『ふたつの嘘とグラスの音』
『ふたつの嘘とグラスの音』その店は、繁華街から多少離れた場所にぽつりと立つバーであった。
閉店時間は明け方近くであるからまだまだ営業時間には余裕があったが、それでももう大分遅い時間のおかげで店内の客はまばらになっており、流れている有線放送のBGMもずいぶんと控えめなものになっている。
そんな時間に、一組の男女が入店した。ふたりとも薄手のコートを羽織っていたが、その下はスーツとドレス。
その格好と、この時間帯から察するに、結婚式の二次会を終えた後といったところであろうか。
それまでグラスを磨いていたバーテンダーは静かに顔をあげると、ふたりをカウンター席へと案内した。男の方は慣れた様子で女を先導し、女の方は不慣れなのだろう、おっかなびっくりといった様子でそっと席に着く。
「へぇ……あんたこんなとこ知ってたんだ」
重厚な木製のカウンターをそっと指でなぞりながら、彼女の方がそう呟いた。年の頃は二十代の前半くらいといったところだろう。
「まぁ俺の仕事って外回りが多いからね。必然的に色々な店を覚えちゃうんだよ」
そういって笑う陽気そうな彼も、彼女と同じくらいの年齢に見える。ただ、その人なつこそうな顔は、ともすると彼女より年下に錯覚しそうになる感じであった。
「でも俺よりも色んな店知っているんじゃないの?」
「ううん。こういうお店は、初めてよ」
彼女がそう答えると、彼は少し目を丸くして、
「え? そうなの? てっきりそういうのに慣れているもんだと思っていたよ。ほら、よく駅前のファミレスとかで女の子同志集まっていたじゃん?」
不思議そうに、そう訊いてくる。それがまた、随分と懐かしい話であったらしい。彼女はそれを聞いて苦笑すると、
「学生時代の話でしょ? 今はずっと仕事に追われているシステムエンジニアだもの。そんな機会なんて滅多にないの」
片手を振って、そう答えたのだった。
「そっか、そっちも大変なわけだね。――なにか飲みたいものある?」
彼がそう訪ねると、彼女はちょっと困った顔をして、
「ビール……じゃ駄目よね?」
遠慮がちに、そう訊いた。
「駄目ってわけじゃないけどね……察するに、アルコール度数少な目の方がいい?」
「うん、お願い。さっき大分飲み過ぎちゃったから」
やはり、この店に来る前に来る前に多少は飲んでいたらしい。ただ、そういう割には女の方はかすかに頬が赤い程度であったし、男の方はまるで素面に見えた。
「それじゃ、彼女にはシャンディ・ガフを、俺にはラフロイグのダブルをロックで」
無口なバーテンダーは、丁寧に頷いてそれに応えた。程なくして、ふたりの前に背の高いグラスと、どっしりとしたロックグラスが静かに置かれる。
「それじゃ、再会を祝して」
グラスを掲げて、彼がそんなことを言う。
「再会もなにも、結婚式の時に会ったじゃない」
「でも、そのときはこうやって乾杯できなかったじゃん?」
「……それもそうね」
その言葉に納得して、ふたつのグラスが軽やかな音を立てた。
「……綺麗な色のカクテルね」
一口飲んだ金色に泡立つカクテルを眺めて、ほっとした様子で彼女がそう呟く。
「でしょ? ビールとジンジャーエールのカクテルなんだ」
こちらは薄い琥珀色のグラスを店内の灯りにかざして、彼が答える。
「そっちのは……なにそれ、ウィスキー?」
「そう、スコットランドのやつだよ。色んな意味でくせがあるけど、飲んでみる?」
「そうね。それじゃ、少しだけ……」
彼から渡されたグラスを手にし、唇を湿らせる程度にそっと口を付ける。
途端、彼女は驚いたように目を見開き、
「けむっ――!」
かろうじて音量を押し殺したといった様子で、そう呟いたのであった。
「だろ? 最初は慣れないんだけど、そのうちこれがクセになるんだ」
「ほんとかしら……」
彼女は煙草を吸ったことはないが、実際に吸うとしたらこんな感じなのだろうかと思う。
ただ、その煙の香りは駅の喫煙所から漏れ出てくる独特の紫煙とは違って、上等な薫製から漂ってくるそれに近かった。とはいえ煙は煙、十分にけむたかったが……。
「なんでこんなにけむたいの?」
「それはね、このウィスキーを作るときに、材料を香りの良い煙に通しているからだよ。特に、このラフロイグって銘柄はそこを意識しているんだ。ま、それを気に入るかどうかは個人の好みだけどね」
返してもらったグラスを美味そうに傾けて、彼はそう言った。
