#6『声に出して読んじゃいけない日本語』

 案の定、睦実はいつものトイレのいつもの個室でいつもの様に泣いていた。
 閉ざされたドアの前に立つと、人の気配を察してか泣き声はピタリと止まった。手間が省けてちょうどいい。
「そこに居たまま、動かず私の話を聞け」
「……せっ、先輩ですか!? どうしてここに……」
「んなことはどうでもいい。それよりいいか、お前は今日、必ず、職員室に行け」
「えっ……」
「教師共が出払ってない昼休みか放課後がいい。そこで今までお前が受けてきた仕打ちを洗いざらい全部ぶちまけろ、泣いてわめいてできる限りの大騒ぎをするんだ、取り合わずにはいられないくらいのな」
「……そ、そんなこと……できるはずないですよ」
「これは命令だ。以前ここで話したろ、上級生に逆らうとどうなるか」
「はい……でもわたしは……」
「口答えすんな、一年は黙って先輩の言うことを聞け」
「……聞けないです。それだったら先輩に“しめられる”方を選びます」
「私に一回シメられて済むならいいんだよ! でもこの学校に居る限り、お前は毎日毎日来る日も来る日もえんえんと奴らに小突き回されるんだぞ。こんな地獄みたいな生活をいつまでも続けるつもりか?」
「そんな……大げさです。きっともうすぐ飽きてくれますよ。たぶんその前にクラスのやさしい誰かが助けてくれるかも──」
「いい加減にしろ! どれだけ痛めつけられたらわかるんだお前は! “いじめられる側にも問題がある”なんてクソみたいな事をわけ知り顔で言う奴は大っ嫌いだよ。でもお前はこの世の悪意から自分を守る方法を少しは覚えるべきだったんだ。それを頭から放棄するなんて絶対に間違ってる。どうして生き抜くために強くなろうとしないんだ!
 甘えるな! 期待もするな! 現実を見ろ! この世界はお前が考えてるよりずっとずっと優しくなんかないんだよ! 他人の痛みを悦ぶ奴と他人の痛みに鈍い奴だらけで、誰もお前のことなんか助けちゃくれない。困ってたら無条件で手を差し伸べてくれる甘っちょろい世界なんてお前の頭ん中にしか無いんだ。なあ、もうさすがにわかったろう? わかったらすぐに職員室に駆け込め! それが無理ならもう明日から学校に来るな! 逃げるんだよ! 不登校だろうが転校だろうが、今の状況より何億倍もマシだ」
「でもっ……でもそれだと、わたしのせいでお母さんが……」
 こいつこの期に及んでまだそんな事を……。
「……それなら担任に事情を説明して、家族に内緒にしてもらえばいい」
「ダメです」
「どうして!?」
「小学生のときに、一度それをやったことがあるんです。ちゃんと説明したはずなのに……その夜きっちり家に連絡が行きました。多分そういうマニュアルになってるんです」
「……それはたまたまだ、説明の仕方が悪かったんだよ。きっちりやれば、今度はきっと何の問題も──」
「“きっと”じゃだめなんです! もう絶対……あんなに苦しむお母さんを見たくありません!」
「お前に自殺でもされたら、お前のママは精神病どころじゃ済まないぞ……!」
「……自殺なんてするわけないじゃないですか。いじめられるのは慣れっこだし、これでもがまん強い方なんですよ」
「だからその我慢をやめろっつってんだ! なんでわかんねぇんだお前は! ……このままじゃ、あんた本当にどうにかなっちゃうよ!?」
「先輩は本当にいい人です、わたしなんかのために……でもごめんなさい……お母さんが心を病んでしまったら、わたし、それこそ自分が死ぬよりよっぽど辛いですから」
「っ……もう勝手にしろ! この大馬鹿野郎っ!!」
 足裏でドアを蹴りつけ、私は逃げるようにトイレから飛び出した。
 逃げる? 
 どうして私が逃げなくちゃいけないんだよ。
 私がこんなに頼んでもあいつは逃げてくれないのに。
 ふっざけやがって…………。
「くそ! くそ! くそっ! あんな奴しね! しね! しんじまえ!」
 もうどうなろうと知ったことか! 勝手に一人でくたばればいいいんだ!
 怒りで視界が真っ白で、自分が今どこを走っているのかもわからない。この激情が何によってもたらされた物なのか、本当は誰へ向けた物なのか、頭の中がぐちゃぐちゃでわけがわからないけど、とにかく全部あいつのせいだ。

