願いの叶った世界から

願いの叶った世界から



願いは初恋のようだ。
 大抵は叶うこと消えていき、叶ったとしても長くは続かない。



 好きな子の世界を呪う言葉は、なぜこんなにも心を締め付けるのだろう。僕だってこの世界がたいして好きというわけでもない。理不尽で許せないことや、哀しいことや、どうしようもなくて諦めてしまうことはある。世界を呪いたくなることだってないわけじゃない。
でもその言葉が音になって、会話として、好きな子からこぼれると心にぎゅっと負荷がかかり、痛みがはしる。
なんとかしてあげたいなと思うのだ。天音夕季の呪詛の言葉を聞いて、僕が思ったのは、そういうことだ。
「バターが溶けるようにね、消えてしまいたいの」と夕季は言った。
僕と夕季は授業をサボって屋上にいた。
海が溶けたような鮮やかな青色がどこまでも続き、雲ひとつない空だった。
僕たちは高校二年生だった。一年生のように学校に慣れてないわけでもなく、三年生のように受験勉強があるわけでもない僕らは、よくこうして授業をさぼって屋上へと逃げていた(卒業した先輩から、屋上の鍵を貰ったのだ)。
僕は黒板に響くチョークの音や教室のごちゃごちゃした掲示板やぎっしりと並べられた机のあの感じが嫌いだったただからといって高校に行かないという選択肢が取れるほど、僕は強くもなかった。
「ずっと前からね、そう思っているの。子どものころらずっと。バターが溶けてしまうように、この世界に痕跡を残さずに消えてしまいたいなって、そう思うことがあるの」
 夕季の長く黒い髪が風に揺れる。制服のスカートの先が風にそよぐ。
綺麗だ。
その綺麗さと、出てきた言葉の哀しさに、戸惑ってしまう。
 何をしたらいいのかわからないのだ。夕季は子どものころからと言ったけど、僕はまだ自分のことを大人じゃないと思っていて、それはもし大人だったらこういう時になにかできるんじゃないかって思うからだ。
「ごめんね。こんなこと聞かせて。そんな困った顔しないで」
そう言って夕季は背の低い群青のフェンスにもたれる僕の隣に座り込んだ。僕は少しだけ距離をとる。人の近さが苦手で反射的にそうしてしまうのだ。
そんな僕の習性を知っている夕季は意地悪をして、ちょっと空けた距離を詰めてくる。僕はまた少し遠ざかり、夕季はまた少し距離を詰めてくる。何度かそんなことを繰り返したら、夕季は笑い出した。その笑顔に陽があたって輝いて見えた。
夕季にはさっきのような杳とした暗さと、眩しい陽気さが一編に合わさっていて、僕はそのどちらもが好きだった。
「ねえ、今夜は流星群が見えるらしいよ」
「そうなんだ。七夕に流星群か。願いごとを叶えるには捗りそうだね」
「賽河くんはは何か願いごととか、ほしいものってある?」と夕季は聞いた。僕に願いごとがあるとすれば、それは夕季のことだったけど、そんなことは言えるはずがなかった。
「特にないよ。天音さんはなにかあるの」
「うーん。そうだね。あんまり暗いこといってもあれだからな。わたしもあんまりないかな。でも願いごとってなんだか怖いよね」
「怖い?」と僕は聞き返した。
「うん。もし叶ったらって思うとね。少し怖くなることがあるよ。人の願いって、乱暴なものが多いし、叶ってしまってあと戻りできなかったらそのままになっちゃうしね」
僕はあまりそう考えたことはなかった。できるなら、多くの人の願いが叶えばいいんじゃないか漠然とそう思っていた。
僕は曖昧に頷いて、背の低い群青のフェンスの向こう側を見た。校舎の向こうには、街が見えた。人の行き来や車の行き来がとても早く、それは敏捷な生き物に見えた。せわしなく動いていないと死んでしまう、そんな生き物に。
「この群青のフェンスがさ、もっともっと背が高かったらいいのにって思わない」と夕季は言った。
「そうだよね」と僕は返した。
僕が初めてこの場所に来たとき、このフェンスのあまりの低さに驚いた。生徒が入ることを前提にしてないからだろうけど、それは飛び越えるにはあまりに容易で、僕にはそれがとても辛かったのだ。なぜそう思ったのかはわからなかったけど、確かにそう思った。
手を伸ばしても空に遠く届かず、校舎のなかにも居場所を見つけることができず、街をみて憂鬱に思う。隣の少女の手を取ることさえできない僕に、何かができるのだろうかと、ぼんやりと考えた。
授業の終わりの鐘がなり、放課後になった。


 一人暮らしの夜に慣れというものはあるのだろうか。
時折、音もなく孤独がやってきて丸呑みにする。
されがままにそれにのまれる。。
その度にそう思う。慣れによってそういう夜が少しでも減ればいいのにと。
メールの着信音がなった。ケータイを取る。
夕季からだった。「流星群来ましたよ。少しだけ見えました」
僕は適当な文句を思いつけず、返事はださなかった。
閉めた雨戸をあけるつもりはない。
夜も遅いし僕は寝る。
流星群に向かって願うことはないのだ。



