休日の昼過ぎくらいのことだ。仕事に行き詰まると、事務所を出たすぐ先の公園に来て、いろいろな音に囲まれながらボーっと昼食を摂るのが習慣になっていた僕は、いつものようにその公園に足を運んでいた。
日が出ている間は、親子が池にありがちな、何らかの動物の形を模したボートに乗ってみたり、子供たちが遊具で遊んでいる脇で、親同士が談笑をするといった(いったい、毎日同じような話をしていて飽きないのだろうか……)健全で、一般的な様子が誰にでも見て取れるのだが、日が落ちると、そこの様子は一変する。自分と同じくらいの年のアベックが、ベンチ、ボート、茂みといった空間という空間を占拠し、もし僕が空いた小腹を慰めるため、夜食を買いにそこを通ろうものなら、飢えた野獣達の視線の束を感じざるを得ないような、不健全な(ある意味では健全なのかもしれないが)逢引きの場へと様変わりする。そんな昼と夜でそれぞれの顔を持った公園だが、その昼の顔が日々の疲れを癒す特効薬となっていたのは事実だったし、極端な二面性がそこに人間味をもたらすので、いつのまにか僕には彼が唯一無二の友達になっていた。
だが、今日は珍しく一組のアベックが白昼堂々、一番奥のベンチに陣取っている様子だったので、事務所に戻った時のちょっとした話のネタになればくらいの気持ちで、彼らの正面となるだろう、まさしくおあつらえ向きに備えられた二人掛け用の椅子に一人で腰を下ろし、聞き耳を立ててみることにしたのであった。女はハスキーめの聴きやすい声だったが、男は自分に似た、かなりくぐもった声だったので、とても聞き取り辛い。しかし耳には自信があったのでなんとか聞き取ることはできた。
 ところが、話を聞いてみるとこの二人、なにやら通勤前にコンビニで買った、たかが300円のサンドイッチを頬張りながら聞くには重たい話をしているようだった。あいにく表情は確認できないのだが、その暗く、重い声色に、僕は会話の内容を理解するかしないかくらいで、いつも聞いているはずの子供たちの黄色い声を探していた。しかし、自分の思いに場の流れが従うわけもなく、男は足早に公園を去り、僕と彼女だけが時の流れから切り離されたかのようにその場に残されたのであった。
僕には当然、近づいてなにか気の利いた言葉をかけてやれるわけがない。震える手を誤魔化すため、持っていた缶を強く握る。もう一方の手で腕を抑えながら、しばらく様子をうかがっていると、女はひとしきり泣いた後、疲れたのか眠っているようだった。おそらく帰りは誰かが迎えに来てくれるのだろうか、そう思った僕は、首を突っ込むんじゃない、と何度も自分に言い聞かせながら、その場を離れることにした。自分の無力さから逃れるために。


 「地井おつかれー、また外波公園か?」
事務所の奥から豆を挽く音と良い香りがする。既に破戸が出勤し、コーヒーを煎れているようだった。破戸は唯一残った同期で、人を近づけ難い私にいつも目をかけてくれていた。表向きには性格は申し分なく、他人によく目配りが出来る、所謂良い人の代名詞といった人間だったのだが、自分の事になると杜撰極まりない。とにかくセンスがないようで、初対面の人間からはいつも、そのシャツはどこでどうやったら買えるのか、といったような煽りにも似た質問を浴びせかけられているようだった。今考えると、彼は初めて会った時に何もつっこまなかった僕に興味を持ってくれたのかもしれない、いずれにせよ僕にはどうしたって服装など興味の持ちようがない、ということだけは間違いなかった。
僕は破戸に向かって、《ただいま、そっちもおつかれ》といつものように慣れない手で答える。
 破戸は耳が聞こえなかった。もっとも、昔は聞こえたそうなのだが、徐々に聞こえなくなっていったらしい。この職場はそういう障害を持った人を雇う枠のようなものがあり、ここに勤めている以上、誰もそのような人達に対する偏見や遠慮はなく、只々普通に扱われていた。どういう障害かさえわかれば、それ以上は詮索せず、何も文句は言わない。各々がやれることをする。微妙な均衡の下に成り立っていた職場関係であることに間違いはないだろう。しかし、今の僕にはそれが心地よかった。もっとも、破戸にはそれが負担になっていたようだが……
自分のデスクにつき、毎日同じように与えられた仕事をこなし始めてから少しすると、淹れたコーヒーを自分にも持ってきてくれたので、《ありがとう》と唇を動かしてからそれを啜った。いつも変わらないはずのコーヒーの味はなぜか少し、苦かった。



一人称視点





家に帰ってからも頭から離れることは無かった。彼女は平気だったのだろうか、男はなぜ女を見放したのだろうか。許せなかった。他人の人生に興味を持った事は無いが、人を愛するという感情を、一時の事で殺してしまえる物だと思いたくはない。女の方に目が無ければ、男が目になればいい。男の方に耳が無ければ、女が耳になればいい。布団に身を投げ出して、そんなようなことをたくさん考えた。いつもなら、静寂が苦手な僕を癒してくれるはずの、メトロノームの三拍子が今日はやたらに煩わしかった。手にとって投げ出すと、大きな音が一度鳴り、それがたくさんの小さな音を招き寄せる。完全な静寂が身を包んだ。許せなかった。野次馬感情で眺めておきながら、なにもしてやれなかった自分が。静寂は僕にとっての純白だった。


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