#7『泣かぬなら泣かせてみよう多田睦実』 この二十分の間に遠藤はどれだけ罰ゲームを練り上げたことだろう。しかしこちらの精神状態とて相当仕上がっている。さっきまで腹の中に渦巻いていたドス黒いモノが今やきれいさっぱり無くなって、清々しささえ覚えるほどだ。
試しにぐるりと教室を見渡してみる。先刻まで掃き溜めに沸くウジ虫にも劣るド畜生に見えていた面々が、今は普通に人間の顔に見える。心持ち一つでこうも景色が変わるものか。これが世に言う明鏡止水の境地というやつらしい。今ならたとえ目の前をヌーの大群が横切ろうと一切動じない自信がある。その中にしれっと劇団四季が紛れていても恐らく二度見までにとどまるだろう。さあ、煮るなり焼くなり好きにするがいい(睦実を)。終始黙って見届けてやろうじゃないか。
教室から出るなどして現場を見ない、という選択もあった。でもその必要はない、今の私はもう何があっても動じることはないのだから。逃げたり目を背けたりというのは徳の低い小人のすることだ。それにどうせ今日逃げたって明日も続く、明日を逃げても明後日も。ヤツらが飽きるか、無知女が完ペキにオシャカになるまでクラス内の惨劇は終わらない。多田睦実を自分とは無関係な存在として切り離して見る事ができない限り、とてもこの先このクラスでやっていけないんだ。ほんの数日前まで平気だった。いじめは昨日今日始まったことじゃない、四月から今まで幾度となく見てきた。その他大勢の連中に混じって無感覚に静観してこれたはずなのに、どうしてそれができなくなった? あの場所でほんの数回あいつと喋ったから? あいつの人となりを少しでも知ってしまったから? だったら以前の状態に戻ればいい、無関係なものとして自分とあいつを切り離していたあの頃に。難しいことじゃないはずだ。もともと大して深い関りがあるわけじゃないんだ。多田睦実と雨宮天女は無関係。あいつと関わったのは私じゃない、トイレの先輩だ。そしてトイレの先輩なんてものはこの世に実在しない、だから関係性だって存在しない。あいつは無知女で、私のことなど何ひとつ知らない。だったら私だってあいつのことなんて何も知らなくていいはずだ。知っていても、知らん振りをしていいはずだ。すべては己を守るため、何より大事な平穏のため、私は何も悪くない、これが普通の人間だ、誰だって自分が可愛いんだ、みんな損得勘定で動いてるんだ、後ろめたいことなど一つもない。
二十分間、グルグルとそんなことを考えていた。
いっそのこと気でも狂ってしまえばいいと思った。
「はぁいムッチー、お腹の調子はどう?」
「うっひゃっひゃ、気を利かせて腹下しって事にしといてやったんだぜ~」
「どうしてですか……」
「ああん?」
「どうしてわたしにイヤがらせするですか……わたし、過去に何かあなたたちの恨みを買うようなことしたですか……そうならあやまるからもう許してください」
「ひゃっひゃ驚いたなオイ、あのムッチーがいつになく反抗的じゃねーか、どういう心境の変化だ? まあせっかく強気なとこワリーけど、お前さっきから何か一つ重要なこと忘れて────」
遠藤は右手で櫻井を制した。
「ちょっと待ってね清美。……ねえムッチー誤解しないで、私たちがやってることは、あれもこれもどれもぜーんぶムッチーのためなんだよ。愛ゆえなんだよ」
「……なんですかそれ」
「ムッチーはフクロオオカミって知ってる?」
「……?」
「その昔オーストラリアに生息していた動物なの。オオカミと言っても強さはたかが知れてて、それでも閉ざされた大陸の中これといった天敵もいなかったから、弱いまま進化もせず長い間のさばってた。でもね、ちょっと獰猛な大型犬が海を渡って入ってきたら、そいつらはあっという間に駆逐されてしまったの。ムッチーってまるでフクロオオカミなんだよ。そういう子ってパッと見ればわかるの、ああこの子はヌルい環境でぬくぬくと何の苦労もなく生きてきた子だなって。ムッチーに必要なのは、天敵の存在。過酷な環境にあえて身を晒すことで、世を生き抜く力を磨いてもらいたいっていう親心だよん」
色々突っ込みたくてしょうがないが、環境云々のくだりは完全にお門違いだ。
睦実は小学生時代からずっといじめられていたと言っていた。ヌルいだなんてとんでもない、それこそ周りは天敵だらけだったはずだ。あいつが甘ったれなのは過ごした環境のせいじゃない。どんなに踏みつけにされたって、あいつは強くなれなかったんだ。
「ムッチーは怯えるし、悲しむし、苦しむけど、決して怒りはしないよね。それってとっても不健全だと思うの。自分に危害を加える者を憎もうとしないなんて、気味が悪くてしょうがないよ。人間はそんなふうにできてない。そんな人間存在しないし、しちゃいけないの。ムッチーは今でも私の正しい世界認識を揺るがしているんだよ。私がどれだけいじめても、あなたはただひたすら困るだけ。相手にされてないみたいで虚しいよ。ムッチーはもっと私のことを憎むべきだと思うんだ、それこそ殺意を向けるくらい」
だからそんなの睦実には逆立ちしたって無理なんだよ。
どんなに虐げられたって、それに相応しい強さで人を憎むことができないやつだっている。そいつは悪意に応じるための悪意の持ち合わせが絶対的に少ないんだ。お前らの様にとんでもなく凶悪な人間が存在するように、睦実みたいにアホほど人畜無害な人間もいるんだよ。
そんな当たり前のことに今更になって気づくなんて……どうかしてた。さっきあいつに“強くなれ”などと、上から目線で無茶を押し付けた自分をなぐりたい。睦実はきっとこの先も変わらない。普通の人が普通に身に付ける処世術をこの先も獲得することなく、弱っちいまま生きていく。
勿論そんなの間違ってるよ。でもどうしようもないんだ、どうしようもなくバカなんだよ。だから、もう、「やめろって……」
思わず口に出ていた。私もバカか、何やってんだ……!