翌日、「屋上に来て」というメールが夕季から来た。
朝のホームルームをサボって、教師や同級生の目をかわして屋上へと向かう。朝の学校に漂う独特の気だるさで息がつまる。
屋上の扉の前で、夕季が座っていた。
なぜか二人。僕は驚いた。
「天音さんって双子だったんですか」
「いや私は一人っ子だよ」
二人の夕季は同時に答えた。一挙一動おんなじだった。姿もかたちも、着ているものも、なにもかもが同じにみえた。
とりあえず、なかで話しましょうと言って、夕季は屋上の鍵を取り出して(僕の鍵から合鍵を作ったのだ)扉を開ける。
当たり前だけど、屋上には誰もいなかった。
僕はフェンスに腰掛けたが、二人の夕季は僕の前に立ったままだった。
「それでどうしてそうなったんです」と僕は尋ねた。
「昨日ね、流星群をみていたの」と僕からみて、右の夕季が言った。
「賽河君にメールしたけど、返事がなかった」と左にいる夕季が言った。
「それでお願いごとをして、起きたらこうなっていたの」と右。
「そう、こうなっていた」と左。
全然、説明になっていなかった。僕は首をふって、よく分からなかったと身振りで伝えた。
「でも説明なんてできないよ。ただ起きたらこうなっていた。それだけだよ」
なぜか少し楽しそうにしている夕季に僕はほっとした。僕が同じ立場だったら混乱でおかしくなってしまいそうだ。
「で、どっちが本物とかあるんですか」と僕はSF的な質問をした。本物とか偽物とか、なんかばかみたいだけど、一つずつ確認するしかなかった。
「いや、たぶんないよ」と右の夕季が言った。左側にえた夕季は、フェンスから校舎の向こう側を見ていた。
「記憶とか感情とかそういうものは個別にあるんですか?」
「その辺は私も試したけど、共有することもできるし、私有することもできるみたい。なんだかコンピュータみたいだよね。わたし人間じゃなくなっちゃたのかな」
さらっとすごいことを言うな。
夕季は二人で手を繋いでその手をぶらぶらとさせた。仲の良い双子みたいだった。
「いきなりで難しいでしょうけど、何か変わったこととか、困っていることとかないんですか 」
「うん。そう呼んだのはそのことなんだ」と言って頭を下げた。、断らないで下さい、とその言葉は続けられた。
「何か頼みたいことがあるんですか」
「しばらく賽河くんの家に泊めて欲しいの。さすがにお母さんとかに二人になったのなんて言えなくて」
僕は言葉を失った。
マンガやアニメみたいだった。何かの都合で思春期の男の子と女の子が一緒に暮らすなんていうのは、そういう世界の話だと思っていた。ああいうのは、はご都合主義だと思ってた。
でも、現実が先に虚構に近づいたら、僕らも同じように振る舞うのかもしれない。確かに、家族に自分が二人になっただなんて言えるわけがなかった。
 僕は一つ溜息をついた。
「僕自身は別に構わないんですが、天音さんは嫌じゃないですか。僕と一緒って。明日からテスト休みですし、なんなら僕が実家に帰るので、その間僕の家を使ってもらうって方法もありますよ」
「そんな迷惑なことはできないよ。それにどうやったら戻ることができるかも分からないしね」
 確かに何も分かってなかった。目が覚めたら二人になっていたというそれだけで、それがずっと続くのか、すぐに終わるのか、何も分からなかった。
「ほんとうにいいんですか」
「うん。ほかに頼るあてがなくて」と二人は言った。
「一人が僕のところにくるんでいいんですかね」 二人の方を順番にみながら、僕は尋ねた。
夕季が家に来るというのなら、それなりに掃除をしたかったし準備もしたかった。すぐにでも帰るか。
二人の夕季は首を振った。
「二人ともうちに来るんですか」
二人に夕季は同時に頷いて、「だって」と二人は同時に言った。「その方が楽しそうじゃない」と。
僕は首を振ったが、二人が楽しそうにしているのをみて、それでもいいのかなと思った。


そういえば、私服姿の夕季を見るのは初めてだった。
待ち合わせの最寄りのコンビニに、二人揃って立っていた。さっきもそう思ったけど、二人は仲のいい双子にしか見えない。二人は違う髪型をしていた。ポニーテールとツインテールだ。
「おー。賽河くんの私服って初めて見た気がするよ」と僕が思ったのと同じことを夕季が言った。
「お互い様だけどね。家はすぐ近くだけど買ってくものとかないですか」
「とくにはないよ」とポニーテールの夕季が言った。
「ほかの人の家に行くのって久しぶりだ」とツインテールの方が言った。
「そう。なら行きましょうか。っていてもほんとにすぐそこですけど」
ポニーテールの方の夕季はウサギの形をしたボストンバッグを、ツインテールの方の夕季は大きなリュックサックを持っている。
「その荷物。天音さん何日うちにいるつもりなんですか」
「テスト休みだからね。あとは念のため、たくさん持ってきたんだよ」とポニーテールの夕季が答えた。
「家族の方は大丈夫ですか」
「うん。よく一人で旅行とかしてるからね。今回もそう言ってきた」
一人で旅行か。意外な趣味だった。僕自身は電車もバスもあまり得意ではないから、旅行には向いてない。
 僕らはのそのそと歩き始める。夕季は二人で手を繋いで歩く。
「ねえ、どのマンションなの」
あたりには幾つかのマンションが立っていた。その中で一番高いマンションを僕は指さす。
「すごいね」と二人の夕季は言った。
「叔父が住んでいたマンションなんです。叔父は海外に行っていて、その間住まわせてもらっているです
ツインテールの方の夕季は僕の前に出て、マンションを目指して駆けていった。ポニーテールの方の夕季ははしゃいじゃってと言ってその姿を見ていた。
「なんかやっぱり変ですね。二人になってるっていうのは」
「そうだね。自分でもそう思う。どうしてこうなっちゃったのかなって考えてるんけどね、分からないの。願いごとのせいなのかなって思うけど」
「願いごとですか。なんか二人に分裂するような願いごとをしたんですか」
「内緒」と夕季は言った。その顔は少し切なげで、昨日の屋上で見た、世界に溶けたいと言っていたときとおんなじ表情にみえた。
僕は夕季の手を取りたいと思った。手をつなぎたいと思った。彼女が感じている不安みたいなものが少しでも僕のものになればいいとそう思った。
ときどき僕は夕季といると無性にそう思うのだ。
先についていた夕季はマンションのエントランスの自動ドアの前で、じっとしていた。
「このドア壊れてるみたいだよ。開かないの」
「僕がさっき来たときは大丈夫だったけどな」
僕が近づくと、自動ドアは正常に開いた。
「特に問題はないみたいだよ」
ツインテールの夕季は納得いかなかったようで、何度か、自動ドアの前を開け閉めしていた。
僕ともう一人の夕季は先に行くよ、というと諦めたのかついてきた。


