THE 遠藤
一面の曇り空。カラスの鳴き声。通勤電車の甲高いブレーキ音。
改札を出て、黒ずんだ世界を見つめる。
今日が晴天でなくてよかった。
俺は今から死ぬのだ。
決意が揺らぐ不安などないが、爽やかな陽気に死体を転がすのは気が引ける。
などと言いながらわざわざ外に死にに往くのは、これまでの生活と関係を断ちたいからだ。
俺は悲しみの最小単位でいい。
俺が死んで悲しむ人間はいない。
いてはいけない。
人を殺してはいけないのは、残された人間が悲しむからだ。
人が悲しむのは、俺だって悲しい。
好きか嫌いかは関係なく、身近な者の死そのものが人を虚無にし、恐怖させるのだ。
小さい頃に同じ施設で暮らしていた雄一君も、みんなで飼っていたハムスターの「ひまわり」が死んだ時、
あまりに深い悲しみで我を忘れて暴れ出し、窓を三枚を割ったほどだ。
あの時は大変だった。
これほどまで雄一君を悲しませるひまわりには腹が立ったものだ。
殺してやりたいほどに。
ならばそういった悲しみを断つにはどうすればよいか、考えたことがある。
身近な死を悲しむ人間を、殺していけばいいのだ。
するともちろん、悲しみは連鎖していく。
悲しみを止めようと努力すると、それはたちまち大量虐殺になる。
これでは成り立たない。
ところが、周囲との関係を断ち切った人間が死んだとしても悲しむ者は誰もいない。
全員がハッピーだ。
よくある、ホームレスが不良に殺される事件。
「こいつを殺しても誰も悲しまない」という少年達の主張はそういう意味で正しい。
そして俺もまた、ホームレスとなんら変わりはない。悲しみの最小単位だ。
子どもの頃から親はなく、これといった友人も作らなかった。
楽しみもない。目標もない。未練もない。
金もないから、とうとう死ぬことにしたのだ。
社会や世界にポジティブな感情もネガティブな感情もない。
こんな自分をクズだとか、他の人間がうらやましいだとかいう気持ちもない。
ただ、しがらみに縛られ悲しみから逃れられない人々を哀れに思う。
人間は元々、死に向かってとぼとぼ歩いているのだ。
たかがそんな人生の最後にとんでもない悲しみをバラ撒いて
死んでいくなんていうのはあまりにも酷い話じゃないか。
死ぬなら一人で上等だ。
見知らぬ街の外れ。小高い雑居ビル。屋上。
そこを終点とする。
道路沿いは人通りは疎ら、というより無人だ。
空は一層雲に覆われ、暗くなっていた。
今にも降りはじめそうな気配。
だが関係ない。むしろ雨が降った方が染み出る血液を洗い流してくれそうじゃないか。
そういえば、あまり高いところから飛び降りると内臓やら肉が
地面に貼り付いて処理が大変だと聞いたな。
しかし中途半端な高さから飛び降りて意識が残ってしまうのは御免だ。
それなりの高さがないと死んでも死に切れないということだ。
思ったとおり、大した管理のされてないビルは屋上に立ち入るのも容易だ。
はやる気持ちを抑え、ドアを開ける。薄白い景色が広がる。
曇り空とはいえ、暗い廊下から出た眩しさで目を閉じる。
死ぬのが恐ろしくないわけではない。
が、自然と引き攣った笑みがこぼれる。いつからかずっと死ぬことを考えていたのだ。
達成感に近い感情が芽生えてもおかしくはないだろう。
空に近い場所の、澄んだ空気を吸い込む。「生」を感じる。
足のかすかな震えも、なんのことはない。飛べるだろ。アイキャンフライ。
ゆっくりと目を開ける。
「え」
思わず声を上げた。
嘘だろ。
先客がいた。
そこにはもういよいよ飛び出さんとする男の後姿があった。
心拍数が急に上がり、息が詰まった。
昔からそうだ。予定と違うことが生じると、軽いパニックを起こしてしまう。
男も俺の声に気づき、振り返った。
はっきりと顔を見た。
男の顔が恐怖に歪んだ。
恐らく俺も、同様だったに違いない。
男は、俺だったのだ。いや、違う。
服装も、髪型や髪の色も全く違った。
見慣れた顔。俺の顔だったのだ。
「おわああ」
男は驚いた様子で声を上げ、落ちていった。
恐らくは意図しない体勢で。
俺は、何がなんだかわからず、何秒か立ち尽くしていた。
今見たものが現実であるのかどうかさえわからなかった。
だが、それは確かに現実だったのだ。
もはやその時俺がどういう思考で動いたのかは覚えていない。
俺は死体を確認した。
結論から言うと、その男は俺の顔をした別人だった。
まるで一卵性双生児のように。
俺は幼い頃に親の手を離れて施設で育ったから、もしかしたら…
俺の知らないところでもう一人の俺が生まれていたのかも知れない。
そんな馬鹿な話があるか。いやしかし…
もう何がなんだかわからない。
どうしても俺と同じ顔の男の人生が気になった。
死体から財布と携帯電話を抜き取り、ポケットに入れ足早にその場を立ち去った。
この時の精神状態はまともではなかっただろう。
目に入ったファミリーレストランに入り、テーブルに放り出した他人の持ち物をしげしげと見つめる。
少しの物音にビクつく。
免許証はあった。
証明写真も、やはり自分の顔を見ているようだ。