私は慌てて顔を伏せ、ちらりと様子を伺う。
……大丈夫、幸い声は届いていないようだ。
「私はね、無垢なムッチーが汚れてすさんでいく様を見たいんだよ。ムッチーの中にあるちっぽけな黒い感情を、大きく大きく育てたいの。だからこのままどんどん反抗的になってね」
睦実は怯えながらも、キッと遠藤を見返した。
「わたし、もう充分怒ってます。……あなた達のこと、憎いって思ってます!」
「嘘だね、目を見ればわかる。その感情に憎悪って名前は付いてないんだよ、せいぜい反感とか敵視ってところ。天敵と認めてくれたのは嬉しいけど、まだ全然ダメ。ねぇ教えてムッチー、どうしたらあなたを腹の底から怒らせることができるの? お願いだから、早く私のことを殺したいくらい憎んでよ」遠藤は顔をぐいっと睦実に近づけた。「でなきゃ私が先にオマエを殺すぞ」
「っ……!?」
「冗談だよ」遠藤は睦実の顎にしゅるりと指を這わせた。「可愛くて可愛くて可愛いよんムッチー」
「ヒッ……」
「安心して、“鳴かぬなら殺してしまえ”は私のモットーに反してるから。まあ“鳴くまで待とう”なんてつまんないマネもしないけど」
「わたしにっ……触らないで……!」恐怖に震える睦実には遠藤の手を払いのけるだけで精一杯だった。
「あっひゃっひゃ、つくづく孝子は愉快だなあ!」
揃いも揃ってイカれてるよ。
「ねぇ清美、さしあたって私はムッチーの可愛い泣き顔を拝んでみたいんだけど、どうした見られるかな?」
「んん? ああ、そういや意外にこいつの泣いてるとこって見たことねぇな」
「泣かぬなら泣かせてみよう多田睦実!」
「ひゃっひゃ、でもそんなの顔にワンパン入れりゃ終いだろ?」
「それじゃつまんないよ、単純な暴力なんて幼稚園児でもできるんだから。それに肉体的苦痛より精神的苦痛で歪んだ顔のほうがずっとずっと複雑で、見てて何倍もきゅんきゅんするんだよ」
奴らはしばしば睦実の前で、かように聞くに堪えない嗜虐談義に花を咲かせる。こんなものを間近で聞かされる睦実はたまったものではないだろう。そして奴らは精神的に追い詰められる睦実の反応をリアルタイムで確認しながら悦に入るのだ。
「つーか孝子、さっきの授業中に罰ゲームの内容を考えてたんじゃなかったのかよ?」
「もちろんいくつか考えたよ。でもどれもこれも大掛かりで手間が掛かるんだもん。ほら時計見て。おしゃべりに夢中になりすぎたせいで、次の授業まであまり時間がないでしょう」
「もうめんどくせーからボコっちまおうぜ」
「だから直接的なダメージはもういいの、さっき眉毛を燃やしたので充分」
「じゃあどうすんだよもー」
「手っ取り早いのはやっぱり持ち物への攻撃かな。ただこれまでムッチーの持ち物にいたずらしたことは何度かあるけど、どれもリアクションはイマイチだったんだよね」
「今朝の教科書をゴミ箱に捨てたやつも、なんか微妙だったもんな。やっぱあーゆー地味なのはピンと来ないのかねえ」
「でもムッチーが心から大事にしてる物だったら話は別じゃない? 例えば……“それ”とかね」遠藤は睦実の袖ポケットを指さした。「いっつもポッケに入れて持ち歩いてるよね、そのぬいぐるみ」
「へー、どれどれ」睦実は必死で抵抗したが、櫻井にあっけなくムツゴローを取り上げられる。「薄汚ねぇぬいぐるみだな、しかも緑色って……こんなもんが大事なのかよムッチー?」
「こっ、これは違くて! 全っ然、大切なものなんかじゃ、なくてっ……!」
ムツゴローが遠藤の手に渡る。
「ふふん、大切じゃないならどうなったって構わないよねぇ?」
「だめェ!」
「わかりやすくて可愛いよん、ムッチー」
「ムツゴローは大切な友達なの。お願い……お願いだから乱暴しないで」
「あぁ~ムッチー! そういうセリフもっと頂戴、ゾクゾクする! その大切な大切なお友達を、目の前で八つ裂きにしたら一体どんな顔を見せてくれるの?」