 僕は二人を家にあげて、家のなかを一通り案内した。案内といっても、寝室と書斎(勉強部屋にしている)とリビングしかない。二人はそれぞれの部屋を案内するたびに、、広いとか、あまり散らかってないとか、そもそもあまりものがないねとか、矢継ぎ早に簡単な感想を言った。
二人には寝室を使ってもらうことにした。僕は普段ほとんど書斎のほうを使っていたため、寝室の方はほとんどものがなかったし、大きめのベッドが一つあった。
ひと通りの案内を終えた後で僕は困りそうなことはないか聞いたが、二人は特にないよと答えた。
 時計を見ると、七時だった。
「食事はいつもどうしてるの?」とポニーテールの夕季が言った。
「適当に自炊してます。ご飯炊いて。お肉を焼いたりとか、その程度だけど」
「そう。食材があるなら今日はわたしが作ってもいいかしら。家を借りるんだからそれぐらいはしたいなって思っていたの」
「ありがとう。冷蔵庫のなかのものなんでも使っていいよ」
ポニーテールの方の夕季がソファーから立ち上がり、冷蔵庫の中身を確認した。ツインテールの方はテレビを見ている。ペンギンの親子が主人公のアニメだ。
自分が二人いるっていうのは便利そうだ。
「あとそれとね。賽河くんは、食事の前にお風呂に入る人かな?」
言われてみて、子供のころはそうしていたなと思い出した。
「ううん。いつも食事はこれぐらいの時間に食べるけど、お風呂は9時ぐらいかな」と僕は答えた。
「そうなんだ、わたしの家は先にお風呂なんだ。だから先にお風呂を借りてもいいかしら。その間にご飯と食事の準備をして、上がったら何か作るから」もちろんと僕は答えた。
二人はじゃんけんをしてどちらもが先にお風呂に入るか決め、ツインテールの方が先に入ることになった。
ポニーテールの方の夕季はせっせか料理の下準備をしていた。二人いるとこうういうとき便利だねといいながら、手際よく包丁で人参を切っている。
二人一緒にお風呂に入るものかと思ったよと僕は言ったが、賽河くんだったらそうするって返されて、確かになと思った。
自分の身体を自分の目でみるのは、僕には無理そうだ。
女の子のお風呂は長いというけれど、夕季は十五分ぐらいででてきた。短パンにTシャツというラフな姿だった。普段制服の着ているときのきっちりしてときとは印象が違った。
風呂あがりの夕季はそのままポニーテールの方と入れ替わり、料理を作り始めた。
「賽河くん。結構恥ずかしいのであまりこっちの夕季をみないでくれると嬉しいな」と言ってポニーテールの方の夕季はリビングの扉を閉めた。
 僕はそう言われるまで、風呂あがりの夕季をじっと見ていたことに気づいてすぐに目線を外した。
なるべく台所の方を見ずに、ケータイをいじるふりをする。胸がドキドキしているのが、顔が真っ赤になっているのが自分でも分かって、恥ずかしかった。
いい匂いがしてきたと思って台所の方をみると、いつの間にかお風呂に入っていた夕季も戻っていた。僕の視線に気づいたのか、もうできるからねと声を弾ませた。
 五分もしないうちにテーブにご飯と肉じゃがが入った器がでてきた。湯気が立つ料理を食べるのはたぶん、一人暮らしをしてから初めてだ。夕季にそう伝えたら、身体に悪いよと叱られた。
テレビを見ながら、三人でご飯を食べた。。
それは不思議な光景だった。
昨日までは考えることも出来ないような光景だった。
僕と夕季が一緒に自分の部屋でご飯を食べているというのは。
夕季が作ってくれたご飯はとてもおいしく、そう伝えたら一人は照れて、もう一人は胸をはった。得意料理なんだよ、と。
テレビは馬鹿なことばかりをいって、僕らを楽しませた。三人でツッコミを入れながら見ると、普段見ているものとはまったく違う機械に見えた。
いまここにある雰囲気のことを団欒と呼ぼう。そんな馬鹿なことを考えながら、ぼんやりとした時間を過ごした。
片方の夕季は疲れたのかソファーで寝てしまった。僕は寝室からタオルケットを持ってきて夕季にかけた。
自分の寝顔を見るってなんだか変だなとこぼしながら、もう一人の夕季は人差し指で寝ている自分の頬をつつく。
それはとてもかわいいと思ったが、口にすることができなかった。好きな人といると言えないことが多い。嘘も多くなる。
僕は起きている方の夕季とくだらないことを話し続けた。テストの話だとか、教師への愚痴とか、クラスメートのした失敗談とか、そういうのだ。
 幸福だなと僕は思った。テーブルの向かいに好きな人がいて、こうして話せるというのは。
「ねえ、なんだか私はいまとても幸せだな」と夕季は言った。
「僕もいま、同じこと思った」心を読まれたようでドキリとした。
「なんかね。いいよね。こういうの」
「うん。なんかいい。」
「ずっと続けばいいのに」と夕季は言ったった。
「ずっと続くよ」とあてもなく僕は言った。本当にそう思ったわけではなかった。あまりに楽しいときはずっとは続かない。だからそれは願いごとのようなものだった。叶うあてのない願いごとのようなものだった。
 夕季は寝ている夕季を起こして、歯磨きをして寝室へと消えていった。またあした。そう言って。



