今日も星が綺麗だった。暗い空に光るたくさんの星はそれぞれみんな明るさが違う。
場所も違い、大きさも、年も違う。彼女はビールを片手に空を見ていた。
今日は一日が長く感じられた。昨日の今日ということもあるだろうが仕事の量が多かった。昨日のようなゆっくりした日の次の日ということもあるかもしれない。
深く息を吐いて、珍しく彼女はほとんど置物と化していた木製の椅子に座った。
だが、実際には彼を待っていた。
彼がベランダに出てきて、彼女に声をかけるのを待っていた。
しかし彼は、ベランダに来なかった。
五〇〇mlのビールが無くなったころ彼女は部屋に戻ろうとした。
椅子を引いて立ち上がった時、うっかりサボテンの棘に触ってしまった。
右手の中指の腹に血が滲んできた。彼女は指をくわえながら部屋に戻った。
しばらくすると血は、赤い小さなかたまりになって固まった。
今日夢を見た。彼女が一昨日蒼井の部屋に行ったときに見た、雷雲の夢だった。夢の中であの雲は強く激しく雨を降らせ、空中に稲妻を走らせていた。
空は真っ暗で轟音が鳴り響いていた。暗くて、怖くて、寂しい。
しかし、恐怖や怒りとは違っていた、ような気がする。
別の何かから守ろうとしているようだった。そんな雲だった。
少し彼のことを考えすぎかもしれない。会社のデスクに座りながら彼女は見た夢のことを考えていた。
仕事は毎日同じようなもので、繰り返される毎日も同じ日々。また帰り道にコンビニに寄るのものも同じこと。
「五四〇円になりまーす。」
「はい、ちょうど。あ、レシート要りません。」
「ありがとうございましたー。」
缶ビール二本と適当にお菓子を買って家に帰る。
このコンビニは自宅から近くて便利だ。少し歩くと自分のマンションが見えて、部屋も見える。もちろん自分の部屋の電気は付いていないが、隣の部屋の電気は付いていた。
彼女は少しだけ歩調を早めた。
さすがに、仕事で使っているたくさん書類やらノートやらが入ったバッグとレジ袋を一緒にもつと腕が痛い。彼女は重かった荷物を置いてソファに飛び込んだ。
今日も疲れた。できればこのまま眠ってしまいたい。
彼女はむくりと起き上がり、服を着替えて化粧を落とす。
歩調を早めたのは蒼井の部屋の電気が付いていたから、というのは自宅に着いた時にはもう忘れていた。自分の身体を休める方が優先である。
さっき買ってきたビールとお菓子をもって再びソファに座って、テレビを付ける。
十二時を過ぎているせいか気になる番組もやっていない。
いくつかのチャンネルを回したあと、彼女はベランダに出てみた。ビールを持って。
外は風が弱かった。
「井川さん?」
蒼井の声がした。彼もベランダに出ていた。
「あぁ、蒼井くん」
と言ったところで何を言ったらいいのか分からなくなってしまった。
「昨日は来なかったわね」なんて言えるわけもないし、
だからと言って「こんばんは」というのはなんだか急に距離を置いているようだ。
「頬の怪我どう?」というのもこの前の話を掘り返すような感じがした。
「今日は風がなくて、いい天気だったわね」
風のことなんてどうでもいい。今気がついたばかりなのだが彼女はこう言った。
「そうですね。こうやって夜に話をするときもあまり身体が冷えなくていいですね。この前は色々迷惑かけちゃってすいませんでした。」
彼からこの前の話を持ち出すとは。
「いえいえ、大丈夫よ。頬の腫れはひいたみたいね。」
「あ、はい。もう大丈夫です。」
自分の頬に手を当てる彼の手には指輪がはめられていた。
「蒼井くんはロマンチストね。七年も恋人のことを待っているなんて。」
「え?」
蒼井は少し驚いた顔をしてこっちも見ていた。
「あ、ごめんなさい。」
「どうして謝るんですか?」
「他人のことなのに、なんかこう、勝手にわかったように言っちゃって。気にしないで。」
「謝らないで下さい。井川さんなにも悪いこと言ってませんよ?」
蒼井はくすっと笑いながら返した。
そうだ、私が話題に出せることじゃないと彼女は思った。
