電車が僕たちを運んでいく。
 ファミレスで食事を終えた僕たちは、最寄り駅まで歩いて行き、解散した。浩介達と僕たちは、乗る電車が逆方向だからだ。
 僕たちは電車に揺られ、四つ目の駅で乗り換え、それからかれこれ一時間、電車に揺られ続けている。
 その間、僕と由香利との間に会話はなかった。
 彼女はずっと、ケータイをいじりながら、何かについて考え続けている。涼しいほどの無表情で、まっすぐに自分の内を見つめて、逡巡している。そして恐らくその思考対象は、あの平屋では、ない。けれど僕はその思考内容が、把握できていない。いや、何を考えているのか、分かるような気がするが、分かってはいけないという警報が、頭の片隅でなり続けていた。
 僕は躊躇している。
 何を?
 車掌がアナウンスで、僕たちの降りる駅名を読み上げる。駅周辺に立つ背の高いマンションの間から、奥に広がっている田園風景が垣間見える。見慣れた風景。目になじんだ風景。
 ホームに降り立ち、階段を上がり、改札を抜けて、南口に向かい、階段を下りる。駅前のロータリーにはバスが並んでいた。
「どうする?」
 僕たちの住むマンションは、この駅から徒歩で二十分程かかるが、平坦な道なので、歩きでもきつくはない。
「歩いて帰ろっか。今日は涼しいし」
 ゆらりとした速度の遅い風が、僕と由香利の間をすり抜けていく。
 駅前のロータリーとマンション群を抜けると、クリーニング屋や居酒屋、コンビニが点々としているだけで、後は田園風景が広がっている。
 既に夏休みに入っているのだろう。ランドセルを背負っていない子供達が、あぜ道を駈けていく。
「あのさぁ、亮君。私ね」
 全身に、警報が鳴り響いた。
「亮君と、別れようと思ってる」
 予期していた発言、想定していた状況、しかし、対策の術を用意できなかった僕は、ただただ彼女の言葉に飲み込まれていくしかない。
「実を言えばね、ここ数ヶ月、このことについて悩んではいたんだ。それに、今でも悩み中ではあるの」
 由香利が立ち止まったことに、僕は数歩先へ進んでから気がつく。振り返ると、由香利の笑顔。
「亮君のこと、好きだよ。でもね、私、なんだか疲れちゃった」
 ありとあらゆる言葉が、僕の頭の中で生まれ、口にする前に消えていく。
「だから、ちょっと休憩。別れるかどうかは、またその後。今日さ、私、バイト先の友達んとこ、泊まるから。じゃあね」
 そういうと彼女は道路を横断し、あぜ道を歩き始めた。

 思い出の詰まった釜を、感情が好き勝手にかき混ぜ、ろくな思考を生むことが出来ない。習慣の力によって部屋まで帰ることは出来たが、それ以上の能動的な行動は不可能だった。黙ってソファに座り、半開きの口から、酸素を吸って二酸化炭素を出すことしか出来なかった。
 そのまま、どれくらい時間が経ったのか、僕には分からない。ただ、いつの間にかあたりは暗くなっていて、鳴り響く携帯の着信音と、唯一の光源であるディスプレイの光が、僕を我に帰らせる。
 通話ボタンを押す。浩介の声が、耳に入った。
『よう、今日はつきあってくれてありがとな。久々に会えて、楽しかったよ』
「……あぁ。そうだな」
『何だよ。えらく疲れた声だな』
「ちょっと色々あってな。それで、どうしたんだ? それだけか?」
『いや……お礼を言っておこうと思ってな』
「お礼?」
『うん。実を言えばさ、俺が結婚の決断を出来たのって、お前のおかげなんだ』
「……どういうことだ?」
『昔、俺に話してくれただろ。あの、お前の親父が考えたとかっていう、時間を食う化け物の話』
「……」
