二、地に落つる蜩

 じじじじじじ。
 何かの拍子にスイッチが入ったかのように、一匹の熊蝉が鳴きだした。それにあわせ、一斉にスイッチが入る。
 学校の中庭にぽつんと置かれたプレハブ。そこが写真部の部室。尤も以前は別の部のものだったらしく、その部が廃部になったのを機にかつての先輩が奪取したらしい。まあ、その先輩が卒業してから、二年間休部だったのだけれど。今年、俺らが入らなければ写真部すらも廃部の可能性があった。
「まだマシだけどさ、昼前になる前に出ようぜ」
 と俺は、目の前で写真を眺めているこのはに言った。この部室は直射日光を遮るものがない為、あっという間に蒸し風呂になってしまうからだ。
「うん……」
 と、どこか浮かない声で応えるこのは。うーむ、こいつのテンションが低いと俺まで調子が狂う。手持ち無沙汰から俺はパイプ椅子に背を預け、部室内を眺めた。古ぼけ金文字が剥げたトロフィーが二、三本。いずれも写真部のものじゃない。ひとつは文芸部のものだろうか。他は文字が読めないので判然としない。傾いた本棚には、時代遅れの文庫本がぎっしり詰め込まれている。部屋の隅には、金属製のラックに何やら機械類が埃に塗れ並んでいる。いずれも捨てても構わないのだが、如何せん、写真部の取るスペースというものはあまり広くない。機材と額縁くらいのものだ。だから別に処分しなくとも困らない。何よりこのはが「捨てちゃったらもう戻らないんだよ?」と俺の顔を覗き込んで言うものだから、だったら放って置いても問題ないか、という結論に至ってしまう。俺、副部長だし。
 このはは、真剣な眼で自分の撮った写真を見つめていた。そして、物鬱そうに、眼を閉じてうな垂れた。どうしたんだろう、さっきもそうだったが、体調が優れないのだろうか? 小柄すぎるこのはは、今までもよく具合を悪くしていた。それでも風邪も引かないこのバカにあわせようとするものだから、無理をしてしまう。こういう時は、俺が言ってやらないと。
「大丈夫か、このは? 辛そうだけど」
「ん……? 大丈夫、だよ。心配しないで」
 そうは言っても、一瞬俺を見たこのはの眼は、どこか虚ろに見えた。
「ならいいけどよ、無理すんなよ。あ、その写真、見終わったなら見せてくれ」
 写真を受け取った後、先に帰れ、と言うつもりだった。

 このはは、
 ぼんやりとした視線のまま、
 俺に写真の束を渡そうと、
 ゆっくり腕を上げようとして、
 椅子ごと、床に倒れた。
 それは、余りにも突然で。
 蝉時雨も遠く聞こえ。
 ただただ、椅子の倒れる音だけが、
 やけに、みだりにむやみにしきりに、
 やたら、大きく、けたたましく聞こえ。
 俺は何が起こったか、飲み込めなくて。