 はたと我に返り足を止めると、すでに自分が教室のそばまで来ていることがわかる。私は荒れに荒れた呼吸を整えながら教室の前まで歩き、引き戸に手を掛ける。そこでふと目に熱いものが溜まっているのに気づく。私は慌てて上着の裾にそれを染みこませる。
 顔を上げて窓から覗く教室の中は、当然まだ授業中だ。いついかなる時でも注目は避けるのが私という人間の在り方である。だからなるべく目立たぬように、ひっそり静かに戸を開けた。
「おぅ雨宮帰ってきたな~。……おまえ相当顔色悪いが大丈夫か、無理して授業を受けんでもいいぞ」
 教師に声をかけられたせいで、クラス中の視線が私に集まってしまった。
 でもなぜだろう、いつもの私なら間違いなく顔を伏せるような場面なのに、今はそれができない。薄気味悪いのっぺり顔の面々が、揃いも揃って私を見てやがる様が、こちらからもよく見渡せる。
 認識と反射はほぼ同時だった。
 心臓がギュッと音を立ててわなないて、
 肺がすうぅっと、大きく、息を、取り込んだ。

 ようゲスども、調子はどうだ。

 知ってるか、お前ら全員ゴミクズだ。
 カスカスカス、糞を糞で煮しめた糞にも劣る糞共の集まりが見るのも汚らわしい汚物だお前らの吐いた空気が充満した教室なんてゲロぶちまかれた公衆便所にも劣る臭さだ臭くて臭くて臭いんだよ糞の集積所かここは吐き気がするお前らみたいな生ゴミどもがどうして平然と生きてるんだゴミはゴミらしくゴキブリと仲良くゴミ箱で暮らせこの腐れ残飯がお前ら全員同罪だお前らには死刑すら生ぬるい鉄バットでスネを殴って腹を殴って骨という骨を一本一本砕いて砕いて砕いて砕いてコナゴナにして最後に頭を砕いたあと耳とまぶたと鼻と唇を切り落としてミンチにかけてそれを喉の奥に突っ込んで太い釘を何本も何本も何本も体に打ち込んで地べたに貼り付けて生きたまま野犬とカラスにいろんなところをちょっとずつ食われながら苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しみ抜いてそれでも死ねなくてボロボロの骨だけになっても永遠にそのまま生き続けろこのゴミクズ共。
「フゥゥ…………」
 落ち着け、頭を冷やせ。こんな場面でブチ切れたら私の学校生活オシマイだ。あのマヌケのせいで私の平穏がブッ壊れていいもんか。
 それにしてもアレだ、『声に出して読んじゃいけない日本語』のおかげで多少なりとも溜飲が下がったとはいえ、今の状態のままこのゴミ溜めに居続けるのは精神衛生上マズイぞ、胸糞悪さで吐きそうだ。やっぱり出ようか。いやでも、ついさっき戻って来たばかりだし、もう一度注目されるのもかなり耐え難い……。
 うだうだしている間に、無知女がアホヅラ下げて教室に戻ってきた。
 アホめ、あのまま早退して二度と戻ってこなければよかったのに。
「ンー、多田も戻って来たか。どうした心配してたぞ、もう体調はいいのか?」
「え、あ、はい大丈夫です。……ご心配をおかけしたです」そう言って睦実はそそくさと席に着いた。
 その時、遠藤が櫻井と顔を見合わせてニヤリとやる光景が視界に入った。
“にゃん”をつけ忘れてるじゃないか何やってんだあの馬鹿……!
 次の休み時間まであと二十分もある、その間ヤツはどれだけ手の込んだ罰ゲームを思いつくことか。本当に、本当にどうなっても知らんぞ私は。
 今度こそ何が起きても我関せずを決め込むために、私は残りの二十分間果てのない内面整理とクールダウンに全力を尽くした。


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