彼はのほほんとしているように見えるが、昔色々あったようだし、伊達に年を重ねてないということだろうか。缶に口を付けたとき、彼がふふっと小さく笑った。
「え?どうしたの?」
彼女が聞くと
「ロマンチストって言われたのは初めてです。」
と彼が言った。違ったのだろうか。
消えてしまった人をそんな風に長い間想うなんて、彼女は想像できなかった。
その指輪をまだしているのは、彼がまだ奥さんのことを愛しているからではないのか。
七年も帰ってくるかわからない人を待ち続けている。
そういう人のことをロマンチストとは呼ばないのだろうか。
「この前、蒼井くんの部屋に行ったときに雷雲の写真を見たの。あれはまだあるの?」
「え、えぇありますけど、どうしたんですか?」
「いや、今日夢にあの写真が出てきてね。少し気になったの。」
「そうですか、あれも妻が撮ったもので、間近に迫った嵐の写真だそうです。今自分のいる場所は晴れているけど、すぐにあの嵐はきっとここへ来るんだろうと、そう思って撮ったそうです。」
「なにか記念の写真とか作品展に出したものなの?」
「いいえ?出張の仕事先で偶然遭遇した嵐を撮ったと言っていましたが。」
「あぁ、そうなの。あの写真だけをパネルにして飾っていたから。」
「そうですね、よく説明できないんですが、この写真だけは妻の写真の中にある何かが違っているような気がして。普段の生活の中でも彼女は魅かれたものによくカメラを向けていましたが、これだけは彼女の中から生まれた感情、というかそんなような気がして。」
はめられた指輪、拡大して家具のようになって置かれている妻の遺作。
忘れられない、というよりも忘れないようにしている気がした。
「あの写真を見ていると、いつも考えるんです。妻が何を思ってあの空を撮ったのかと。」
彼はおっとりしているように見えるが、二十九歳の男で結婚もしていた。彼女は今まで彼の見た目に騙されていたのだろうか、と少し不安になった。彼に結婚していたことを告白されてからだが、彼の奥さんの存在をすごく感じている。
「あ、ごめんなさい。たくさんしゃべってしまって。」
「いや、いいの。蒼井くんが自分のことを話してくれて嬉しいの。もう一つ聞いてもいい?」
「はい、なんですか?」
「蒼井くんの奥さんはどんな人なの?蒼井くんが二十歳の若さで結婚した人はどんな人だったんだろうって。ただそれだけなんだけど。」
「妻は、六歳年上の蛍さんという人で、旧姓は辻本でした。辻本蛍。出会ったときから彼女は写真家として働いていましたが僕はそのときまだ学生でした。」
「学生かぁ、周囲の人から心配されたりしなかったの?」
「もちろんされましたよ。」
彼は、ははっと笑いながら答えた。
「この前来ていた友人もその一人です。あいつは同級生だと言いましたがあいつの兄が蛍さんと学生時代の友人だったそうです。単純に言えば僕よりも付き合いが長かった。だから密かに心配されていました。それで僕は一度、その兄に呼び出されたことがありました。」
「どうして?」
「彼女は同じ人間と長く、ましてや結婚をして誰かと永遠に一緒にいられるような子じゃないと言われました。そのとき僕は言っている意味が分かりませんでした。僕たちは仲が良かったですし、何故僕たちが決めたことに口を出すんだろうと思いました。」
どういうことなのだろう。心配の種は彼の若さではないのか。
「しかし、結婚して彼女が失踪してからなんとなく理由がわかったような気がしました。」
「どういうこと?」
やはり彼の若さではなく、彼の奥さん自身に問題があったということだろうか。
「結婚してからすぐ彼女は仕事が忙しくなり出張で家を空ける日が続いて、ある日、仕事先で失踪したという知らせが入りました。知らせを聞いたとき、僕は自分のせいだろうと思いました。今思えば僕らの仲はすでに終わりかけていたんではないかと思います。それを結婚という枠で縛って、彼女を苦しめていたんではないかと自分を責めました。あぁ、同じ人と長くいることが出来ないというのはこのことなのかと。」