「この、は?」

 俺は何も理解できずに、
 遅く浅い呼吸をするだけのこのはに、
 寄りすがり、揺すりたて。
 反応のないことに、
 言葉を失った。



「だから、大げさだって」
 と、このはは、くすくす笑った。
「いやだって! 目の前で人が倒れたらパニクるだろ! そりゃお前が体調崩しやすいのは知ってたけどよ、さすがに倒れたことはなかったじゃないか」
 日嗣総合病院、内科病棟。白く清潔な内装に、薬品の臭いが漂う病室。ベッドに入ったまま、このはは身体を起こしていた。脇の机には、俺の買ってきた五個入りの青リンゴの袋がある。
「一昨日の昨日で、ちょっと疲れてたのかな。あ、青リンゴありがとね。青リンゴが好き、って覚えてくれてたんだね」
「そりゃ構わないんだが、……大丈夫なのか?」
 今のこのはの顔を思うと、昨日倒れた時の顔は、少しやつれていたような気がする。
 あれから俺は慌てて救急車を呼び、病院まで付き添った。夏休み中とはいえ、校内に救急車が入ってきたものだから若干の騒ぎになった。それからこのはは検査にかけられたりし、それらがようやく終わって面会できたのは、翌日の昼、つまり現在に至る。
「でもみっちゃん、病院で一晩を明かしてわたしを待ってたって聞いたよ? 身体、大丈夫? それにおうちの人とか、心配してないの?」
 はん、と俺は鼻で笑ってみせる。
「俺はこのはと違って、ネジが数本飛んでるからな。親父は『殺しても死にゃあしない』って言ってるよ。母さんもお前のことを言ったら『女の子を置いて帰ってくんな』って言うしよ。俺の心配より、自分の心配をしてくれよ。――それで、どうなんだ?」
 先だって、このはの母親が病院に来ていた。それで医者から病状を聞いていたようだったが、このはと少し話して、俺にはお礼しか言ってくれないまま帰ってしまったのだ。
「うん、なんでもないって。疲れじゃないかって聞いたよ。それでいろいろ、病気になりかけてたんだって。だからしばらく、二、三日くらい様子見で入院するんだって」
「……なんだ、よかった」
 俺は肩の荷が下りて、ふぅ、と長く息を吐いた。
「なんだって、何よー?」
「いや、大丈夫そうで安心したよ」
 そう言うと、このははぴくりと肩を揺らし、そっぽを向いてしまった。何か癪に障ったのかな。
「――ありがと」
「え?」
「な、なんでもないよ! あ、ほら、包丁取って! リンゴ剥いたげるから! 一緒に食べよ!」
 さすがに、朴念仁の俺でも分かるぞ、おい。あーぁ、分かりやすすぎるのも問題だよな。俺はまた後頭部を掻きながら、しゃりしゃりとリンゴを剥くこのはを眺めていた。そうすると、「ど、どうしたの?」とか言ってくる。おい、俺がお前を見てるなんて、よくあったことだろうが。……はぁ。
 だけど。
 このはは、どこか悲しそうに、表情を暗くしていた。嬉しそうに喋るけれども、顔は合間合間に曇り、俺の顔を見れずにいた。どこか、心が辛そうで。どこか、逃げてしまいたそうで。
 ――俺に、遠慮、してるのかな。
「はい、どーぞ!」
「ん、ああ」
 このはの剥いてくれたリンゴを一切れ、しゃりとかじる。みずみずしいが、俺にはあまり味は感じられなかった。
「ごめんね、文化祭までもう日がないのに……入院なんかしちゃって」
 ――やっぱり。
「気にするなぃ。ちょっとは撮ってあるから、後は選ぶだけじゃないか」
「でも、編集したり、額縁とか、まだできてないし……。それに、わたし、まだ自分の写真を出したくなくて」
「なんで?」
「……満足、できないんだ。もっと、なんて言ったらいいのかな。わたしの本当に撮りたいものは、この辺りにはいないんだ」
 ああ、そういうことか。アレが撮りたかったのか。それならそうと、言ってくれればよかったのに。前々からこのはが好きなんだと言っていた、闇夜に舞う燐光の虫。
「ホタル、だよな」
「――うん。撮れる場所はわりと近場にあるんだけど、泊り込みになるし……。それに、ちょっと前から具合悪かったから、様子見してたんだ」
「俺が撮ってきちゃ、ダメかな」
「……え?」
 やっと、このはは俺の顔を見た。
「場所とか、教えてくれよ。俺が撮ってきてやるから。どうせ下調べは出来てるんだろ? 泊まる場所と、撮り方。な、いいだろ?」
「でも……」
「どうしても、このはが自分で撮りたいっていうなら、やめるけどさ」
「ち、違うよ! そんなんじゃなくて……」
「じゃあなんだ?」
「……みっちゃん、ホントに、いいの?」
 待ってましたと言いたくなった。にぃっ、と俺は得意げに笑って見せ、がたりと椅子を倒して立ち上がる。
「どーんと俺に、任せとけ!!」