なんだかムズムズとして、目が覚めた。
僕を覗く顔が四つ。目が八つ。夕季は四人になっていた。
制服をきた夕季が愉快そうに僕の顔に笹の葉をこすりつけてくる。
「あ、起きた」
寝起きの顔を見られたくなくて僕はタオルケットで顔を隠そうとしたが、夕季にタオルケットを剥がされた。
「また増えたんですか?」
「そう、また増えた。四人。三人じゃなくて」
「等差数列じゃなくて、等比数列」と別の夕季が言った。
「一、二、三、じゃなくて、一、二、四の方」と別の夕季。
「朝ごはんできているよ」とまた別の夕季が言った。
めまぐるしいな。
何かほかに変わったことはと尋ねた。特にないよと声が四つ重なった。
「それでなんで制服なんです」
「わからないけど、増えたときって制服姿なんだよね。昨日もそうだったよ、そういえば。まあすっぽんぽんよりはいいよね」
「いったい、どうしたらいいんだろうね」と別の夕季がいったが、 僕はどうしたらいいか分からなかった。とりあえず朝ごはんかなと、呟いた。


夕季は朝ごはんと言ったが時計を見ると十一時だった。
普段、こんな時間まだ寝ることはない。夕季がいることで緊張しているのかもしれない。
四人はもう朝ごはんを済ませたようで(当たり前だよと夕季は言った)、僕が食べているのを四人の夕季に見られていて、食べにくかった。
「それで今日はどうするの」
「せっかくだから出かけようかなって思って。これで街を歩いたら楽しそうじゃない」と一人の夕季がテレビのチャンネルをいじりながら言った。
「知り合いに会ったらどうするんですか」
「知り合いのいなそうなところに出かけるわ」
「あの小さな動物公園とかどう。あまり誰もいなそうだし」
「いいね。小学生以来だ。賽河くんも行く?」
 僕は少し考えて、行かないことにした。夕季と出かけたいと思ったけど、少し気になることがあった。
「わたしも家にいるかな。それでもいい賽河くん?」とケータイをいじっていた夕季が言った。
「別にこの家は好きに使ってくれて構わないよ」
じゃあ出かける準備をするね、と言って三人の夕季はリビングをでた。それから十分もしないうちに、早々と三人の夕季はでかけてしまった。なにかおみやげ買ってきてあげるねと残して。動物公園のおみやげってなんだろう。
僕は残った夕季のためにコーヒーを入れた。
グラスと角砂糖の入った瓶を出すと、夕季は角砂糖を二つ頂戴といってコーヒーに入れた。スプーンで砂糖をかき混ぜる。
「なんだかお気楽だよね」と残った夕季が言った。
「そうだね。なんだか不思議だよね。君はいかないでいいの」
「うん。あんまりね。そういう気分じゃないのよ」
さっきまでの夕季たちとは違って、いま目の前に夕季には暗さを感じた。
「賽河くんにはある? なんていうかさ、ぜんぜん違う気持ちが一編にある感じ。あっちでは明るくてさ、こっちではなんか暗い感じ。おんなじ自分のなかに全然べつの、時には反対の感情がある感じ」
それは以前から夕季に感じていた印象だった。
「僕自身はあまりそういうところはないけど、天音さんってそんな感じがするよ。なんかすごく楽しそうなのと、すごく哀しそうなのがおんなじところにある感じがする」
夕季はコーヒーを一口飲んで、溜息をついて。
「わたしはね、ここにいるわたしは不安なんだ。ここにずっといるわけにもいかないでしょ。いつ終わるかもわからないし、原因もうまくつかめないし」
 原因と結果。
願いごとの結果。
「そういえば、なんて願いごとをしたの」
「あのとき屋上で言ってたこと。世界に溶けたいなって思ったの。そう願ったの。世界に溶けてしまいたいなって」
夕季は声が、影のように響いた。
「それがどういう解釈をされると。今みたいな状態になるんだろう」
「うん。どうなんだろうね。わたしが溶けるって思っていたのって、コーヒにいれた角砂糖みたいに、薄くなって、拡散して、広がって、偏在する感じだったんだ」
夕季は角砂糖を一つ頬張った。
世界がコーヒーカップで、そのなかに夕季が溶けている姿を僕は想像した。夕季がいまのまま倍々に増えて、何千万とか何十億とかになる様子を想像したら、それは溶けるというより、侵略みたいだった。
「そういえばさ、寝室に笹の葉があったけど、短冊はなかったな。賽河くんも何かお願いしたの」
起こすときに使っていた、笹の葉はあれだったのか。
「世界平和」と僕は嘘をついた。



