3-2
私達の車は軽快に夏のアスファルトを走っていく。
車内には雰囲気の良い、明るい音楽が流されている。
この歌を歌っているのは誰だろうか?
機械音に近い、女性の声だ。
独特、ではあるが結構私が好きな感じである。
後で何の曲か聞いてみる事にしよう。

「今回の旅行、私すっごく楽しみにしてるんです」

私を隣から覗き込むようにして、楓くんはそう言った。

「うん、私もとても楽しみだよ。楽しみ過ぎて、昨夜はあまり眠れなかったくらいなんだ」
「おんなじです!私、昔からずっとそうなんですよ。楽しみな事があると、これもしよう、あれもしよう、ってなって、気が付いたら夜が明けそうになっていたりして。だから、移動中のバスではいつも寝てしまうんです。」
「はは、じゃあ今は大丈夫なのかな?眠いなら寝た方が良いと思うよ?」
「はい!でも、私ったら何故か今、目が冴えてるんです。なんででしょうね…?」
「楓くんも、大人の女性になったって事じゃないかな?」
「ふふっ、そうだと良いんですけどね!」

その時、ずっと林道を走っていた車の前方にある景色が見えた。

「「 あ! 」」

二人の声がシンクロした。

海である。
透き通った青が、我々の目の前に広がっている。

そう、夏といえば、海。
こう考える人は私だけではないはずだ。
そして、この旅行の最初の目的地でもある。
海って、良いよね…。
え、何がって?
いや、そりゃあまぁ……うん。
所謂、男のロマンである。
老いても、譲れないものはある。
非常に期待している。

海が見えた事によって車内のテンションが急激に上昇した。
その勢いで前の座席の男子生徒が窓を全開にして叫び始める。
潮の香りだ…と思った瞬間。
窓を開けた事によって、入ってきた風は後部座席の私の顔面に直撃する。
髪の毛が激しく舞い上がる。
それを見て、隣では楓くんが口を押さえて笑っている。
まぁ、面白いのであれば何よりである。

窓が開いたまま、車は海岸沿いの道をひた走り、目的の砂浜に辿り着いた。
私は髪を櫛で元に戻しながら、周りを見回した。
砂浜には既に大勢の人が集まっていた。
家族連れや彼氏彼女、我々のような大学生―私は別だが―の集まり等、様々である。
ちなみに私と同じ世代はあんまり居ないようだ。
ちょっと寂しい。

男子生徒総出で荷物を持ち、砂浜の中で比較的空いている場所を見つけ、そこにシートを広げた。
そしてそこに1本、パラソルを立てた。
我々の拠点が出来上がった。
生徒達は皆、必要な荷物を持って更衣室へと移動した。
私はここでその他の荷物番である。
流石にこの歳で泳ぐのは辛い。
というか、もともと泳ぐのは苦手である。
クロールで息継ぎする際に何故か1回転してしまう癖は最後まで克服できなかった。
不器用に器用なのである。

ともかく、私は泳がない。
しかし、生徒達は違う。
大学生というまだまだ若い世代である。
もちろん海に来たからには泳ぐ事だろう。
それがどういう意味か、敢えて述べる必要もないだろう。
想いは膨らむ。
まるであの子供が持っている浮き輪のように。
期待は膨らむ。
まるであの地平線に浮かぶ入道雲のように。

それにしても時間がかかり過ぎているような気がする。
男子生徒はもうすでに海に飛び込んで遊んでいる。
まぁ、女の子だし。
気のせいだろうと思った。

その瞬間。

背筋にゾクっと冷たいものを感じた。
私は吃驚して立ち上がった。

そこには2本のキンキンに冷えたラムネを持った、楓くんがいた。

タンクトップに短パンである。

…………………。

えええええええええええええええええええええ!

なんで!?
どうして!?
信じられない!!

それはそれで可愛いけど!!

「荷物番、お疲れ様です。すみません、そんなに驚かれるとは思わなくて。そんなに冷たかったですか?」
「いや、確かに驚いたよ…」

別の意味で。

「何かおっしゃいました?」
「あーいやいや、何でもないよ!…それより楓くんは泳がなくて良いのかな?」

彼女はちょっと申し訳なさそうな顔をして、

「私、泳げないんです。カナヅチで…。そしたら、他の女の子達も今年は泳ぐの止めとこうって…」

海の家の方を見ると、その子達が焼きとうもろこしやら焼きそばを持ってやってくるのが見えた。
何でもここの海の家は、焼きイカが有名らしい。
後で食べてみたいものだ。

「そうか…。それなら良いんだ!泳ぐだけが海じゃないさ。それに、実はね、私も泳げないんだ」

仲間だねと言うと、彼女はこくんと小さく頷いて私の隣に座った。

「先生、これ良かったら。まだ冷たいですよ」
「ありがとう、頂くよ。それに冷たさはさっき背中で体感済みだ」
「ふふっ、すみません」

少し残念だが、仕方ない。
というか。
教職者がこんな事言っているなんて気持ち悪いと感じる人もいるかもしれない。
しかし、私だって年老いても男なのだ。
許して欲しい。

残念は残念だが、こういうのも良いかもしれない。
目の前に広がる大海原を見ながら、冷たいラムネを飲む。
可愛らしい女の子を隣にして。
なんとも贅沢な時間である。

「あーぁ、私も泳げたら良いのになぁ…」

体育座りをしながら、頬杖をついている。

「練習すれば泳げるようになるさ。諦めない限りね。もちろん、この世にはどうしたって出来ない事が一杯あるけど、泳ぐ事に関してはきっと出来るようになると思うよ。信じてくれていい」

私が諦めたのは内緒。

「そうですか?…よーし、一生懸命練習して何とか来年の旅行までには泳げるようにしますね!その時は是非見てくださいね。…………あ」
「気にしなくて良いよ。私ももう歳だからね、潮時だよ。まぁ、楓くんの泳ぎが見られないのはちょっと、いやとても残念だけどね」

そんな事を言って笑ってみせる。

そう、実は私が教授としていられるのも今年度で最後である。
私は来年の春で、退官する事になっている。
何度も言うが、私ももうすぐ70歳になる。
気はまだまだ若くても、肉体的に限界は近い。
そんな訳で、この旅行が私にとって最後の研究室での旅行となるのである。
私がいなくなっても、この旅行は自然と引き継がれていく事だろう。
来年は私の代わりに誰かがいるのかもしれないし、いないかもしれない。
ただ、私がいない事だけは確実である。

「楓くんは来年院生だから、企画する側だね。今年、先輩がどんなことしているか参考にすると良いよ」
「はい…」

ちょっと寂しそうに俯いている。
私としては嬉しいけれど、そんな気にすることないのに。
老兵は死なず、ただ消え去るのみ。
誰かの思い出の中に少しでもいられたら、それで十分なのだ。

「来年は泳げるように頑張ってね。大丈夫、きっと出来るさ」
「…はい!頑張ります!」

もちろん、泳ぐ事だけが大切な訳じゃない。
何かを諦めずに努力する事が大切なのだと思う。
そんな事を、私は生徒達に教える事が出来ただろうか。
化学とは別の、大切な事を伝える事は出来ただろうか。
絶え間なく繰り返される波の音を聞きながら、そんな事を考えていた。



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