「任されない方が、よかったかも」
 三時間に一本しかバスの訪れない僻地に、俺は来ていた。右を見ても左を見ても、全てが緑一色だ。車道まで森が迫っていて、今にも俺が飲み込まれそうだ。おまけにこの日差し。十五時過ぎで傾き始めているとはいえ、日照りのような陽射しは情け容赦ない。バスを降りてそんなことを考えているとまもなく、ブロロロ……と、黒煙を上げながらオンボロバスが去っていく。ああ、もう後戻りできないのだ。……後悔ばかりしていても仕方ない。今日中に《蛍森ノ里》にたどり着いて、予約した宿でさっさと横になりたい気持ちである。
 改めて辺りを眺めてみると、ここはどうやら稲作で生きる村らしい。ホタルは綺麗な水に棲む虫だしな。
 はるか向こうに山の裾が見える。田畑が途切れて深緑の雑木林になっているようだ。
 しかし、何が絶望に値するかって、この田畑に覆われただだっ広い村は、目的地の《最寄の村》だってことだ。そう、ここからまだ歩くのだ。もうちょっと荷物を自重した方がよかったかもしれない。
 考えたって埒が明かない。ため息ひとつ、俺は大きなリュックを揺らして、歩き始めた。リュックの中には着替えや撮影機材、その他諸々が入っている。わりかし重い。その他諸々が問題だったかもしれない。
 空を見上げれば、果てのない天が見える。右手には小さく雲が群れ、左手にはむくむくと膨れ上がった巨大な入道雲が控えている。空高く、雲は雄雄しき。夏らしくて風情あるいい風景だけれど、見慣れてしまってはうんざりするしかない。
 田畑では鍬を持った農家の人がちらほら見える。この暑い中でも作業をしなければならないとは、つくづく俺は農家に生まれなくてよかったと思う。と、あぜ道を歩いていたその人と眼があってしまった。……気まずい。
「――ご苦労様です」
「おぉ、兄ちゃんもこんなとこまでご苦労さん」
 麦藁帽のおじいさんはしわがれた声で言い、にっこり笑いながら手ぬぐいで汗を拭う。人が良さそうでよかった。
「兄ちゃん、こないなとこに何か用かい?」
「ああいえ、僕、高校で写真撮ってまして。それで、《蛍森ノ里》まで行くんです」
「……まさか、《蛍森》のホタルを撮るんじゃないだろうな?」
「ええ、そのつもりですが……?」
 そういうと、急におじいさんの顔が曇った。汗を拭く手が凍りつく。
「そいつは感心しねぇな。まだ野次馬みてぇに見るだけってならいいが、そいつを撮ろうなんて――ここから真っ直ぐ登って釣り橋を渡りゃあ《蛍森》に着くが、やめとけ。見るだけにしろ」
 ぷいと顔を背けて、おじいさんは踵を返して俺から離れて行った。その背に何も言葉を掛けられず、俺はただ立ち尽くすことしかできなかった。
 急に不安になってきたが、今更戻るわけにもいかず山道へ入る。土のむき出しになった筋がふたつ、車がギリギリ通れる幅で続いている。両脇を太い木々に囲まれたお陰で、うだるような陽射しを受けずに済むようになった。木々の間を風が時折通り抜け、そのたびに俺は生き返るような気持ちになる。樹が近いせいか、蝉の声がとても近い。それでも学校のそれほど疎ましくはない。控えめな声だ。それにこの山の草いきれは、あの神社とはまた少し違う匂いだ。腐葉土の匂い。虫や草、しいては森の生き物を養う、生きた森だ。人間に整備された森とは違う、ひとつの生き物の匂いだ。その匂いを胸いっぱいに吸い込むと、俺も森の一部になったような気がして、心なしか幸せになった。
 やがて道は、車の通るほどの幅もなくなってしまった。陽は翳り出し、黄金色に移り変わろうとしている。下草は俺の膝ほどになり、辺りの杉や桧は楓や楢に変わった。遠くからニイニイ蝉の声がする。俺の歩いているこの道、これを作ったのは人間なのか、それとも獣なのか。それすらも判然としない。
 小川に危なげに渡された朽ちかけた丸太を越え、先へ進む。こんなところまでホタルの為に来ようとは、このはも中々肝っ玉が据わっている。そんなことを考えながら無言で突き進んでいると、急に視界が開けた。
 眩む眼が慣れると、向こうの山肌が見え、目の前は崖になっていた。黄金の陽射しが見上げた山の頂上を照らし、残りは全て黒い影になっていた。崖から崖にかけ、長い橋が架けられていた。
 吊り橋だ! このはは吊り橋を渡ればすぐだと言っていた。やった、もう着くんだ! そう思うと、急に気分が高揚してきた。うきうきとした気分で、吊り橋に足を乗せる。
 ぎしっ。
 恐ぇぇぇぇ!
