三、孵化の日
眼が覚めると、既に廊下は朝陽に照らされていた。
硬くなった身体をベンチから起こす。
夢を見た。満月の照らす空の中、薄闇を払いながら飛ぶ夢を。俺はその小さな昆虫で、何かを探しながら飛んでいた。その中で、蛍森さんに会った。だけど、蛍森さんを見つけたところで夢は終わってしまった。
蛍森さん……?
顔を上げると、目の前はICUだった。既にランプが消えていて、誰もいないようだった。そして俺は、ようやく自分が病院にいて、何故自分が病院にいるのかを思い出した。腕時計を見ると、十時過ぎだった。
走る気力すらなく、ゆっくりと歩く。
ここにこのはがいないなら、病棟に戻っているはずだ。
どちらであっても。
このはの病棟に足を踏み入れると、違和感のある空気を感じた。どことなく、よそよそしかった。
窓際の、ベッド。そこで上体を起こしている、少女。
――よかった。
その横には、このはの母親がついていた。自殺未遂をしたのだ、当然だろう。俺が近づくと、まず母親が気付き、俺に会釈した。そして俺らを残して、去って行った。俺は更にこのはに近づく。そして、俺がパイプ椅子に腰掛けて初めて、このはは俺を見た。
俺は口を開いたが、言葉は出せなかった。
このはは、ただ、口を開くことなく、俺の眼を見た。
その眼には、薄く涙が乗っていた。
すぐにその口は、耐えるように唇を噛む。
このはの手首には、痛々しく包帯が巻かれていた。
「あのさっ――」と。
俺は喋り出してから、何も言えないことに気付いた。
その時、このはは口を開いた。
「見ないで」
わたしを、見ないで。
それだけだった。このはの口にした言葉は。
俺も、何もいえなくて口を噤む。
お喋りで、竿の先に鈴をつけたようだった俺ら。
今、その俺らの間に、沈黙が圧し掛かっていた。
言葉なく、時間だけが流れる。
いたたまれなくなって、俺は席を立った。その時、ふと思い出して、俺はポケットから白紙の葉書を取り出した。裏面は見事な蛍合戦の写真になっている。蛍森さんが俺を送ってくれた後、トラックのダッシュボードにあったそれを渡してくれたのだ。このはちゃんへ、と言って。俺はそれを、そっと机の上に置いた。一昨日、俺が持ってきた青リンゴの横。続けて思い立ち、俺はもう一度座りこむ。このは、と名前を呼ぶ。けれど、このはは俺に顔を見せず、身動き一つしないままで。
「このは。ちょっと聞いてくれ。向こうに行って、そこの宿の女将さんに聞いた話だ。――聞かなくても、俺は勝手に話すからな!
《蛍森ノ里》っていうだろ、あそこ。それはだな……」
そうして一通り、俺は蛍森さんに聞いた話の受け売りをした。何故か、その話はとてもよく覚えていて、俺はすらすら話すことができた。このははまるで反応しなかったけど、それでよかった。
話したかったんだ、と俺は思った。
話し終え、俺は再び席を立つ。大きな声で、俺は語りかける。そっぽを向いたままの、このはへ。
「このは、退院したら二人で見に行こうぜ、《蛍森ノ里》のホタル。俺もちょっと見たけど、綺麗だったぜ、だから、さ」
「――いいよ」
それだけ、このはは言った。
拒絶の言葉。
それだけ、だった。
「――……このは。俺、明日も来るからな。絶対、絶対待ってろよ!」
答えは、ない。
それが、辛かった。
帰ろうと病室を出た時、このはの父親とすれ違った。このはの容態が安定したから、仮眠を取っていたのだろう。病室前のベンチには、このはの母親が腰掛けている。俺はそのまま立去ろうとしたが、母親に呼び止められた。
「三刀屋くん」
「――なんでしょう?」
このはのお母さんは、俺の記憶より老けて見えた。
「あなたには、言っておきたいことがあるの。このはのことなんだけど、聞いてくれるかしら」
「……わかりました」
このはは、やっぱり病気だった。病名は、《ウェルナー症》というらしい。遺伝病で、日本人に多いものらしい。症状はごく単純で、それでいて恐ろしかった。
「――人より早く、年をとる?」
深くため息をついて、お母さんは眼を伏せた。
このはのお母さんによると、《ウェルナー症》は早老症の中でも発見が遅れやすいものらしく、それは症状が現れるのが遅く、現れていても育ち遅れにしか見えないからだという。