『これまでもさ、美広には何度となく遠回しに「私たち、結婚はいつするの?」って感じのことを言われてたんだよ。でも、ずっと決断できなくてさ。で、ある時、美広が言ったんだ。「私、このままおばあちゃんとかになるのは嫌だな」ってさ。はっとしたよ。あの「そしていつか、自分自身さえも食べられてしまう」ってのは、そういうことなんだな』
「そういうこと?」
『つまりさ。俺達は時間が永遠にあると思ってる。幸せな、居心地の良い、そんな日常が続くと、どうしてもそう勘違いしてしまう。でも、もちろんそんなわけはなくて、俺達は、日々を消費して生きている。同時に、感情とか体力とか若さとか、その他にもいろんなものを消費して生きている。
 いつかは無くなる。
 だから自ら行動を起こして、次のステップに進んで、そうやって消費していったものを、自らの手で補給し続けないと、いつかは「食べられてしまう」。そういうことなんだろ? お前の親父さんが言いたかったのは』
「そうだな。……そうなのかもしれないな」
『どうしたんだよ。マジで変だぜ、お前』
「さぁ……。分かんないよ。でも、よかったな、お前は。次のステップに、進めてさ」
 その言葉は、殆ど無意識に出たものだった。嫌みを言うつもりなど、一切無かった。けれど、言った直後に、この声色はトゲを含んでいるな、ということにも気がついた。けれどそれはもう、どうしようもないことだ。出した言葉を、拾って飲み込むことは出来ない。
『なんだよ、その言いぐさ』
「別に。そう思っただけさ」
『なんつーかさ。すげえムカツクよ。お前』
「はぁ? 何だよ突然」
『お前の考えてること、手に取るように分かるぜ。自分は暗がりの中で体操座りしてしくしく泣くことしか出来ないのに、何でみんなは、光のあるところで、より光の強い方へ、どんどん進んでいくことが出来るんだろう。自分はこんなに暗いところで、動くことすら出来ないのに。どうして? なんで? 理不尽だ』
「考えてないよ。そんなこと」
『いーや、絶対考えてる。みんなはどんどん進めるのに、自分は全く進めない、なんで? ってな。「進まない」くせに「進めない」って考えてる所もムカツクが、一番ムカツクのはそこじゃねぇ』
 何となく、浩介の言おうとすることが読めた気がした。そしてそれは、僕がもっとも拒絶したい言葉である気もした。反射的に言葉が出る。
「うるせぇ、うるせぇよ! 止めろ!」
『止めねぇよ、バカ。今ぐらい、いや、今しか言える時なんてぜってー無いからな。いいか? お前は、そんな可哀想な自分を、自分では慰めきれないから、由香利に慰めてもらってるんだ。慰めてもらう、ただそのためだけに、由香利をそばに置いているんだ。付き合ってるのは、その口実に過ぎない。お前に、由香利に対する愛情なんて、無いんだろ?』
「違う! 僕は、由香利が好きだから、愛してたから、付き合い始めたんだ」
『論点変えるなよ。俺は今の話をしてるんだぜ? それに、お前らが付き合い始めた頃、そこにお互いの愛情があったことぐらい、分かってるさ。あの平屋で一緒に住んでりゃ、それくらい分かる。由香利は最初から今までお前のことがずっと好きなのに、お前はそんな気持ちとうの昔に無くしていて、今じゃ由香利の気持ちを利用して、自分の慰め係にしてやがる。ムカツクなぁ。ムカツクよ。なぁ、お前、いつからそんなんになった?』
「うるさいんだよ、お前は!」
『おーっと、冷静になって考えろよ? 今一番やっちゃいけないことはなんだ? それに、今一番しなきゃいけないことはなんだ?』
 やっちゃいけないことは、分かってる。この電話を、感情にまかせて切ることだ。それはすなわち、僕が僕自身を見つめることを止め、目を完全に閉じることに他ならない。全身の拒絶反応が、終話ボタンを押そうとけしかけるが、僅かに、どこかに残っている僕の意思が、それを全力で止めている。
 そして考える。
 僕が今、一番やらなきゃいけない事って、なんだ?