 俺、確か高所恐怖症じゃないよな、と思いながら下を覗く。はるか遠くに山の影になった森が見える。つーか谷、谷底。鬱蒼、樹海、臨死。
 俺はそっと、三歩軽やかなステップで後退した。
「いやいやいやこれ無理だって! ていうか何だよ何でこんな揺れるんだよ! ていうかギシッて何!? ギシッはアウトでしょ!? 向こう岸遠ッ!!」
 眼を細めると、辛うじて対岸が見える。こことは違い、針葉樹が多いように見えるが――辛うじてって表現を俺に使わせるような距離って段階で無理だろ! しかし、ここでのこのこ帰っては病室で待ってくれているこのはへ会わせる顔がない! 漢が廃る! 怖気づいてなるものか!
「うおぉぉぉぉぉらあぁぁぁぁぁ!」
 無理でした。しゃがみ込んで頭を抱える。
 もうダメ。何がダメってあの揺れ。そう、揺れ。あと悲鳴。俺のじゃなくて橋の。もうね、一歩目からギシギシいってる。あとこの橋、ワイヤーに直に生の板を渡してあるだけの上、手すりもワイヤー一本、所々板が腐り落ちてる。それって橋としてどうなの。こちとらね、命賭けてるんだと。落ちたら元も子もないんだって。命あっての物種、死んで花実が咲くものか。ここの谷、一体何百メートルあるんですかってハナシ。何が問題かって俺が渡ろうとするから揺れるんじゃなくて風で揺れてる。あと頼りない。俺より頼りない。こんな頼りなさ過ぎるものにこの俺の雄雄しき魂を賭けよと仰られるのか、山の神よ。そもそもね……
「あのー……君、何ひとりでブツブツ言ってるの?」
「あぁ? ちょっと取り込んでるんで、待っててくれません?」
 あー、ここを渡らないと《蛍森ノ里》には着けないんだよな、あーくそ……。
 ――あれ?
 背中を丸めたまま、首だけで振り返ってみる。
 そこには、上は白いシャツで下はジーンズという、長袖長ズボンの女性が立っていた。手には大きく膨れたビニール袋がある。
「……え?」
「もういいですか?」
「……どこから、俺の独り言聞いてました?」
「どこからって……何だか絶叫しながら橋の前でステップ刻んでる所からいましたけど」
「死なせてください!」
「死んじゃダメです!」
 嗚呼どうしてだろう、先ほどはあれほど恐怖畏怖戦慄していた谷底がオアシスに見える。向き直り、俺は全力で頭を下げた。
「どうか、どうか先ほどの事は忘れてください!」
 全身が湿っているのが分かる。と、頭の上から笑い声が降って来た。顔を上げると、彼女が口元を押さえてくすくすと笑っている。
「わ、笑わないでくださいよ!」
「だって、ふふふ……。さっきのも面白かったけど、あはは、君って面白い子ね」
「ちょ、そんな……はは……」
 あんまり彼女が愉快そうに笑うので、つられて俺まで笑ってしまった。そうなると、何だかもう、どうでもよくなってしまった。俺も彼女も、笑いが止まらなくなってしまったからだ。どうやら俺と同じように彼女も、笑い出すと止まらないようだった。やがてお互いにむせて咳き込んで、ようやく収まった。
「それにしても、どうして君はこんなところへ? よくこんな僻地まで来たわね」
「ああ、俺は《蛍森ノ里》でホタルの撮影を……」
「あらそれじゃ、君が三刀屋くん?」
「え、どうして俺の名前を?」
「ああ、そうそう。君がこれから泊まる宿、私が切り盛りをしてるの。ほら、今晩の食材」
 そういって、女性は左手に持ったスーパーの袋を差し出す。中には野菜や肉が入っている。
「初めまして、私は蛍森姫奈。よろしく」
「――ああ、そういえば確かに、電話で聞いたような」
 改めて蛍森さんを眺めてみる。肩下十センチほどの髪は、後ろでポニーテールにされている。このはの濡れたような色の髪とはまた違う、健康そうでさらさらな髪だ。服装は軽装ながら長袖、山歩きに相応しい。背丈は俺より少し小さいくらい、年は二十代だろうか。
「この橋はね、思い切って渡っちゃった方がいいのよ。高所恐怖症じゃなくても、君みたいに不意に渡れなくなっちゃう人も多いからねぇ」
 そういって、奥ゆかしい笑顔を浮かべる蛍森さん。中々とっつきやすい性格だ、などと考えていて、気付くと俺の二の腕ががっしりと蛍森さんに掴まれている。全身を貫く、凍て付いた氷柱のような嫌な予感、悪寒。
「さ、ちゃちゃっと行きましょう」
 すたすたと一直線に吊り橋へ向かう蛍森さん。抵抗を試みるが、その瞬間に彼女の手は万力のような力を込める。
「ほーら、もう陽も暮れちゃうから、早く」
「えっ、ちょっ、ぎゃー!!」
 結論から言うと、失禁しそうになった。



