家に帰った僕は後悔の泥にまみれていた。思い切って飛び出して帰ってしまったはいいものの、携帯を落としてしまったのは不味かった。合わせる顔がないのに、どう取り返せばいいのだろう。そして何が違うというのだ。僕が彼女を騙していたことに違いはなかった。そうして途方に暮れていると、家の中からなにかの音が僕を呼んだ。
「あぁ……」
契約してから、ほぼ使うことが無かった家庭用電話機のコール音だった。もうどんな音がするかも忘れていたんだ。受話器を取ると、懐かしくもあり新鮮な、美しい声がした。
「啓……さん……?」
携帯を見ると、地井啓と……これが初めて知る彼の名前。携帯を持つ手が震えた、覚悟を決めるのには時間がかかる。 初めて名前を呼ばれた僕は不意をつかれて、しばらく動揺してしまった。
「あの……ね……」
僕は次に放たれる言葉に吹き飛ばされてしまわないように身構える。
「私の目が見えないっていうのね……勘違い……なの……」
そう、私の目は見えていた。私は彼の優しさに甘え、溺れていた。彼が声をかけてくれたあの時、一度は何事かと思い、恐怖したものの、彼の意図に気づいた私はそのまま乗りかかってしまった。悪いことをしていたのはわかってる。だけどショックが大きすぎた私は、自分の目を潰し、甘えてしまった。嘘をついているのは私の方だった。彼のそれは優しさ以外の何物でもなかった。最初に騙してしまったあの時からずっと、いつ打ち明けようかと考えていた。置き手紙でも置いて逃げてしまおうとも思った。だけどそんなことはできない。直接口で伝えるしかないと思っていたから。だけどチャンスは舞い降りてきてくれた。 本当にドッキリ番組だったのでは?予想外のネタばらしに、僕は身をよろけさせつつも、あの時をもう一度再現する。
「あ……あぁ……」
一つの『答え』にたどり着いた僕はその場で跪いた。重さが増した受話器を両腕で支えながら、涙に打ち震えた。
「そうだ、僕が
『一人称視点』の物語の主人公にはなれるわけがなかったんだ。いつも僕の物語は、誰かの“視点”の上で成り立っていたはずなのに……今回も君の視点が必要だったんだ」
もちろん、平成を代表する文豪がペンを取ったなら、それは容易いだろう。例えば、大した悩みも持たない男女が出会い、周囲の反対などの困難に打ち勝って、ようやく身体を重ね合う。そんなありふれた話だったなら、小説もまともに読んだことのない人間ですら、痩せこけた心の内を僅かな達成感で満たすため、ネットのみの小さな小説大会なぞに応募し、ゆるい気構えでそれなりに書ききってしまうだろう。だが今回は、そんな素人には書ききれるはずがなかった。最初から僕は一度、彼女の視点に立って、考えてみる必要があったんだ。いくら似ていたとしても、一年間好いた男の声をそう簡単に間違えるはずがない。
僕のような素材はテーマとしては面白いかもしれない。だが、それを活かしきるには一朝一夕ではなく、それ相応の努力が必要だろう。今思えば、君たちにこうして、僕がいちいち行動や心情を伝えなければならなくなった時点で疑うべきだった。
「わかってたの、あなたが私のために嘘をついてくれてたのは。その優しさに甘えちゃって……いつの間にか、あなたに依存してた……」
何が起きているのか、もう処理ができなくなり、とにかく千佳に会いたい、その気持ちだけが溢れた。
「携帯、返さなくちゃね。いつものところで……待ってます」
最後ははっきりとした声で締めくくられ、僕の返事を待たずに電話は切られた。
「ここからは君に伝えることは出来ない。恥ずかしくて耐えられないし、なにしろ童貞には濡れ場は書けないからね」
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