変化は突然に、確実におとずれた。
夕季の呼ぶ声で目が覚めた。
最初、僕は自分の目を疑った。寝ぼけて、目の見え方に異常があるのかと思った。顔を洗ってもそれは変わらなかった。
八人になっていた夕季の身体が少し透けて見えたのだ。
それは周りの物質から浮いて見えた。マンガやアニメにでてくる幽霊のようだった。
「天音さん、それ」という僕の声に、
「うん。八人。七人って可能性もあったけどね。それになんかこんなになっちゃったね」とはにかんだ。
「なんか、幽霊みたいだよね」
「さっきね。外に出て見たんだけど、自動ドアが開かなかったんだ」
「それに何人かの人とすれ違ってたけど、わたしに気づかなかった」
「こちらから挨拶をしても駄目だった」
「自動販売機のボタンも押せなかった」何人かの夕季が続けて言った。
それは何かの始まりで、何かの終わりのようだった。
「世界にね少し、溶け始めたみたい」
「わたしが願った願いは確かに叶ったみたいだけど、これはなんかこたえるね」
「倍々に増えて、少しずつ溶けていく」
「それがこの現象みたいね」
 僕は夕季が自動ドアを開かられなかったことを思い出した。
二人になったときからそれは始まっていたんだ。
「天音さん」と僕は強い声で呼んだ。
「ごめん、ちょっと今日は部屋でおとなしくしてるね」
「そっとしておいて」
そう言い残して夕季は僕の部屋を出た。
僕は、なんの言葉をかけることができなかった。
何か言おうとした言葉は、発するまえに何かに飲み込まれたように消えてしまった。大丈夫だよとか、そういう言葉を言いたかった。 それがたぶん何の気休めにもならなくても、僕は夕季の味方でいたいと思った。
けれど何も出来なかった。
誰かに相談することを考えた。
試しに妹に電話をして、状況を説明してみたが、分かってはもらえなかった。当たり前だ。
何か分かるかもしれないと思ってパソコンの検索窓にキーワードを打ち込んでみたが、出てくるのはマンガやアニメや小説のあらすじや感想だけだった。
どうしようもなかった。
何も思いつかなかった。
あんな表情をみせていた夕季を一人にしておきたくはなかったが、僕には何かができるとは思えなかった。
1+1、2+2、4+4、8+8.....,小学生のころに何度も数えたその等比数列はほとんど絶望的な気分を僕に与えた。1024、とか4096人とかあるいはその先のすごく大きな数。
このまま増え続け、溶け続けてしまったらいつか、夕季はその願いのとおりにほんとうにこの世界から消えてしまうのかもしれない。
なにもかもが不確定な現象は、雪だるま式に絶望感を増し僕にのしかかっていた。
つい数日前に夕季がいった、ずっと続ばいいのに、という言葉は、すでに失われてしまった気がした。あの光景を嘘にしたくなかった。


その日、一日中夕季は部屋から出て来なかった。
僕は何度か寝室のドアをノックしたが、返事はなかった。
僕は何かにすがるように、叔父の残して言った本を次々に開いたが、そこには何かのヒントを見つけることができなかった。
叔父が使っていた笹の葉をあしらった栞が挟まった本を見つけて手に取った。
願いは初恋のようだ。大抵は叶うこと消えていき、叶ったとしても長くは続かない。そんな文章から始まっている。
僕はその本を壁にたたきつけた。
嘘だ。
願いが叶っても、それが続いたらどうしたらいいんだよ。
それが誤った願いだったらどうすればいいんだよ。
泡のように夕季の願いが消えて、もとに戻ればいいと僕は何度も何度も願った。
 


リビングに行くとソファーでタオルケットにくるまった夕季がいた。一人だけだった。
 夕季の身体は昨日よりさらに透けて見えた。
図鑑でみたクラゲみたいだった。
 夕季は僕に気づくと、昨日はごめんねと謝った。その顔は清々しいほどの諦めに満ちていた。うまく物もつかめなくなっちゃったの、自嘲気味に笑うその顔は見ていられなかった。
「ほかのわたしがねさっき、お母さんに会いにいったんだけどね、気づいてもらえなかったんだ。他の人もみんな駄目。賽河くんは見えるんだよね」
「うん」と僕は言った。
「なんでなんだろうね。なんで賽河くんだけ見えるんだろう」自問するように夕季は呟いた。
確かにそうだ、なんで僕だけ見えるんだろう。
僕はケトルに水を入れお湯を沸かし、インスタントのコーヒーを入れた。そのなかに角砂糖を四つ溶かした。
「ほかの天音さんはなにをしてるの」
「色々。図書館で調べ物したり、誰かほかにも見える人がいないか探したり、頼れる人がいないか探したり、十六人もいるのに、全然だめだね。解決策もその手がかりもなにもない」
「そうなんだ」
「もっとどろんと消えてしまえばよかったのにね」どろんと。
「でも、これも悪くないか。このままわたしはどんどんと増えて、溶けて、一万人とかになって、もっともっと薄くなって、誰からも認識されなくなって、でも日本中のどこにいてもわたしがいて、世界中のどこにいてもわたしがいて、空気みたいにわたしが存在している。そういうのって素適だと思わない?」
僕は夕季の隣に腰掛けた。
僕は腕を伸ばし、夕季の身体を抱きしめたいと強く思った。この寂しげな十六分の一の夕季を抱きしめたいとと思った。
夕季は僕に手を伸ばし、僕の肩に触れた。
僕はじっと動かなかった。
「賽河くんはまだわたしが見えるし、触れることもできるんだね」
頷くことしかできなかった。
「わたしもね、でかけて来るね。少しでも何か方法がないか調べなきゃ」
「僕も一緒に行くよ」いまの夕季を一人にしたくなかった。
「うん」と夕季は言った。


