公園からベンチまではいつも107歩だった。最初の一歩が踏み出せない。迷いを繰り返して、彼女と会うのはこれで13回目に達する。いつ終わりを告げられてもおかしくない状況で、これが最後になるのだろうと毎回唇を噛み締めてきた。1歩……2歩……、ざわめきが僕を避けていく。9歩……10歩……、影だったはずの僕に、一人の子供が初めて目を向けている気がした。20歩が過ぎれば、公園中の子供たちの視線を僕が独占していた。半分をすぎる頃には、親子が寄り添って僕に応援の言葉を投げかけていた。ようやくベンチまで辿り着くと、一同が僕のために歌を歌ってくれていた。曲は勿論、『君の中に虹を見た』だ。向き直ってから腰を掛ける、どうやら彼女は寝ているようだ。夜更かしでもしていたのだろうか。
「ねえ、ごめんね……」
突然の千佳の発言にビクッと驚き、そして覚悟を決めた。ここで逃げたらもう二度と自分からは言い出せないと思った。皆の歌が止み、せき止められていた普段と同じ音が一気に流れこむ。
「千佳、謝るのは僕の方だよ」
しばらく何も反応がなかった。
「ん?……もう来てたんだ」
どうやら寝言のようだった。束の間の安堵感にほっとして、顔を床に向けて呼吸を整えた僕に、彼女は続ける。
「なにを謝るの?」
もうあとには引けなかった。考えていたセリフを迷いが生まれる前に読み上げる事、としか残されたカードに記述は無かった。
伝えなければいけない事がある。僕はようやくそのことに気づかされた。人間は、声に出して伝えなければ相手には何も届かない。そんな簡単な事になぜ今まで気づかなかったのだろうか。ましてやこのご時世にメールなども使えない僕には人一倍そこに気づくチャンスはあったはずだ。人は皆、ただ子を成しただけでは伝わらないことを伝えることで、後世に過去を託し、未来を任せたんだ。
「千佳、よく聞いてくれ。僕は今から君に大事な話をしなくちゃいけない」
その時の僕はまさに、苦虫を噛み潰したような顔をしていただろう。泡沫の幸せだったが、二度手に入らない物を簡単にゴミ箱に投げ入れることはやはり難しかった。だが終幕の時は近い、僕はもう十分踊りきった。
「んー?私にくれようと思ってた満田を一人で食べちゃったとか?私、満田が大好物なの知ってて」
やっぱりなんでもないと言うことはできたろう。だけど、おどけた口調で冗談を言う千佳を、これ以上騙し続けることに僕はもう耐えられなかった。
「千佳よく聞いてくれ……僕は……僕は……」
拳を握り締める力が強すぎて血が滲む。一瞬時が止まり、この二週間ばかりの記憶が脳内を駆け巡った。
「西男なんかじゃないんだ、ごめん……」
結論を一言だけ言うと、その場にいることが耐えられなくなった僕は自分に出せる最大の速さでその場から逃れようとした。僕は卑怯者だ。そんなこと、はじめからわかっていたはずなのに、涙が止まらなかった。
「違うの!!」
彼女は、逃げ去ろうとする僕の右腕をしっかりと、迷いなく掴んだ。突然の彼女にとっては小さく、僕にとっては大きな抵抗に、思わず僕は一度固まった。だが、いくら普段運動してないとはいえ最も盛りの時期にある成人男性に、一人の女性は何か特別な訓練でも積んでない限り敵う訳がない。必死にその場から離れようとする僕の身体は、いともたやすく千佳の抵抗を弾いたのだった。その拍子に自分の携帯を落としてしまったが、拾う余裕もないまま僕はその場を振り切った。

 追いかけて、この携帯電話を手渡すことは当然できた。だけど、敢えてそれをしなかった。私以上に考えが醜い女はいないだろう。これさえあれば、顔を見ないで直接伝えることができると思ってしまったから。後ろ髪を引く思いはしたくない、その一心で携帯を開いて調べると計算通り、彼の家の電話番号を見つけた。慣れない機械を扱うのは苦手だったけど、単純な音声操作に対応していたからすんなりといった。メールではダメだった、申し訳なさももちろんあったが、それ以上にメールだと他人に読み上げられてしまうから。


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