名前は、中井 翔。生年月日は…俺のものとは違う。俺の一つ下だ。
双子という線はなくなった。
少なくとも4歳になるまでは親とは暮らしていたから、兄弟ということもないだろう。
ただの他人の空似か…
得体の知れないもやもやした感情が心に引っかかるが、単なる偶然だ。
気分が悪い。
もうしばらくは死ぬ気は失せた。
自分でも説明ができないが、他人が死んだ場所で自分も死ぬのは気持ちが悪い。
しかも俺にそっくりな人間がだ。
もうあの場所には行くこともないし、思い出したくもない。
ドリンクに口もつけずに俯いていた時に、ふいに死んだ男の携帯電話のバイブレーションが鳴った。
肩をすくめ、テーブルの上の携帯電話を見つめ俺は固まった。
画面に表示された名前は、「真希」。女だろうか。
電話は鳴り続けている。音に敏感になっている俺はその時間が無限にも思えた。
周囲の目が気になる。もしかしたら、誰かが現場に俺がいるのを見ていたのではないか。
耐えられなくなって俺は電話に出た。
何故切らなかったのだろう。昔からそうだ。パニックになると理にかなった行動が取れないのだ。
そもそも、携帯のバイブ音など誰も気にしていなかっただろう。
とにかく俺はその「真希」という人物からの電話に出てしまった。
こちらからは声が出せなかった。耳を澄ます。
「もしもし?今どこにいるの?」
女の声だ。
「あ…」
言葉が詰まる。
「部屋に鍵もかけないで…気をつけてよ。 で、どこに…あれ?あっ」
電話を受けている逆の方角から、コンコンと窓ガラスを叩く音がした。
女がいた。白いカットソーにジーンズを穿いた女が、
携帯電話を片耳に当てながら、こちらに手を振っている。
「なんだここにいたんだ」
電話の向こうからも声がする。
嘘だろ。
何で何で何で何でなんだよ。
何で、たまたま死に居合わせた男のしがらみが、俺を追いかけてくるんだ?
こんなことってあるのか?どうすればいいんだよ。
女はテーブルの前に立ち俺を視認すると、驚いたような笑顔。
「どうしたのその髪! もしかして、バイト探す気になってくれたの?」
そう言うと、さっと俺の向かい側に座った。
「嬉しい。 なんていうか、信じてたから。 ホントに…」
なんとも言えない表情で、言葉を選びながら女は語る。
この女は、中井という男の恋人だろう。どう考えてもそうだ。
俺はただ、黙って俯いているしかなかった。
返す言葉が見つからなかった。
人違いだと言おうにも、それならば何故、俺は中井の携帯電話を持っているんだ。
髪型や雰囲気が違うということも、彼女は彼女なりの解釈で納得してしまっている。
この状況を打開するにはどうすればいいだろう。
ここはなんとか俺が中井になりきって、スキがあったら逃げるしかない。
「…まぁ、そんな、急には上手くいかないよ。 だから…」
俺は真希という女の顔を見た。
その瞬間、女の表情が少し強張ったのがわかった。
「ごめん…違う、そんなつもりじゃなかったんだ。 気に障ったらごめん…」
「あ、いや、ちょっとトイレ」
何故急に謝ったのかはわからなかった、そもそも前後の言葉もほとんど頭には入っていなかった。
とりあえず席を離れ、逃げ出したかったのだ。
「そっか、うん」
ファミレスのトイレに入り、逃げる方法を思索する。
窓、ダメだ。猫一匹が通れるほどの幅しかない。
飲食店なのだ。どうやっても入り口からしか出られるはずがない。
彼女は俺を待っているんだ。知らん顔をして入り口から見つからずに出られるわけがない。
いっそここで死んでやるか。ダメだ。
今や、あの女の恋人としての死しか訪れない。
そうなれば、あの女は哀れにも、悲しみに暮れてしまうだろう。
恋人を残して自殺するとは、なんてやつだ。殺してやりたい。
第一、今この場所では便器に顔を突っ込んで溺死するくらいのことしかできない。
苦しいのは嫌だ。誰だってそうだ。
どうすればいいんだ…
俺はただ、静かにこの世からいなくなりたかっただけなのに…
数十分もしないうちに、俺は俺の家、いや、中井が生前住んでいたアパートの一室にきていた。
真希に連れられて。
男の一人暮らしの部屋だろう。それにしては、割と片付けられている。
この女が世話を焼いているからだろうか。
そうだとしたら、えらく献身的な女だ。どういうわけでここまで尽くせるのだろうか。
一体、中井という男のどこに魅力を感じていたのだろうか。
断片的な話から察するに、中井はただのヒモだ。
これまでに定職に就いていなかったことが伺える。
真希は以前から中井にバイトをするよう促していたようで、
俺の髪型を見て彼がバイト探しのために黒く染め直したのだと勘違いしている。
そしてそれ故、しきりに俺のことを褒めるのだ。
俺が適当に相槌を打ってしまったのが悪いのだが。
他にそれらしい理由が出てくるはずもなく、俺は中井が改心した姿を演じることになった。
一通り俺のことを褒め、中井のものだった衣類を洗濯し終えると、満足したようで
夜勤の仕事に出かけると言って去っていった。
何故中井は、こうも尽くしてくれる女がいながら、死のうなどと考えたんだ?
