のショルダーバッグが行きより軽くなっていることに。

 そう考えれば老爺の出現は幸運とも言えた。
 野根の視力をどうにかすれば、計画通り騙し果せる自信はあった。
 そのどうにかする方法に頭を悩ませていたのだ。
 しかし、それも老爺のおかげで、彼女の眼鏡を踏み砕く機会ができた。
 彼女に渡した硝子瓶の中身も、ただの水と、作り物の――骨皮くんの眼球だ。
 とまれ、硝子瓶は開けるなと言ってあるので、ばれる心配はないだろう。
「あっ、木成くーん!」
 玄関に着いたところで、遠くから彼を呼ぶ声が聞こえた。
 ……そういえばここ最近、からかっていなかったな。
 木成は無尽蔵に思いつく蔑みの言葉をしっかりと吟味しながら、靴箱に放り込まれている白いスニーカーへと手をのばした。

                       

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