 ちりん。
 忘れられぬようにか、風鈴が幽かに鳴いた。
 民宿蛍森の縁側に腰掛けて、深い藍に染まっていく空を眺めていた。既に陽はなく、山際の隅に濃い黄昏色の陽の残滓が残るばかり。そして庭には、地味な黒松や柾が植えられている。そうかと思えば、ひょろりと背ばかり高い百日紅が庭の端に紅い花を覗かせてつっ立っていたり、雑草に近い蛍袋―ホタルが宿とするといわれる、白や桃の俯いた花―が群生していたり、中々ユニークだ。統一性はないが、一貫した温かみがある。そんな庭だった。もう、辺りを包む蝉の声は例の日暮ばかりだった。
「はい、西瓜」
 団扇を扇ぐ手を止めて茶の間へ眼を向けると、蛍森さんが半月型に切った西瓜を卓袱台に置くところだった。
「あ、お気遣いなく」
 俺はそういいながらも、座敷に上がって西瓜にかじりついた。よく冷えていて、下がってきた気温と相まって鳥肌が立つくらいだった。甘い果汁が乾いた喉にしんみりと染み込んでいく。三時間もの間、山を登り続けた疲れが吹っ飛ぶようだ。
 後から思うと、蛍森さんに感謝せねばならないのだろう。だけれども、大の男が女性に腕を引かれて吊り橋を渡ったとか、もうお婿に行けない話である。
 吊り橋を渡ってから十分ほど歩くと、こじんまりとした滝壺があった。その滝壺を通り過ぎ、沢にそって進むこと十分弱。清流と別れてさらに数分歩いてやっと、この宿のある集落にたどり着くことができた。この集落は四方を山に囲まれた秘境で、田畑がその面積のほとんどを占めている。戸数は僅かに六世帯、内、七十歳以上の方の家が三戸で、残りでも十代の子供は一人しかいない。
 この《蛍森ノ里》はいわゆる限界集落なのだ、と蛍森さんは諦観ある口調で語った。
「私も、普段は田畑と山の手入れをしているんですよ。貴方みたいな物好きのいない限りは」
「物好きですかねぇ、やっぱ」
 しゃり、と俺はまた一口、西瓜をかじる。蛍森さんは俺が西瓜を食べるのを見ながら、身の上話を続ける。
 蛍森さんには兄弟姉妹がたくさんいるらしいが、蛍森さん以外の全員が山を降りてしまっているらしい。しかもご両親は既に亡くなっており、兄弟たちは盆と正月以外は帰ってこないため、一人でこの家に住んでいるらしい。だが、蛍森さんの家は広く大きく、使っていない部屋が多くあるようだ。俺が見ただけでも、一階に六畳八畳の部屋が七つはあった。まだ二階と離れは見ていないから、一人で住むには諸手に余る屋敷である。
「この村はみんな専業農家だから、助け合って暮らしているんですよ」
「はぁ、のどかッスねぇ」
「まさか。生きるのに必死なのよ。でもまぁ、確かにそうも言えるかもね。姉さん達も言うもの。《ここはマイペースで、正月開けに調子狂うのよね》って」
 日暮が泣き止み、少しずつ蛙と夏虫の声が辺りに満ち始める。蛙の声ってこんなに大きいんだな、と俺は生まれて初めて気づいた。
 ……さて、後はホタルを撮って帰るだけか。
「あ、そういえば。麓の村の人に言われたんですけど――」
「《蛍森》のホタルは写真に撮るな、違う?」
「え、何で……?」
 俺が思わず呟くと、複雑そうに蛍森さんは肩をすくめ、微笑んで見せた。
「私の姓が、どうしてこの村と同じ名前の《蛍森》なのか、分かる?」
 ――それは思っていた。この村の話をこのはから聞いて、蛍森さんに連絡を入れた時から。だけど。
「地名に因んだ姓は、あまり珍しくないと思ってましたから」
「ああ、そっか。そうよねぇ。でもこの村に、蛍森姓は私の家しかないんだけど?」
「えっ?」
 それは、妙だ。普通、増えてゆくはずだ。
 正座をした蛍森さんは、淡く笑顔を作って言う。
「私はね、この秘密の語り部なの。話してあげる。まあ古い伝承だから、あまり本気にはしないでね」