俺らしからぬ感情に囚われる。
しがらみなど、ない方がよかったんだ。
こうしてしがらみが生まれてしまっては、おちおち死んでもいられない。
どうしたものか。
思いを巡らせながら、見知らぬ男の部屋で眠りについた。
あれから数週間後。
俺はあろうことに、中井 翔としての生活を送ってしまっていた。
レコード店員のバイトを見つけ、その日食える程度の金を稼いでいる。
相変わらず真希は献身的だった。
毎日仕事の前に俺の部屋にやってきて、食事を作っておいていく。
洗濯も全て済ませてしまう。恐ろしいくらいだ。
真希は時々ぼんやり俺の顔を見る。
決まって俺が目を逸らす。
騙していることの罪悪感に苛まれる。
死にたくなる。
だがもはや死ぬことなどできないのだ。
この女を悲しませてなるものか。
ただ静かな毎日。自分ではない他人の人生。
そんな日々に、二人で過ごす夜があった。
鍋を挟んで二人食事をしていた。
ふと真希が俯きながら言う。
「もう、嘘つかなくていいよ」
俺はハッとした。
目を開いたまま真希の俯く顔を見ていた。
「翔君じゃないんだよね」
バレていたのだ。当然か。
それはそうだ。こんなことがいつまでも成り立つわけがない。
他人のフリをして他人の恋人として過ごすなど、不可能だったんだ。
俺は、何を考えていたんだ。
黙る。
鍋の中で液体が沸騰する音だけが響く。
「翔君はね、本当に駄目な人で。 イライラするといつも私を殴ったんだ。
でもその後必ず泣いて謝ったんだ。 悪かった許してくれって」
あぁ。真希は暴力を受けていたのか。だからだ。
時々見せた怯えたような表情は。
「口では全部人のせいにして、頭では全部自分のせいにしてた。
ずっと一人で、一人では何もできなくて、私とすごく似てた。
翔君も私も、家族ももういないし、お互いだけを鏡みたいに見てたんだ」
真希も…悲しみの最小単位だったのか。
「あの人、死んだの? なんか、そんな気がしてた。
ふっと消えてしまいそうだったもん。 私を置いて。
…でもあなたが、代わりにきてくれて。 酷いよね。私。
翔君が死んだんだってどこかでわかってたのに、省みようとしなかった。
結局自分さえよければよかったんだ」
そう言うと俯いたまま涙を流しはじめた。
人が悲しむと、俺も悲しい。どうしていいのかわからず、かける言葉を探す。
「…騙しててごめん」
「ううん。 あなたは本当に翔君と似てた。 私とも似てる。
一人ぼっちなんだよね。 自分が死んでも誰も悲しまないと思ってる。
でも今は本当に好きになっちゃったんだ…」
俺も俯く。
表情も動くことはなかった。
「お願い、教えて。 あなたの本当の名前。」
「遠藤…はじめ」
「はじめ君…お願いします。あなたはいなくならないって約束して」
また真希はぼろぼろと泣き始めた。
俺の頬にも涙が伝っていた。
「本日からお世話になります、結城 真希です。 よろしくお願いします」
まばらな拍手が響く。
今日からは新しい職場だ。夜勤もしなくていい。
相変わらずこの世界で一人ぼっちのような感覚。
そしてそれはたぶん正しいんだ。
二人、違う。三人はよく似てたよ。本当に。
だからこうして、ここに恥ずかしげもなく立っていられるんだ。
君に悲しい思いはさせられないよ。
俺は悲しみの最小単位でいい。
俺が死んで悲しむ人間はいない。
いてはいけない。
THE END
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