次の日井川は出かける準備を早々と済ませ、午前中から最近気に入っているカフェに行ったり、ショッピングを楽しんだりした。
いわゆる「おひとりさま」というやつだが彼女はそんなことは全く気にしていなかった。帰り道、スーパーで夕飯の買い物をして家に帰った。
両手に荷物を下げて坂道を歩いていると夕日が眩しく輝いていた。
井川と同じように買い物をして帰る、主婦の姿や母親と手をつないで歩く子供、仕事帰りのサラリーマンが夕日に照らされていた。
そんなに急ではない坂で、この風景が彼女は好きだった。
その坂道をゆっくり歩いていると自宅に着いたのは五時半を過ぎていた。
夕飯を済ませ、テレビを見たり今日買った服を合わせたりしてくつろぐ。
こんな日はいつ振りだろうか。最近はずっと仕事が続いていたせいもあり、今日はとても長く感じられた。少しして彼女はビールを持っていつものようにベランダへ出た。
いつもならしばらくすると隣から蒼井の声がするのだが今日は彼はいない。
彼女は手すりに寄りかかって風に吹かれていた。四月にしては冷たい風だった。
風は少しずつ彼女の身体を冷やしていった。もう部屋に戻ろうかと思いドアに手をかけた。
ふと、隣の部屋を見ると電気がついている。
蒼井が帰ってきたんだろうか。
彼女はドアから手を離し隣の部屋へ少し近づいた。話している声が聞こえる。
蒼井の声と、もう一人男の人の声。少しの間耳を澄ませて聞いているとだんだん話声が大きくなってきた。知らぬ男が何か叫び、大きくて鈍い音がした。
彼女は驚いて壁にぴったりと張り付いた。知らない男が声を荒げている。
一方的に話しているようで、蒼井の声は聞こえない。
彼女は動揺しつつも男が出て行くのを待っていた。
しばらくして声が聞こえなくなり、雑にドアを閉める音が聞こえた。
彼女は少し時間を置いて、驚いた気持ちのまま急いで隣の部屋に行った。
「蒼井くん、大丈夫?何かあった?」
出来るだけ落ち着いた声で彼女はドア越しに言った。
返事はない。
彼に何があったのだろう、あの男は誰だ。さっきの音は彼が怪我をした為か。
もやもやと湧き上がる嫌な予感は、少し疲れたような顔をした蒼井を見ると幾分か和らいだ。
「井川さん、どうしたんですか。」
彼女は言葉に詰まってしまった。彼の右の頬には赤く痕が残っていた。
「ど、どうしたのって、音がしたから気になったのよ。ベランダにいたら声が聞こえて。」
「聞こえていましたか、すみません。心配させてしまって。玄関じゃ寒いですよね。どうぞ。」
彼の部屋に上がるのは初めてだった。もちろん彼女も彼を部屋に上げたことはないが、夜ベランダでしか話さない仲だ。どうぞ、と言われるのも意外だった。
初めて見る彼の部屋は家具が少なくシンプルな部屋だったが、本棚には本がたくさん並んでいた。そして写真が色んな形で飾られていた。彼女はソファに腰掛けながらそれらを眺めていた。彼が出してくれた紅茶には手を付けず、彼の頬を見ようとした。
「蒼井くん、これどうしたの。」
彼女は彼の頬と同じ部分を指して言った。
彼はすぐに答えなかった。湿布を貼ろうと顔に合わせ半分に切っている。
「さっきもう一人男の人がいたでしょ、その人?」
彼女は湿布を取り、頬に貼ってあげた。彼はうつむいている。
「分かってしますよね。はい、あいつ高校の同級生で。昔の話をしてたら冗談で殴られちゃって。」作り笑顔が痛々しかった。あからさまに明るく振舞おうとしている。
「冗談ってったって、随分と痛そうじゃない。」
「大丈夫です、冷やしておけば。」
そう言ってキッチンへ保冷剤を取りに行った。彼女はもう詮索するのはやめようと思った。だが自分より年下だ、頼って話して欲しいとも思っていた。