つまり、このはがあんなに小さな身体だったのは――、何の事はない、成長が終わる前から、このはの身体は、既に老け始めていたのだ。
《ウェルナー症》患者の寿命は、せいぜい四十前半であるという。それは、延命治療に耐え抜いて耐え抜いて、苦しんで苦しんで、の試算だ。
このはの夏の回数券は、俺より遥かに少なかったんだ。
「あの子にそれを伝えるのは、早すぎたのかもしれないわね」
と、このはのお母さんは、頭を振って言った。
「そう、ですか――」
それを知って、このははあんなことをしたんだろうか。それを思うと、俺は、なんで、と思った。
なんで、死のうとしたんだよ。
「三刀屋くん、このはは、あなたを――」
「分かってます!」
俺はベンチを立った。
「――すいません。ここ数日、ろくに寝てないんです。俺、家に帰って少し寝ます。どうか、体調を崩されないように」
慌ててそう繕って、俺は病院を飛び出した。
外は、例えようもなく暑かった。空調で凍えた体が悲鳴を上げている。そんなことよりも、俺は、
叫びたかった。
なんで、なんでなんだよ。なんで死のうなんて思ったんだよ!? このは! 自分の病気のことを聞かされて、なんで答えが《死》なんだよ!! お前が死んで、何が解決するってんだよ? お前ひとりの命じゃないだろが! どれだけの人間に、お前、生かされてると思ってるんだよ! どれだけの人間が、お前に生かされてると思ってるんだよ! この、この、……
「大バカ野郎!!!」
表で人目も気にせず叫び、一目散に走り出した。俺もどうにかなりそうだった。何も出来ず、後から騒ぎ立てることしか出来なかった。何より、このはのことが分からなかったことが、
俺に、俺を、嫌いにさせた。
長い道程を走りぬけ、俺は自分の家へ駆け込んだ。そうして母さんが止めるのも無視して、二階の自分の部屋へ飛び込んだ。そしてそのまま布団へ。
嫌だった。
もう、嫌だ。
クーラーをつけて、ぼうっと時間を過ごす。
今度こそ、俺は考えるのをやめていた。
やがて気付かない内に、俺はまた、眠りに落ちていた。
逃げる為に。
月満ちる、明るい夜。
俺は、宙を危なげに舞っていた。
辺りは薄暗い森、雑木林。
目の前を人が歩いている。近づいてみると、その人には見覚えがある。前を横切ると、「こんばんわ」と、俺に語りかけてきた。その人は、俺に示すようにどこかを指差す。それに気付いて、俺はその方向に向かってみる。そうすると、そちらには幅のある沢が流れていた。そして、たくさんの仲間たちが待っていた、舞っていた。俺もその中に混じる。辺りは月のお陰でよく見える。蛍袋が辺りに咲き乱れ、沢の流れる音と虫の音が響き渡る。
ふと。
仲間たちの中に、見慣れたヤツがいるのに気付いた。そいつは、弱弱しく光を放ちながら、ふらふらと飛び回っている。今にも水に落っこちてしまいそうだった。俺は気になって、そいつに近づいてみる。するとそいつは逃げる。なんだ、元気じゃないか、と思って俺はぷいと離れる。そうするとまた元気なくそいつは飛ぶ。俺は近づく。逃げる。同じことの繰り返しだ。そのうちに頭に来て、全力で飛んで近づく……。
気付くと、俺はベッドの上で大の字になっていた。
俺はもちろん人間で、無論のことながら空なんて飛べるわけもなく、当然のようにここは俺の部屋で。
時計を見ると、二十時過ぎだった。家に帰ってから、十時間以上寝ていたことになる。それほど疲れていたのだろうか。
乱雑な、俺の部屋。狭い中にカメラや漫画、ゲームなどが散らばっていて、部屋の半分がベッドで制圧されている。エアコンがなかったら暑さで蒸し焼き――寒い。付けっぱなしで寝たのはまずかったか。エアコンを消そうと、リモコンを探す。リモコンは机の上にあった。立ち上がって、リモコンを手に取る。と、ケータイが光っているのが目に付いた。着信があったみたいだ。エアコンを切ってからケータイを開く。電話帳には登録されていない番号だった。なんだろうと、リダイヤルしてみる。
『もしもし、蛍森ですが――』
「あ、なんだ蛍森さんだったんですか。俺です、三刀屋です。どうかしましたか?」
『ああ。いやー、貴方、部屋に荷物置いて行ったままでしょ? いくら慌ててたっていっても、それはちょっと頂けないかな、と思ってね』
「あぁ、すいません……」