一日は徒労に終わった。夕季は人間や機械には認識されなかった。透明人間みたいだった。幽霊みたいだった。公園で休んでいるときに、散歩していた犬が夕季に吠えるのをみて、いま夕季が見えるのは自分だけじゃないことに少し安心した。
夕季は明るく振舞っていたが、それは作り物だった。
不安や焦燥が彼女の心に充満していて、そのせいで何かが使い果たされていた。それでもそう振る舞う彼女に僕は何も出来なかった。
「何も前進しなかった」と嘆く夕季に、
「昨日は言えなかったおやすみという挨拶が今日はできる」と僕は返した。それが僕の精一杯だった。
おやすみと、そう言って僕は勉強部屋に戻ったが、眠ることはできなかった。となりの寝室から聞こえてくる、心細い泣き声がずっと途切れなかった。
 心はこんなにも、彼女のことを考えているのに、隔たりは大きい。 状況は少しもよくならなかった。



三十二人になった夕季は、壁をすり抜けることさえできるようになった。ますます、薄く透明になっていた。
「話があるの」と一人の夕季が言った。
その表情には決意が現れていた。
公園でも行こうかと僕は誘った。何人かの夕季が一緒についていくといったが、僕に声をかけた夕季はそれを制して、僕の手を取った。
公園に行くまで、夕季は握った僕の手をぶらぶらとさせながら、押し黙っていた。
こんな状況でも手を繋げば、緊張するんだなと僕は思った。
手を握ったまま、ベンチに座った
小さな公園には誰もいなかった。
「ねえ、そろそろ限界だと思わない」夕季はまっすぐに僕の方を見た。
僕はそれに対して答えを返せなかった。限界と言えば限界だろう。
明日には六四人、その次は一二八人、一週間後は、一ヶ月後は、先のことを考えてしまうと限界なのかもしれない。
「このままじゃ、賽河くんの家を幽霊屋敷にしちゃうしね」
「そんなのは構わないよ」そんなのは構わなかった。「それでどうするんだい」
夕季の顔の表情が曇った。
「はっきりとした答えがね、あるわけじゃないの。でも、たぶんだけど、もう私たちのことを普通に見えるのは賽河くんしかいないと思うの。それがいつまで続くのかは分からない。でもね、だとしたら、わたしが賽河くんのそばからいなくなればそれでおしまいじゃないかって、そう思ったの」
 手が強く握られた。
雨が降ればいいのに。
雨が降ればいい。哀しい時はそう思う。
哀しいときには、哀しい天気が良かった。
空はあまりに気持よく晴れて、雲がひとつも見つからなかった。
 おしまいと夕季はいった。
夕季の選択肢は死んでしまうのとどう違うのだろう。僕しか夕季を認識できないのだとしたら、僕の前からいなくなった彼女は本当にひとりきりで、この世界で増えて続け、溶け続け、さまよい続ける。
そんなのは許せない。許されていいはずがなかった。
でも、解決の糸口さえぼくには見えなかった。
「わたしはもうほとんど死んでいるみたいなものだよ。賽河くんにしか認識されないんだよ。わたしはもう。あなたの前以外では生きていないのとそれほど変わらないよ」
「じゃあ、ずっと僕のそばにいるという選択肢だってある」
 夕季は僕の目をまっすぐに見た。
「そんなのはだめだよ。わたしたちはこんなことになったけど、マンガとかアニメのキャラクターじゃないんだから。一時のことで全部を決めるんなんて絶対にだめなんだよ」そんな風にあなたを縛ることはできない、と続けた。
「運が良ければさ。また流星群に願いごとでもするよ。どこか遠くでね。こうなったのも何かの奇跡なら、戻るのだって何かの奇跡かもしれない」
 おしまいとばかりに夕季は手を離して、視線を何もない地面に落とした。
 ポケットの中のケータイ電話が鳴った。メールの着信音だった。
「屋上に来てください」
送信先は夕季からだった。
僕は、目の前の夕季に行ってくると告げて、公園を離れた。