「あたしはこっちにしておくわ……」
口直しをするようにカクテルを飲んで、彼女がそう答える。
「そうだね。そうした方がいいと思うよ」
笑顔を崩さずに、彼。
そんな旧友を横目に見て、彼女は小さくため息を付いたのであった。
店内のBGMが、弦楽器からピアノのものに変わった。客はさらにまばらになっていたが、先ほどの男女は未だカウンター席に並んで座って談笑を続けている。
「それにしてもさ、良かったよね。本当に」
グラスのスコッチウィスキーを半分ほど減らした彼が、ぽつりとそう呟いた。
「そうね……」
対する彼女は、どこか複雑な表情でそう答え、二杯目のカクテルに手をつける。
「色々な結婚式を見てきたけど、やっぱ昔つるんだ仲間のは……格別だね」
「そうなんだ。あたしは、今日のがはじめてだったから比べられないけど、確かにいい式だったわね……」
それは郊外にあるこぢんまりとした教会での、ささやかな結婚式であった。
でもそれはちょっとした丘の上に立っていたし、教会の建物自体も小さいながらも汚れのない瀟洒な石造りで、そこを式場に選んだ新郎新婦の人となりが伝わってくる感じがした。少なくとも、彼女にとってはそのように思えたのである。
そして何より、その式が良かったと思えた理由。それは、参列する皆が笑顔であったことに尽きる。
学生時代から仏頂面で有名であった新郎もこの日ばかりは微笑みを浮かべ、新婦はそんな彼にそっと寄り添い、同じく笑顔を浮かべていたのであった。
「前からさ――」
年季の入ったカウンターを見つめながら、彼がそう呟く。
「結婚するの、あいつが最後になるんじゃないかって、心配していたんだ」
「いまじゃアンタとあたしがアンカーじゃない」
「本当だね、こうなるとは思わなかったよ」
一本取られたいった様相で、彼は笑う。
「って、ちょっと待って。彼氏もいないの?」
「いないわよ」
彼女はきっぱりとそう答えながら、二杯目のシャンディ・ガフを味わった。ジンジャーエールの甘味により相殺されほんのりとなったビールの苦みと、生姜の辛みが心地良い。
「もしかして、悪いこと訊いちゃった?」
「まさか。さっきも言ったけど仕事が忙しいの。今日の休みを取るのだって、大変だったんだから」
それで、だいぶ無理をして参列したのであるが、そこまでは彼には言わない彼女であった。
「あたしより、今はあいつの話でしょ」
「そうだね……確かに、あいつがちゃんと自分の相手を選んで良かったと思うよ。ほら、あいつってさ、ひとりでどこまでも突っ走って行くところがあるじゃん? それに、どこか浮き世離れているところもあるしさ。それを知っている上で支えてくれる人が必要だと前から思っていたんだ。――だから、結果として良いお嫁さんと巡り会えたと思うよ」
「まーねー……」
カウンターの上に上半身を投げ出す衝動に駆られながらも、どうにかしてそれを押さえ込んで、彼女はそう答えた。
「しっかし、学生時代からつきあっていてやっとゴールインか。長かったよね」
それまでまっすぐだった姿勢を、学生時代のようにだらけさせて、彼はそう言う。
「本当よ。その間気が気でなかったわ」
「いや、でもさ。こうやって終わってみたらちょっとは楽じゃない?」
「そうね。それは……そう思うわ」
天井を見上げ――ちょうどそこにあったシャンデリアが店内の照明を反射して――彼女は目をしばたかせた。
「あーあ。先越されちゃったわ」
冗談めかした様子で、そう愚痴をこぼす。
「……そういや、あの子ととも、友達だったんだよね」
あの子とは新婦のことであろうか。彼女もそう思ったようでひとつ頷くと、
「ええ、そうよ。ついでに言うと、つきあうように後押ししたのも、あたし」
そう答える。すると彼は少し驚いた様子で、
「へぇ、そいつは知らなかったよ」
「あら、そうだったの?」
割とプッシュしていたつもりだったんだけど……と、彼女。
「いや、まぁなんというか……」
「お似合いよね、あのふたり」
言葉を濁す彼に、追い打ちをかけるように彼女はそう言う。
「……そうだね。お互いがお互いをちゃんと支えあえていると思うよ。……それにしても――いや、良かった」
「なにが?」
妙に引っかかる言い回しに彼女が疑問の色を浮かべ、そう聞き返す。すると彼は、
「んー、ちょっとだけ心配だったんだ」
歯切れが悪そうに、そう答える。
「……なんで?」