「そんなことないんじゃな」
そう彼女が言いかけたとき、蒼井はまた話を続けた。
「正直な話、失踪する前から何度か離婚してくれと言われていました。僕は、同意しませんでした。そのまま彼女はもう戻ってこなかったんです。七年あれば、生きているか死んでいるかなんて明確です。僕は時々考えます、彼女は死で持って僕を拒んだんだろうかと。」
そうか、生死に関わらず彼女が彼の元へ戻ってくることはないということなのか。
二重の意味で奥さんは亡くなっている。
「私はそうは思わないわ。ただ、蒼井くんの奥さんの心の中には病気があった。病気は言いすぎたかも。でも蒼井くんの知らない何かがあったのね。それを愛で治すことは出来なかった。こんなこと私に言われたくないかもしれないけど、蒼井くんは彼女を支えられなかったことを悔いている。その悔やみが奥さんを忘れないようにしているんじゃないの?」
彼ははっとこちらを見て、また外の方へ顔を向けた。
「そう、かもしれません。」
蒼井の顔を見たとき、彼女は自分は言ったことを後悔した。
こんなことは言われなくても彼自身が一番分かっていることかもしれない。
私のような部外者が口を出していいことではなかったと、彼女は思った。
「でも僕は七年経った今でも、彼女の籍を抜くつもりはありません。今までもこの先も彼女と僕の名前を残せるのは戸籍しかないからです。」
「そっか、そうよね。」
彼女は、自分や他の人が入る事の出来ない過去が今の彼を作っているんだろうな、と思った。少し時間を置いてから彼女は言った。
「蒼井くんが自分のこと話してくれて嬉しいわ。いつも仕事から帰ってくる私のことばかり聞いてもらっていたから。」
「そうですか?僕もちょくちょく話してましたよ?まさか井川さんいつも僕の話し聞いてくれてなかったんですか?」
彼が笑いながら言った。
「そんなことないわよ、聞いてたわよ。」
彼女は笑いながら彼の肩を軽く叩いた。
「それじゃあもう寝ましょうか。」
「そうね、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい。あ、きっとそのビールもう炭酸が抜けて美味しくないですよ。」
「え?あ、あぁっ」
彼は、あははと笑って部屋に戻っていった。
彼女も気の抜けたビールを持って部屋に戻った。
つけっぱなしだったテレビはもうニュース番組に変わっていた。
彼女はソファに座りながら食べかけのお菓子を口に入れた。彼は、妻を支えきれなかったことをずっと悔いてきた。いや、悔いていた。
きっと彼は奥さんを忘れることはできないだろう、と彼女は思った。
一人でソファに座りながらさっきの会話を思い出して、彼女は泣いていた。
これはなんの涙なのだろうか。帰るはずのない恋人を待って七年。
その七年はあまりに重い。
彼は、この先も戸籍を抜くつもりはないと言った。
彼女との名前を残せるのは戸籍しかないと。
あの嵐の写真を見たとき、彼女はなんだか怖いものを見たような気がした。
だからこそ夢にも出てきたのかもしれない。そしてあの写真を、彼は奥さん本人だと言った。そんな写真をずっと飾っているのは罪悪感からなのだろうか。
七年も経っているのにいい思い出じゃなくあんな不安そうな写真をわざわざパネルにして置くだろうか。彼の部屋にはあの他にたくさんの写真があった。
その夥しい記憶の欠片選ぼうと思えばいくらでも優しいものを選べたはずだ。
不安な空だけいつでも見えるように部屋に飾ったのは罪悪感の表れだ。
忘れないための抵抗だ。
自分が救えなかった妻の輪郭をいつまでも鮮明に留めておくために。
あまりにも辛い彼を思っての涙なのか、彼女はわからなかった。
しばらくしてから顔を洗って、彼女はテレビを消してベッドに入った。
もう金曜日から土曜日に変わっていた。
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