自転車で、学校に向かう途中なんども、さっきの夕季の提案のことを考えていた。
夕季が、いまの夕季が自分の前から消えるというその提案を飲み込むわけには行かなかった。
空は変わらず晴れていて、眩しい陽射しは夏が来ることを告げていた。この前まで、僕らは普通だったのに。
休日の校舎はがらんとしていた。
裏口から、昇降口を通り屋上へと向かう。
屋上には、夕季が一人いた。三十二分の一の夕季。
その夕季は背の低い群青のフェンスの向こう側に立っていた。
風にそよぐ長い髪は相変わらず美しかった。
「君も同じ話をするのかい」と僕は尋ねた。
「ううん。わたしがするのはもう少し別の答え」
フェンスの向こう側から夕季は言った。
「でも、すごく悩ませるかもしれない」
「聞かせて欲しい。さっきの答えは僕には納得できなかった」
「わたしたちはいま全部で三十二人いる。」
「うん」と僕は答えた。
「例えばそのうちの一人が死んだらどうなると思う」
 僕は言葉をつまらせた。分からなかった。
 不確定な現象だ。何が起きるかはわかかなかった。
「三十二人いるわたしが例えば、三十一人死んだらどうなると思う」
「わからない」
わからない。
「そう。わからない。もし、いまのわたしだけが生き残って、ほかのわたしが全部死んだら、いまの存在の薄さのまま、わたしは一人になってしまうのかしら。それとも一人がいなくなるたびに、わたしは自分の存在を少しずつ取り戻して、もし一人だけになったら、もとのわたしに戻っているのかしら」
夕季の声は上ずって震えていた。
その先を聞きたくなかった。
それでも、夕季は話すのをやめなかった。
「都合が良い解釈だよね。でもいまのわたしはそういう都合が良い解釈にすがることしかできない」
 それはあまりに儚い希望だった。合っていない途中式が正解を目指しているようだった。話のどこにも確定したものがなかった。たぶん本人にすら確信はなかった。
弱さの塊だった。
脆さの塊だった。
少しでもどこかが間違っていれば、残るのは絶望だけだった。
でもそれを否定する材料がないのも本当だった。
「さっきね。ここから飛び降りてみたんだ。でもね、だめだった。わたしはねもう、自分の力で死ぬこともできない」
そういって夕季は笑った。
その笑顔は泣いていた。
どうしてこうなったのか。
しかたないんだよ。夕季は表情はそう、語っていた。
夕季が次にいう言葉が僕にはわかった。
「だからね殺して」という願いを、「無理だよ」僕は否定した。僕と夕季の声が重なって消えた。
「お願い」「無理だよ」重ねて消した。
夕季は僕を見る。
僕は夕季を見る。
 向こう側とこちら側。
「僕には無理だよ。夕季を殺すことはできない」
夕季の願いを聞きながら僕は想像していた。さっきまで手をつないでいたその手で、僕は目の前の夕季を、たくさんの夕季を殺して、殺し続けて、そのあとでもしかしたら残るものは何もないかもしれない。何も解決しないかもしれない。
ただ残酷さだけが残るかもしれない。
そんな選択肢の想像を。
でもそれで解決するかもしれない。ほとんどのない可能性なのに、それでもそう思った。
「この手で、好きな人を殺すことはできない。」
好きという、その言葉は、こんな状況でもその言葉は、僕にはとても恥ずかしかった。だが、夕季の解答を否定するのはそれだけが理由に思えた。好きな人を試しに殺してみることはできない。
夕季は驚いた表情を見せた。
「僕にはできないよ、絶対に」
「そう。でもね。わたしはね」と夕季は言った。
「生きたいなって思ったの。こうなってみて、初めて分かったの。世界から消えてみて、初めて分かったの。わたしはねほんとうはもっと違うことを感じていたの。ずっとわたしが感じていたことはね、もっと違っていたの。わたしの願いは間違っていたの。こんなの全然望んだ結果じゃなかったの」
願いは初恋のようだ、大抵は叶わず消えていき、叶ったとしてもそれは長くは続かない。
叶ったとしても、長くは続かない。
 壁に投げつけたその言葉がなぜか思い浮かんだ。
「だから。だから。殺して」
夕季は、僕の好きな人は、生きるために、その可能性のためにそう言った。
「殺してみて下さい」と。
風が吹いた。
僕と夕季の間を通り過ぎた。
群青のフェンスのこちらがわと向こう側の間を。
僕はなにも言えないまま、フェウンスを背にして座り込んだ。
夕季はフェンスを乗り越えて僕の隣りに座った。
言葉はなかった。
陽射しが眩しかった。額から汗がこぼれた。
ジリジリという音が聞こえてきそうだった。
夕季の提案はどちらも、嫌だった。
夕季が僕の前から消えて、世界でひとり増え続けたまま彷徨うのは嫌だったし、僕の手で夕季を試すように殺すのも無理だった。
自分で答えを出せなきゃいけないと、僕は感じていた。
いくら考えても答えは出なかった。
どう考えて答えは出なかった。
確定している部分は、ほとんど何もなかった。
どれだけの時間がたったのか分からなかった。
僕たちは隣り合って、互いに何も言えなかった。
 僕は考え続けていた。
何か、方法はないのか。夕季の出した二つの答え、あるいは夕季はもっとほかの方法も思いついているのかもしれない。でもきっと、それいま、僕に突きつけられた二つの答えよりも更に厳しいものである気がした。
「沈黙は答えを出さない」と隣の夕季がぼそっと呟いた。
けれど、言葉は、行動は、僕にはなにもなかった。
重たい空気を破るように、わざとらしく咳払いをして、
「そうだ。一つだけ。わたしがねあの日にした願いは二つあったの」
「ふたつ?」と僕は言った。それは初めて聞いた。
「そう二つ。一つは流星群に願った。この世界に溶けるというもの。もう一つはね。七夕の短冊に書いたの」
短冊。そうかそれも願いか。
そう言えば僕も書いた。
「賽河くんに、あなたに、告白したいなって、そうできますようにって。そう願ったんだ」
だから好きです、照れくさそうにそっと消え入るように言った。
 夢のようだと思うその告白を聞いて気持ちが高揚した。
それとは別の場所で、僕は確信した。
夕季のその言葉がキーワードだった。
空気が割れる音がした。
僕と夕季は立ち上がりあたりを見渡した。
まばゆい光が僕たちを包んで何も見えなくなった。
立っている場所が少し揺れた気がした、僕は反射的に夕季の手をとって彼女の身体を支えた。
「なんなの、これ」何も見えない中で夕季は叫んでいた。
「わかった気がする」と僕も叫んだ。「夕季はさ。自分の願いが叶ったと思っていた」高揚感は僕の夕季を名前で呼ばせた。いつも心のなかでそう言うように、
「うん。だってそうでしょ。じゃなかったらこんなにならなかった」
「でも違ったんだ。叶ったのは、僕の願いだったんだ」
そう僕の願い。七夕の短冊に書いた僕の願い。
「賽河くんの願い? 世界平和じゃなかったっけ」
「いや、それは嘘でしょ、普通に考えて」
「どういうこと。賽河くんがわたしが消えますようにって願ったの」
「違うよ」そう違う。
僕の願いは。僕の願いごとこそが、間違っていたのだ。
 僕の願いこそが、彼女を苦しませた。
 彼女の願いだけなら、それはもっと早くにほどけていたはずだった。
「僕は」
 それは過ちの願い。
「僕の好きな人の願いごとがかないますようにって願ったんだ。七夕の短冊にそう書いたんだ」
そう、それが僕の願いだ。
自分のことを願うことができなかった、臆病な僕の願いだ。
「でも、それでどうしてこうなったの」
「おかしいとは思っていたんだ。どうして僕にだけ、夕季が見えるのか。夕季の願いが本当に溶けることだけだったらそれだけでおしまいだって思っていたんだ」
そう思っていた。ただ溶けるだけを、消えるだけを願ってそれが叶えられたなら、その願いが叶ってすぐにでも願いごとは終わったはずだ。
「でも、違った。さっきの願いがあった。夕季が僕に告白したいってその願いがあった。だからその願いを叶えるためにこの世界は続いていた」
 光は白く揺れていた。
その光はこれまでもどこかで感じたことがあった。
温かく、強く、優しい、その光のなかで
「だから、きっともう終わりだよ。願いごとは初恋のようなものだって。叶ったとしてもすぐに終わってしまうって」そう僕は壁に投げつかたあの本の言葉を口にした。
「だから消えるんだ。終わるんだよ、この願いの世界は。僕が願った過ちの願いは」
それは都合の良い解釈だった。
少しも論理的じゃなかった。
現実的な答えじゃなかった。
でも、それじゃあ、現実の方が、さきに非現実に手を出したら、不条理に足を埋めたら、大きな嘘を口にしたら、僕たちにできることは何もなくなってしまう。
だから、そうだ。
結局はどこかで必要にしてしまう。それを。
だとしたら、できる限り美しいそれを、求めるべきだ。できる限り、優しいそれを考えるべきだ。できる限り甘いそれを作るべきだ。