んなことしたら、もうK点越えどころじゃないぞ……。
バラバラのムツゴローを睦実のママが見たら、全てを察するに違いない。そしてあいつの今までの我慢は無駄になる。
当然睦実は必死に誤魔化そうとするだろう、裁縫箱とか引っ張り出して。でもどうせ下手くそすぎてバレるんだ。
「もうやめてくれ……」またもや口にする、さっき以上にはっきりと。
奴らは談義に夢中で私の声に気づかない、畜生め。
……って、いやいや、御の字だろうがっ。
「ところで清美、八つ裂きってなんで八つ裂きって言うのかな?」
「そりゃ八つに裂くからだろうよ」
「両腕、両足、頭、胴体これで合計6つ、あとの2つは?」
「ベロとしっぽかな」
「このぬいぐるみ、ベロは無いけどしっぽはあるね」
「じゃあ七つ裂きだな……ってか時間が押してんだから巻きでいこうぜ」
「いっけない、そんじゃさくさくいくよー、まず右腕からー」
「お願いだからやめて!」立ち上がろうとする睦実をゴリラ櫻井が難なく椅子に抑えつける。クラス一小柄な睦実に為す術は無い。
「んーしょ……ふぅ、見た目より結構頑丈だなあ、私の力じゃ中々もげないや」
「付け根んとこを持って、勢い良くグイっとやればイけんじゃね?」
「せーの、よいっ、しょ! ……あ、ほら見て清美、中の綿が見えた!」
『やいこらスカタン痛ぇじゃねぇか何しやがんでィ! 睦実をイジめるやつァおれが許さねーぞこのスットコドッコイ!』
「んだとてめぇ……!」激昂した櫻井は右手で睦実の前髪を掴み勢いよく額を机へ打ちつけ、その反動を使って顔がのけぞるほど後ろに引っ張った。「虫ケラが調子のってんじゃねーぞ、ああ!?」
仰向けにされた睦実の顔には額と頬それぞれで違う赤みがさしている。
そしてその瞳は今にも零れ落ちそうなほど、涙をいっぱいに溜め込んで白く濁っていた。
「面白いよォ面白すぎるよムッチー! そんな特技があったんだね、そうだ来月の二十日は丸一日さっきの声でしゃべってもらおう!」
「それより孝子、見ろよこのツラ! へっ、今にもぴーぴー泣き出しそうだぜ」
「きゃ~! ちょっと待って、携帯に撮りたい!」
今になって思うんだ。
もしあんたと全く同じ立場にいたら、私もあんたみたいに、黙って耐えることを選んだんじゃないかって。
(わたし、お母さんのことが世界でいちばん大好きだから、心配かけたくないんです)
わかるよ、睦実。たとえどれほどの地獄を見ることになっても、ママの悲しむ顔だけは見たくねーよな。
でもさ、お願いだから、もうこれ以上我慢しないでくんないかな。
でないと、私…………
「ばっちり動画モードで撮ってるから、いつでも泣いていいよんムッチー!」
「いい加減泣けってんだオラ! この掴んだ前髪、一本残らずむしりとられてーか?」
「…………おね、がい……もうやめで……ぐだ……」
「それにしても、自分の娘がこーんな酷い目に遭ってるなんて知ったら、ムッチーの両親はどう思うんだろうね? 辛いねえ、悲しいねえ」
「こんなゴミを育てた親なんざ、どーせグズでノロマなバカ共に違いねぇぜ! うっひゃっひゃ、きっとこいつが首吊って死んじまうまで、なんにも知りゃあしねーんだ!」
「やめろってんだァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
休み時間の教室に完全な静寂が降りた。
遠藤が、櫻井が、睦実が、クラスにいた全員が同じ方を向いていた。
口を開けて目を見開いて、誰もが似たような表情で、私のことを見ていた。
いきなり大声を出して酸欠気味になったからか、
急に立ち上がった高低差のせいか、
それとも何か別の要因か、
どうしようもないほど頭がクラクラして、今にも卒倒しそうになるのを私は必死でこらえていた。
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