『考えろ、考えるんだよ。どうしてそんな風になっちまった?』
 どうしてこんな事になってしまったんだろう。何が始まりだったのだろう? いくつかの可能性を孕んだ事柄が脳裏に浮かんでは、消えてゆく。
『それも分かんなくなっちまうほど、食われたのか?』
 多分そうだ。
『なら話は簡単だ。自分が、何について、どうするべきなのか。それだけを考えりゃいい』
 考える。考えて、考えて、考える。
『頑張れよ。色んな事の正念場が、今ここに、詰まってるぜ。頑張れ、頑張るんだよ』
 頑張る。
 その言葉が、奥底の引き出しから、記憶を見つけ出す。
 それは、このマンションを探す前に由香利が呟いた言葉だった。
――景色の良い、日の光が良くはいる、そんな場所に住みたい。そうしたら私、頑張れるかも――
 頑張れるかも、の意味について、何を頑張るのかについて、一度だって、僕は考えたことがない。気に留めたこともない。
 そして今なら分かる。つまりは「この先あなたについていくのは不安でしょうがないけれど、頑張れるかも」ってことだ。
「浩介」
『あん?』
「電話、切るぞ」
『……』
「また、かけ直す」
『……分かった』
 電話を切って、最速で由香利の携帯電話の番号を打ち込む。僕が覚えている唯一の、僕以外の電話番号だ。
 コール。コール。コール。
 しかし、着信拒否されているらしく、何度トライしても繋がらない。
 次の手を考える。
 公衆電話。
 その単語が頭に浮かんだ瞬間、僕は走り始めた。部屋を飛び出し、鍵もかけずにエレベーターへと向かう。ボタンを押すが、一階からのろのろとあがってくるエレベーターを待てず、僕は非常階段から駆け下り始めた。一段飛ばしに階段を下りるが、僕が求める速さには全く足りていない。もどかしさと焦りが、階段を踏み外させ、僕はゴロゴロと転がり落ちて、踊り場の壁で頭を打つ。
 痛がっている暇はない。
 すぐさま立ち上がって階段を駆け下り、二階まで到達すると、僕は手すりによじ上って、飛び降りた。が、着地をミスして地面に倒れ込み、右肩を強打する。
 右腕があがらない。間接が外れたのかもしれない。
 僕はそれでも、公衆電話を探すべく、表の道路に出る。暗い道を、五十メートル間隔で街頭が照らしている。それ以外にある光は、星と月のみだ。
 辺りが暗かったので気がつかなかったが、視界の右半分がやけに暗い。踊り場で頭をぶつけたとき、頭を切って、そこから出た血が、右目に入っているのかもしれない。痛覚は既にない。
 右に行くべきか、左に行くべきか、一瞬の逡巡。公衆電話の存在を必死になって思い出す。
 コンビニ。
 コンビニには、確かあったはずだ。という確信を得ると同時に、走り出す。
 いや、正確に言えば走れてはいない。着地のミスで、足もくじいていたらしい。直ぐに撃ち殺されてしまう、ゲームのゾンビのように、僕は進む。
 それでも、進む。
 進むしかない。
 僕には、進むしかない。
 進んでいると、赤い、小さな光が見えた。
「交番、か」
 そうだ。コンビニと家との間には、交番があったんだった。電話くらいなら借してくれるかもしれない。
 使えない右足を必死に引きずりながら、僕は交番まで進む。そして、たどり着く。
 中に、警察官はいなかった。デスクの上には、古めかしい黒電話が一基。
 左手で受話器を外して、右手で番号をまわそうとするが、右手は殆ど言うことを聞かない。仕方なく受話器を机へ置き、左手で番号を回し、直ぐに受話器を耳に当てる。
 コール音が鳴り始める。
 トイレにでも行っていたのか、警察官が奥から出てくる。
「何だねきみは!」
「うるさい!」
 僕の怒号に、警察官は言葉を失う。
 電話が、繋がる。
「もしもし? 誰ですか?」
 由香利の声。
「由香利」
「……あのさ」
「ちょっとだけ、ちょっとだけ、時間、くれ。頼む」
 由香利は黙ったが、通話は続いている。切断されていない。僕は続ける。
「由香利、ごめんな。辛い思い、させたな。今度はさ、今度は、俺が頑張るから。俺、お前のこと、愛してるんだよ。だからさ、その休憩が終わったら、戻ってこい」
 返事はない。受話器の向こう側で、咳き込んだり、鼻をすする音は聞こえるが、それだけだ。
「多分、道、険しいけど、俺、お前をしっかり、引っ張るから」

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