 《蛍森ノ里》は本来、《蛍守ノ里》と書く。
「つまりその名の通り、ここは蛍を護る集落で、私の家系は蛍を護るためにここにいたの。ずっと昔から」
「ずっと昔って、環境保護の声が強くなる以前からってことですか?」
「もちろん。戦前からよ。ここのホタルは、よそのホタルとはまるで違う。初夏じゃなくて、盆から夏の終わりにかけてかなり長い間見られたりね」
 ホタルを護り始めたのは、正しくは戦争が終わる直前。この村もかつては、多くの人間が住んでいた。けれどもその多くが、大海原に魂を散らせて消えていったのだ。
「その青年達は、両親にこう伝えて旅立ち、二度と帰ってはこなかった。《もしこの身が滅びても、ホタルになって帰って来る》、と」
 そしてはたして、その年のホタルは、
 それはそれは見事なものになった。
 例年よりも多く、煌々と白々と。
 悲しみに暮れる村人を元気付けるように。
 そして、一夏の命を散らせて消えた。
「……それ以来、国が乱れるごとにホタルは増えた。この世を憂える者が、ひと時の夢を求めるように」
「――それってつまり、
 ホタルの光は死者の魂、ってことですか?」
 俺が確かめるように呟くと、蛍森さんは小さく首を振った。違うの。と。庭を眺め、息を吐く蛍森さん。
「ホタルはね、この世を忍んで現れる、人間の魂なの。生きているか死んでいるか、そんなの関係ない。例えば、ずっと入院していて、外に出れない子だっているでしょう? そういう子は、この世と触れられない。だからホタルとなって、漆黒の空の中を舞う。解き放たれたくて。そして一夏の終わりには、帰っていく」
 世を逃れたがる魂は、例外なくホタルとなる。
「望めば誰でも、ここへ来れる。私たちは、この場所を護らないといけないの。ここは、苦しむ人たちの、最後で最期の居場所だから。これが、《蛍守ノ里》の伝承」
「……それを、蛍森さんは、どう思いますか?」
「え?」
 語り終えた蛍森さんは、俺の問いに我に返ったように訊き返す。俺は繰り返す。
「蛍森さんは、ここのホタルたちを、どう思いますか?」
 すると、蛍森さんはくすりと笑った。

