「みんな、注文は昔と変わってないか?」
席に座るなり、浩介は僕や由香利、そして美広にそう言って確認し、店員を呼び出すボタンを押した。
数秒して来た、やる気のない大学生風の店員に、浩介はメニューも見ずにオーダーを伝える。
「チーズハンバーグの和食セットと、ミックスグリルの洋食セット、そんでもって唐揚げ定食と、カルボナーラ。あと、ドリンクバーを四つ」
店員はやはりやる気無く、手元のパッドへ入力を始め、注文を復唱した。
「はい、大丈夫です。おねがいしまーす」
浩介が答えると、店員は奥へと戻っていった。
ファミリーレストラン「エンジョイ」。僕たちが大学時代に住んでいた平屋から最も近い外食店であり、当時最も多く利用していた店でもある。
「ここは全く変わんないね」
美広が店内を眺めながら、懐かしそうに呟いた。
日曜日だというのに、席は半分も埋まっていなかった。けれど、これも四年前とほぼ変わらぬ風景だ。この店がメインとしている客層は近所に住む大学生であり、平日の昼や夜は騒々しいが、遊びに出払っている日曜日の昼間は、このように閑散としている。
「少しずつ変わってるみたいだよ」
由香利が、壁に貼られた「終日禁煙」と記載されているポスターを指差しながら言った。四年前まで、全席が喫煙席という、分煙すらされていなかったこの店が、今では全面禁煙を実施しているらしい。
「まぁ、禁煙中の身には、ありがたいけどな」
「なんだ、浩介、煙草やめたのか?」
反射的に、僕が質問する。大学時代、この四人の中で一番ヘビースモーカーだったのは、浩介だ。
「あぁ。美広と一緒に、今年の四月からな」
「美広も止めたんだ」
と驚くのは、由香利。僕も、由香利も、大学時代に比べて吸う本数は減ったが、禁煙はとても出来そうにない。
「どうやってやめたの?」
「どうやってっていうか……」
照れくさそうに笑う浩介や美広の表情を見て、由香利は「あぁ……」と納得の声を上げ、背もたれに体を預けた。
「どういうことだよ?」
僕の質問に、浩介はクビの裏をぽりぽりとかきながら答える。
「子供がさ、出来たんだ」
「えっ……」
一瞬止まった空気を、美広が動かし始める。
「来年の春にね、生まれる予定なの。だから、これを機にやめようって、二人で。ね」
と浩介に投げかけ、浩介はそれに頷いて答える。
「そっかー。おめでとう」
由香利の笑顔と拍手。僕もそれに習う。
「お待たせしました。チーズハンバーグの和食セットと、唐揚げ定食です」
さっきとは別の店員が、浩介と、美広のオーダーした品を持ってきた。
「飲み物とってくるよ。いつもので良いだろ?」
「あぁ、すまん」
「ありがとう。お願い」
「由香利も、いつものでいいか?」
「あ、私も一緒に行くよ」
席を立ち、ドリンクバーへと向かう。グラスを二つ手に取ると、由香利が手を差し出して来た。
「美広の分は、私が注ごうか」
「そうだな。頼む」
僕が手に取った二つのグラスを由香利へ渡し、僕は更に二つのグラスをとって、その二つにコーラを満たす。隣で、由香利がカルピスとアセロラをそれぞれのグラスに満たしていた。
その表情は、完全な無表情だった。視線はグラスへと向いているが、意識は脳内をぐるぐると循環している。何かについての思考が止まらなくなったような、暴走しているような、そんな表情。
ここ最近、いや、ここ数年で、由香利はこの表情をすることが多くなった、気がする。
「ん? どうかした?」
ジュースを注ぎ終えた由香利がこちらを向いて、わずかに微笑む。
「いや、行こうか」
席に戻ると、僕のオーダーしたミックスグリルの洋食セットと、由香利のカルボナーラが届いていた。
「ありがとう」
僕や由香利が飲み物を手渡し、二人が答える。
「いただきまーす」
由香利がフォークとスプーンで、半熟の卵を割り、浩介がハンバーグにナイフを入れ、美広が唐揚げをかじり、僕がウインナーにフォークを刺す。
そうしてそれぞれが、それぞれの料理を半分ほど食べたところで、浩介が言った。
「それにしてもあれだな」
口の中に残っていたハンバーグを飲み込み、コーラを飲んで、続ける。
「流石に、あの平屋が無くなってるってのは、予想外だったな」
そう。
ここに来るつい十五分前、僕らは、あの平屋が建っていた場所に、寄って来た。
本来ならば、そこで小一時間、思い出話に花を咲かせ、その後で、ここへとくる予定だったのだが。
駐車場になってしまっていたその土地を見て、僕たちに出来たことと言えば、立ち尽くすこと、くらいだった。
僕たちは四五分、空き地を眺め続け、由香利の言い放った、
「いこっか」
という言葉を合図に、その場を去った。
そしてここへ来た。他に行く当てもなかった。
僕は、いや、恐らくは僕を含めた全員が、今までの会話と並行して、あの平屋について考えている。いや、正確に言えば、平屋を失ったことによって生まれた感情について考えている。
それは喪失感に似ている。しかし、喪失感でないことも分かっている。必死になって感情を落ち着かせ、情報を整理して、喪失感の正体に迫ろうと、四苦八苦している。
単純に言えば、僕たちが失ったモノの正体について考えている。
確かにあの平屋は失った。しかしそれは、戻るべき場所を失ったことにはならない。既に僕たちには、それぞれの戻るべき場所が存在している。僕らであれば、あのど田舎にあるマンションの一室だ。
「楽しかったよね、あの平屋での生活」
由香利はパスタをフォークに絡めながら、呟くように言った。
「あぁ。めちゃくちゃだったけど、本当に楽しかった」
浩介が大きく頷きながら答える。
「本当に、戻れないんだね。あの生活には」
美広の物憂気な言葉によって、僕は、僕の目の前でぼんやりとしていた感情の正体、輪郭を掴み始める。
そうだ。僕たちが失ったのは、退路だ。もし、何らかの、それがどういうものなのかはさておき、何らかの事柄が起こって、あの平屋にもう一度、みんなで住めたら。そんな、刹那にも満たぬ僅かな願い、それが失われたのだ。輝かしい思い出は、色めきだって僕たちに語りかけ、しかしその実現不可能性が、僕たちに今の感覚を与えている。
そして、僕は、この感覚の正体を、知っている。
それは、時の把握だ。
時の把握とは、時の逆行が不可能であることの、知らしめだ。
大学の卒業が、浩介と美広の結婚が、平屋の消失が、過去と今との間に距離を生んでいく。
僕たちは否応無しに、次のステップへと進み続けていく。
僕たちは、年を取り続ける。
そして僕たちは、時をさかのぼることが出来ない。人生を逆行することが出来ない。若返ることが出来ない。過去と現在の距離をつめることが出来ない。失ったものを取り返すことが出来ない。昔へと戻ることが出来ない。
絶対に出来ない。
知っているはずの、当たり前の、常識であるそれを、僕たちは時の把握によって、平屋を失うことによって、体感し、理解し、把握する。
僕はまた一つ、年を取ったのだ、と。
僕たちは、進むことしか出来ない人生を、前にしか伸びることのない道を、おっかなびっくり歩いていくしか、手段を持たない。
「いやー。楽しかったなぁ。あの頃は」
浩介がそう言うと、浩介以外の、僕を含めた三人が黙って頷き、各自の料理を、黙々と食べ始めた。
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