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あらかじめ、ちゃんと言っておきたい。
新しく研究室に入ってきた美少女、池澤 楓くんに対して、変な感情を抱いている訳ではない。
いや、一般に恋愛感情というものは決して変ではないのだが。
ただ、私ももう歳なのだ。
いろいろともう無理なのである。
どうか察して欲しい。

とはいえ、私の中で楓くんに対して何らかの特別な感情があるという事については否定できない。
何だろう、この気持ち…。
これが、恋!?

…ともかく。
そんな訳はない、とは思う。
私ももう70手前の男である。
しかし、恋愛に歳は関係ないという意見もある。
それはそれで正しいのかもしれない。
全くもって、恋愛というものは難解である。
私が教えている化学よりずっと難しいんじゃないだろうか。
人の心である。
当然の事だろう。

“特別な感情”とは言ったが、実際は大したものではない。
彼女を見ると、少し嬉しくなるというか、ウキウキするというか、そんな気持ちになるのである。
具体的には表現できない。
仮にこれが恋愛感情であるとすれば、私は昔これと同じ感情を経験したことになる。

「そんなことあったかなぁ…」
「…?どうかしました?」
「あぁいや、なんでもない。ごめんよ」

つい口に出てしまった。
私の癖の1つである。
早く直さなければ。
この癖も、これまでは別に良かったのだ。
私の部屋―もちろん学校だが―には誰もいなかったから。
一般的に、生徒は先生と同じ部屋には居たくないものである。
緊張してしまうし、寝たり騒いだりも出来ないから。
人によっては臭いもある。
ヘビースモーカーである、高分子化学の江崎先生の部屋なんて入ることさえ躊躇われる。
校内禁煙なんてなんのその。
生徒達も一緒に煙草を吸っているという話もある。
毎日轟音を響かせながら、大型バイクで学校に来ている彼の事だ。無理もない。
だから、出来れば彼とはあまり関わりたくない。
実際には、嫌というほど関わりがあるのだが…。
それはまた別の話だ。
ともかく、私の場合、煙草は吸わないが加齢臭はあるかもしれない。
臭いとは自分では案外分かりにくいものである。
いずれにせよ、部屋に入りたくないと思われている可能性はある。


しかし楓くんは、自ら私と同室が良いと言ってきたのである。

「そっちの方が効率的ですし、質問もすぐに出来ますからね。あ!先生が良ければです」

そう言って、彼女はにこっと笑顔をこちらに向けた。

おいおい。
おいおいおいおい。
誰が断るんだ、そんなもん。
むしろ、ありがとうございます!

そんな訳で学校のある日は、彼女はいつも私の部屋にいるのだ。
なんかこっちが緊張してしまう気持ちである。
先程の臭いも気になったので、毎日彼女より早く来てシュシュッと消臭している。
そして彼女が来たらコーヒーを飲むかどうか聞いて、飲みたいのであれば淹れてあげるのである。
実はコーヒーにはこだわりがある。
説明すると論文数編分にも及ぶ可能性があるので、ここは自重する。

それにしても、部屋に女の子が1人いるだけでも部屋の華やかさがぐんと上がるものだと実感する。
しかもその1人は、綺麗な女性である。
うなぎのぼり。
まさにそんな感じだ。
うんうん、とても良い事だ。
顔も綻ぶ。

「変な気、起こさないで下さいよ」

3階化学実験室前の廊下で、関准教授が小さい声でそう言った。
当然だ、そんな気はない(つもりだ)。

「ホントですかね?私には、先生が初恋をしている中学生の様に見えますよ?」

そんなに綻んでいただろうか?
それにしても、70手前の爺さんに中学生って…。
本当によくそんな事言うねぇ…。

「良いじゃないですか、若く見られてるんですから。でも、変な気を起こされるのは困ります。そんな事が起こればこの研究室がどうなるか…。常々肝に銘じておいて下さいよ。まぁ、彼女から先生にっていうのは万が一にも無いでしょうから、大丈夫だとは思いますが。それでは失礼します」

軽く頭を下げたか下げなかったかよく分からない程度に会釈をして、スタスタと去って行った。
これが彼の常である。
まぁ、評判通り性格はあまり良くないかもしれない。
でも、根は真面目なのだと思う
………きっと。

いずれにしても、もし客観的に見て心が顔に表れているのだとすれば、それは良くない。
そう思って、眉間にしわを寄せ、常に緊張したような面持ちでいるように心掛けた。
数時間後に顔の筋肉疲労がピークに達し、頬をつってしまうという珍しい経験をした。
それ以来、表情を変えるのは止めてしまった。
自然が一番、である。

ちなみに表情を変えている間、関先生は常にニヤニヤしていた。

やっぱ性格悪いよ、君は。



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