「一年に一度くらい、空を飛んでみたいと思わない?」
 
 ――ああ、と。
 ああ、その通りだと、俺は思った。
「私は自分から進んで、この地を護りたいと思ったの。だから残った。ここは護られねばならないと思ったから。私も、最期にはここの沢を眺めたいと思ったから」
 そういって、蛍森さんは庭を眺めた。空に上った上弦の月、それが庭を明るく照らし出していた。淡い碧が、すうっと横切って。
「あ、もう来たみたいね」
 その光は、俺らの前で翻ってみせた。その光跡を見ていると、何だか自分のしようとしたことの意味を見出せなくなった。
「あーぁ……。そんなことを聞いたら、撮れないですよ。このはになんて言おう」
「あら? 別に、撮っても構わないと思うわよ?」
「え?」
 俺はきょとんとした。
 あはは、と朗らかに笑う蛍森さん。
「誰でも、お忍びの写真は撮られたくないでしょ? それだけのことよ。まさかとは思うけど、フラッシュを焚いたりしないでしょ?」
「んー、でも……」
「女の子を待たせてるんでしょ? 早く持って行ってあげなさいよ」
 そう大人の女性に言われては、確かに面目ない。
「そうですね……。分かりました。カメラ取ってくるんで、道案内をお願いできますか?」
「はいはい、それじゃ私も支度してるわね」
 俺は立ち上がると、開け放たれた間を越えて泊まっている部屋へ向かった。窓から外を見る限り、既にかなり暗い。荷物を解いて、三脚とペンライトを取り出す。カメラをセッティングしてから、三脚を小脇に挟んで玄関へ。玄関では、蛍森さんが畳んだ提灯を持って待っていた。
「あ、三刀屋くん。ちょっと待っててね、蝋燭切らしてたみたいで。取ってくるから」
 俺を認めるとすぐ、そう言って蛍森さんは屋敷の奥へ小走りで消えて行った。手持ち無沙汰になってしまったので、俺は外へ出てみる。上弦とはいえ、丸々と太った月のお陰であたりは明るい。これなら光の加減で背景も取れそうだ。
 ふと視界の隅に何かが映った。眼をやると、一匹のホタルがゆらりと飛んでいる。さっき見たヤツだろうか。何とはなしに近づいていくと、心なしか、ホタルも蛇行して近づいてくるように見えた。そしていきなり、ホタルは、俺を突き抜けるように突っ込んできた。

 ゆら、と。
 あの濡れたような黒髪の匂いを、
 不意に嗅いだ気がした。
 視界に、髪が映った気すら。

《さよなら》

 寂しく、哀しく、疎ましく。
 幼すぎ、高すぎ、華奢すぎる、
 よく聴き知った声が聞こえた。
 愛しく、苦しく、狂おしく。
 鬱々と、涙ぐみ、別れを告げる、声。
 その声を、俺が、聴き違う訳がなかった。

「お待たせー。あれ、どうしたの?」
「――蛍森さん、電話、お借りできますか?」
「え、どうして……」
「早く!」
 俺は叫んでしまってから、やっと我に返った。何、何テンパってんだ俺……? 今の、が、何だって言うんだ? あんなの、虫の知らせ、直感じゃないか。
「すいません、ただ、ちょっと、不安になってしまって」
「……そうね、ここじゃ圏外だものね。居間にあるわ」
 俺はケータイのアドレス帳を開くと、急いでこのはのケータイのナンバーを打った。――けれども、出ない。出ない。最後に留守電のメッセージが聞こえて、おしまいだった。いや、病院だから電源を切っているのかもしれない! 続けてこのはの入院している病院に電話をかける。電話が繋がるまでの数コールが、とても長く感じられる。繋がるとすぐ、俺は内科病棟の天宮このはの容態を訊ねた。しばらく待たされる。それすら、どうしようもなく悪寒がして、背筋を冷たい汗が流れてきた。
 やがて、慌てた声で担当の男性は答えを告げた。

 自ら手首を切って、出血多量で、集中治療室で。

 ちりん。と。
 遠くで、風鈴が鳴った。
 ただ、たった、一度きり。

 俺は受話器を置くと、その場に崩れ落ちた。
 傍らの蛍森さんが何か喋っているが、聞こえない。
 何も聞こえない。
 何も見えない。
 何も感じない。
 何も考えない。
 何も、何も、何も。
 何も、要らない。

「どうだったって聞いてるの!!」
 ぱしん、と。いい音が暗い廊下に響き渡った。
 じん、と。右頬が熱く痛んだ。
 そうして初めて、頬を張られたのだと気付いた。
「――三刀屋くん、山を降りるの?」
 病院に、行くの?
 ……そうだ。そうじゃないか。
「行かなきゃ――このはに、会わなきゃ」

 聞きたくない。
 見たくない。
 感じたくない。
 考えたくない。
 だけど。だけれど。だけれども。
 必要なんだ。

「――麓まで降りれば、私のトラックがある。そこまで、この山道を降りる覚悟がある?」
「……お願い、します」
 夜の山道がどれだけ危険か、知っているつもりだった。だけど、だけど。
「確かめないと、俺、絶対、死ねなくなります」



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