動揺が表に出ないよう注意しながら、彼女はそう訊いてみる。すると、彼は再び言葉を濁すと、
「いやさ、ほら……あいつのこと、好きだったんじゃないかってさ」
ぼそぼそと、そんなことを言う。
「あたしが?」
自分を指さして彼女がそう訊くと、彼は少しばつが悪そうに、
「……うん。まぁね」
そう答えた。その表情に、彼女はことさら意識をして目を丸くし、
「もしかして心配していた?」
首を傾げて、そう言う。
「……うん。まぁね」
さらに声のトーンを下げて、先ほどと同じことを彼は言った。
「心配してくれるのは嬉しいけど、安心しなさい。あたしはあいつのことを気にしたことはないから」
本当は、少し違う。
最初は確かに、新郎に対して淡い恋心を抱いていたのだ。ただそれは淡いままであって――気が付いたら、新婦が彼女より深い恋……いや、愛情を抱いていたのである。そしてそれ以上に――いや、それはいい。
「だからね、あのふたりが結婚して、本当に良かったと思ってるの。あんたが言ったように、あいつはぶっきらぼうで浮き世離れしているけど……それでもあの子を大切にするし、あの子はあの子であいつが道を踏み外さないようにしてくれるってね」
ほんの少し安堵の表情を浮かべて、彼女はそう続けた。
「まぁ、たとえあたしが恋心を抱いていたとしても、あのときは一方的に世話焼いているだけだったからね。そういう対象にみてくれなかったのかも」
「あー、そういうところ徹底的に鈍かったね、あいつ。でも……」
「――でも、本当はね」
彼の言葉を引き継いで、彼女は静かに言う。
「ん?」
「本当はね、あいつよりあんたの方が好きだったのよ」
その言葉だけは決して言うまいと思っていたのに、つい、口から出てしまっていた。
「……なんだって?」
彼が聞き返すよりも早く、まるで堰を切ったかのように、彼女の言葉が飛び出していく。
「確かに最初はあいつのことが気になっていたし、好きだって気持ちに近いものだっていう自覚もあった。けど、いつも、あいつのことを気にしていて、あたしと一緒に世話を焼いていたあんたのことの方が……ずっと気になっていたし、好きだった」
一度言ってしまった言葉は、もう無かったことには出来ない。それを意識する頃にはもう、彼女は言いたいことを言い終えていた。
何故、いままで秘めていたことを口に出してしまったのだろう。
酒のせい? あるいは雰囲気? それとも昔の友人たちの結婚という伏し目に直面したから? そんな言い訳が、彼女の頭の中をぐるぐるとまわっていく。
そんな彼女に対し、彼は沈黙したままである。ただ、今の彼女のように外見では沈黙を保っていても、中身は沸騰寸前である――かどうかは、定かではない。
……ならば、まだ誤魔化せるかもしれない。
「――なーんてね、嘘よ、嘘。あはは……びっくりした?」
学生時代のようにおどけた様子で、彼女はそう言った。
昔ならそこで「なんだ、そういうことか」となるはずである。
「いや……」
だというのに、彼は真顔で否定した。
「あら、意外性無かった?」
「いや、そうじゃなくてさ」
「じゃあなに? もうそういうのには驚かなくなった?」
若干焦りながら彼女がそう訊く。
すると、彼は一息置いて、
「いや、だからさ、それも嘘だったり――ってことはない?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、彼女は彼をまじまじと見つめた。が、それも一瞬でぱっと顔を翻す。
「――あんたって、本当にそういうところは鋭いわよね」
酒の酔い以上に赤くなって、彼女はそう言った。
「ここ最近会ってなかったとはいえ、昔からのつきあいだからね」
こちらはまったく顔色を変えずに、彼がそう答える。
「で、合ってるの? 間違ってるの?」
「……たぶん、あんたの想像通りよ」
消え入りそうな声と共に盗み見るように彼を見て、彼女。
「そっか――それじゃ」
ひとつ頷いて、彼はグラスを差し出す。
「改めて、よろしく」
その言葉の意味に気づいて、彼女は再びそっぽを向くと一瞬泣きそうになり――次の瞬間には口の端が小さな微笑みの形になる。
そして彼女は、器用にも振り返らずにグラスをそっと当て――、
チンと、涼やかな音が静かに鳴り響いたのであった。
深夜に近い、人もまばらなバーでのことである。
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