the last #

 何か困ったことがあったら、隠れる場所はいつもトイレだ。
 誰にも乱されない、誰にも邪魔されない、私だけの聖域……だったはずなのに、ついこの前あつかましくも私の居場所に入り込んでくる奴が現れた。私の平穏がここ数日でボロボロにほころびまくっているのは、どう考えてもこいつのせいだ。良い事も悪い事も何も起こらない、文字通り無事な一日を過ごすこと。毎日それだけを祈っていたのに。
「わたし、びっくりしたです」
 閉ざしたドアの外から聞こえる、あの舌足らずで甘ったるい声が、とにかく今は癇に障る。
「はじめは何がなんだかわけが分からなくて……。どうしてこのトイレでしか聞けないはずの声が、教室の中から聞こえたんだろうって」
「……」
「先輩、わたしには憧れの人がいたんです」
「……」
「その人はクラスの誰よりも大人っぽくて、かっこ良くて、頭が良くて」
「……」
「それはもうキレイで、なにより心が強そうで……とにかく私に無いものを全部持っている人で」
「……」
「入学式の日に一目見た時から思ってたんです、この人と仲良くなれたらなどんなにいいだろうって」
「……」
「その人は他人を一切寄せ付けない雰囲気があって、昼休みになるとなぜかいつも教室から居なくなってて、臆病なわたしは話しかけるきっかけをいつまでも見つけられずにいて……」
「……」
「それでなくても今まで友達なんてできたことないから、もうどうしたらいいか全然わかんなくって……」
「……」
「でもいつか、一度でいいから、おしゃべりできたらなって思ってたんです」
「……」
「わたし、もうしゃべってたんですね、その人と」
 今頃気づいてんじゃねぇよ、無知女。
「腕のケガは平気かよ、ムツゴロー」
『……ヘイ、かすり傷で済みやした、姐さんのお陰でさァ。この御恩は一生忘れやせん』
「いいって、忘れてくれ」
『あっし、姐さんには本当に、どれほどの礼を尽くしても足りやせん』
「そういうのほんといいんだよ。だからもうそろそろ教室帰ってくんないかな、一人になりたいんだ」
『姐さん……睦実の奴が姐さんに、なにか言いてぇことがあるらしいんです。聞いてくれやせんか』
「これ以上何も聞きたく無い、って伝えてくれ」
『どうか、聞いてやってくだせェ』
「放っといてくれよ、頼むから……」
『お願いでさァ姐さん!』
「ざけんな早くどっか行けっ! もう私にかまうんじゃねぇよ! 黙って聞いてりゃぐだぐだタワゴト吐きやがって! 鬱陶しいんだよ! お前なんかになぁっ……お前なんかに…………」
「雨宮さん」
「…………」
「わたし、雨宮さんとお友達になりたい」
「無理だよ。
 私はゲスなんだ、ヤツらと大して変わらない。
 ゲスで、薄情で、自己中で、嘘つきで、全然あんたみたいにキレイじゃない。
 私は……私には、睦実の友達になる資格なんてない……!」

「ドアを開けて、雨宮さん」

 扉の向こうから聞こえる声は、初めからずっと震えていた。
 それはまるで小さく揺れるロウソクの灯りのように、温かくて、かわいくて、心の奥底をそっと照らすような、そんな涙声だった。
 こんな声で何かを頼まれて、断れるやつなんていない。それでも開けるのをためらってしまうのは、自分も泣いているのがバレたくないからだ。

 いつだったか遠い昔、私は自分の人生をママひとりを守るためだけに捧げようと心に誓った。そしてその誓いを全うすることが、私のたったひとつの生きる意味だった。
 でもいよいよ観念しなきゃならない。もはや私はどうやったって、この子を放ってはおけないのだ。
 私は睦実のことも全力で守り抜く。もう絶対、どんな悪意にも傷つけさせやしない。ゲスの相手はゲスがするから、あんたはキレイなままでいい。

 やまない涙を拭うのをいい加減諦めて、私は鍵に手を伸ばした。
 今回はおあいこってことで、よしとするよ。



 ねぇママ、喜んでください、私にも生まれて初めて友達ができました。
 気弱だけど優しくて、家族のために無理しちゃうところが、ママに似てるの。
 今度紹介するね。
 きっとママも、好きになると思うよ。
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