光は次第に弱くなっていった。
何かが解けるようなそんな感じがした。
目を開けると、夏の気配がした。
夏の近づいてくる前の独特の湿気を感じた。
「賽河くん」と夕季は僕の名前を呼ぶ。
その体は元に戻っていた。透けていなかった。
その頬から涙が一筋流れた。
その涙でどこまでが本当に起こったことなのか、分かった気がした。
僕は夕季に謝った。
自分勝手な願いで、夕季を苦しめたのだ。
夕季は、わたしのほうこそ付き合せてごめんねとしきりに謝ったが、全ては僕の弱さから始まったんだ。夕季がそう言ったのと同じように、僕が願うべきだったのはきっともっと違うものだった。
 互いに謝るのを繰り返していると、それはどこか滑稽に思えてきてきて、僕は笑った。うんそれでいいよ、夕季も笑った。
「お互いに謝るより笑ったほうが、ずっと気持ちいいもの」
「そうだね」
僕た随分と長い間、夕季の手をつないだままにしていたことに気づいた。
夕季はもっとずっと前から気づいたようだった。
僕はごめんと言ってその手を離した。
が、考えなおして、離したばかりのその手を捕まえて握りしめた。
夕季は意地悪な顔して握りしめたばかりの僕の手を離したが、僕は何度でもその手を捕まえた。
夕季は笑っていた。つられて僕も笑った。
これでいいと思った。
「夕季」と僕は彼女の名前を呼んだ。
僕の好きな人の、名前を呼んだ。


 屋上には背の低い群青のフェンスがあった。
その向こうで、夕焼けが世界を赤く染め上げていた。
夕季はその夕日をみて綺麗と呟いた。
僕もそう思った。

僕たちは風に吹かれていた。
 幾つかの願いが風に吹かれて飛んでいった。
僕は自分の初恋だけは手放さないように、夕季の手を強く握った。
握り返された、その手の感触は嘘じゃなかった。
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