「この部屋は写真が多いわね。蒼井くんが撮ったもの?」
話題を変えようと写真の事を彼に振ってみた。
「いえ、それは僕の妻が撮ったものです。」
彼女はすぐに言葉を返さなかった。
「妻?え?蒼井くんって結婚してたの?」
思わず大きな声で聞き返す。
「えぇ、まぁ。」
「嘘、全然知らなかった。指輪してたっけ?」
嘘、ではないだろうということは彼女も自覚していたが信じられない。自分より年下で、付き合うはおろか結婚していたなんて。
「はは、言ってなかったですもんね。指輪はいつもしてますよ。ただ井川さんと話す時はいつも風呂上がりなんで、外してましたね。」
「でも奥さんの姿なんて全然見たことないんだけど、どうして?」
そうだ、彼の部屋に奥さんらしき人が出入りしているのなんて見たことが無い。
だから彼女は彼の事を独身で彼女もいないものだと思っていた。
「昔の話になりますが、妻は僕と結婚して三年後に失踪しました。彼女は写真家だったんです。その仕事先で突然行方が分からなくなりました。」
失踪、という言葉が彼女の頭の中をぐるぐるまわる。失踪とはどういうことだ。
今まででこんなに言葉の意味をすぐに考えることができなかったのは初めてかもしれない。
「え、失踪って今も?」
「はい。そのときは結構テレビや新聞で報道もされて手を尽くされたんですけど、結局手がかりもつかめないまま捜査は打ち切られました。今も妻がどこで何をしているのか分かりません。」
彼の奥さんは写真家で、結婚の三年後に失踪して今も行方不明。
彼女はすぐに状況を飲み込めなかった。しかし、彼はずっと待っているということか、妻が帰ってくるのを。結婚して三年後と言っていたが、まず彼は何歳で結婚したのだろうか。
「蒼井くんは何歳の時に結婚したの?」
「二十歳のときです、彼女は二十六歳でした。」
彼女はぎょっとした。二十歳、あまりにも若い、まだ学生ではないのか。
そしてその三年後、彼は二十三歳。今井川は三十一歳でその二つ下だと、現在彼は二十九歳。
七年間。
彼は妻が戻ってくるのを七年も待っているのか。
「そう、若いうちに結婚したのね。」
なんて言ったらいいのか分からず、彼女はまた言葉に詰まった。
彼女がいなく一人暮らしをしている普通の青年だと思っていた。
こんな過去を持っていたとは。彼女は写真を見ようと立ち上がった。様々な写真があった。たくさんの花、古い鉄道、路地裏の猫、明け方の空。遺された写真はどれも綺麗だった。ただ、ひとつ他のとは違う写真があった。
パネルになってひとつの家具のように置かれている、雷雲の写真。
大きな黒い雲が空全体を覆い、稲妻が何本も走っている。迫力のある写真だ。しばらくその写真を眺めていると、蒼井が声をかけた。
「井川さん、僕風呂入るので、あの、お好きなだけ写真見ていって下さい。で、飽きたらいつでも帰ってもらって大丈夫です。すみませんでした、今日は。話聞いてもらってしまって。」
「あ、いいの。勝手に私が色々聞いちゃったから、ごめんね。そろそろ帰るわ。じゃあおやすみなさい。」なんだかお互い謝っていた。その後すぐに部屋に帰った彼女は風呂に入り、電気を消してベッドに入った。布団を被っても蒼井のことを考えていると中々寝つけなかった。もし、自分だったら七年間も恋人を待っていられるだろうか。
彼の奥さんは今、生きているんだろうか。だとしたらどこで、どうやって。
彼のもとへ帰ってくる気はないんだろうか。疑問は尽きなかったが頭は疲れていた。
眠りたい。彼女は布団を深く被り、頭と身体を休めることに集中した。
目を閉じると意識は少しずつ薄れていった。


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