「それで、どうだったの? 彼女」
そう、言われて。
思い出した。
忘れたかったことを、それを忘れたがったことを。
「……もう今朝には、意識を取り戻しました。えっとそれから――」
そこで、俺は詰まる。言いたくない。俺が言ってしまえば、それは認めたことになる。考えたくもない。嫌だ。嘘なんだ。――このは。
「なら、いいんだけどね、それで荷物は?」
俺の空けた間を埋めるように、突然饒舌に蛍森さんは喋った。俺はそれにたじたじになる。
「えっと、配送で――」
「どうでもいいけどさ、退院したら彼女と二人で来なさい、今年のホタルは今年しか見れないんだからね、来年は受験でしょ? 今年の内に遊んどきなさいよね、それまで荷物は預かっておくから、それじゃあね」
俺に喋る隙を与えず、蛍森さんは電話を一方的に切った。しばし俺は呆然としてしまう。やがてその気持ちに気付いて、温かくって、俺は――。
連れて行ってやりたい、と思った。
もう一度寝ようと思うが、まるで眼が冴えて眠れない。あれだけ寝れば、元々頑丈な俺なら当然か。……このはに、電話でもかけてみるか。ダメで元々、と思って、電話をかける。よくよく考えれば、このはにはPHSが貸し出されてたじゃないか。病院の中だから電源を切ってる、なんてことはないじゃないか。そんなことを思いながら、声が返ってくるはずのないコール音を聞いていた。
『もしもし……?』
え、繋がった……?
「もしもし、このは、俺だけど」
『……ごめん』
早くも電話を切りそうに、早口になるこのは。
「待ってくれ、少し、話そう」
そう、俺が弱い声で訴えかけると、このはの躊躇う息が聞こえた。俺の息が乱れる。このはは、少し間を置いて、震える声で、一言だけ言った。
『ちょっとだけ、わたしに時間をください』
そうして、電話は切れた。
慌ててかけなおしてみるが、留守電が出るだけだった。
――分かった。
俺、待つよ、このは。
その間に、俺も、準備、しておくから。
それから四日間、俺は同じ夢を見続けた。あの、ホタルになって空を飛ぶ夢だ。あれからもずっと、同じ内容だった。弱った仲間に近づくと逃げられる、それの繰り返し。
だけど、昨日は違った。俺が近づくと、そいつは、やっと俺に身を寄せてくれたんだ。おずおずと、途惑うように。尤もそこで、眼は覚めてしまったのだけれど。
それからすぐ、このはから電話が来た。
『……みっちゃん』と言う、このはの声には、深い安堵が含まれていた。上ずって、たくさん喋りたいけれど、言葉が出てこない、そんな声だった。
「……昨日、寝れたか?」
『うん……ちゃんと寝たよ。みっちゃんは?』
「十二時間寝た」
『寝すぎだよ、もう』
そんな、当たり障りのない会話をした。いつもどおりのように思えて、どこかぎこちなかった。このはも俺も、どこかで、オブラートのような薄いけれど間を隔てるものを、間に挟んで喋っていた。それでも、俺には例えようもなく嬉しかった。数日会わなかっただけで、これほどまでに、……寂しいとは、思わなかった。
『――みっちゃん』
「ん、どうした?」
『……無理言ってでも、明日には退院させてもらう。だから』
一緒に、《蛍森ノ里》に行こう。
一緒に、ホタルを見よう。
「な――」
俺は、呆気にとられ、言葉が出なかった。
「ど、どうしたんだよ、このは。そんな、急に……」
『今まで、ごめん……。でも、行きたいんだよ。みっちゃんと一緒に、ホタルが見たい』
本当に済まなさそうに、このはは言った。その声は、力強く、俺に伝えてきた。温かく血が通って、生き生きと。
「……俺は、いつでも待ってるから。あそこのホタルは八月中旬まで見れるらしいから、無理はするなよ」
『うん、約束だよ!』
そう言って、俺は電話を切った。
翌日。
俺は、《蛍森ノ里》へ向かう山道を歩いていた。
右手にこのはの、手を引いて。
昨日退院したばかりのこのはには、急勾配のこの山道はかなりきつそうだった。それでなくとも、簡単にぽきんと折れてしまいそうな、小枝のように華奢な体をしているのに。それでもこのはは、必死に、自分の力で山道を登りたがった。
「大丈夫かよ、このは?」
「へぃき……どこも、悪くはないんだから」
俺が訊ねると、このはは強い口調で答えた。だけど、俺にはどう見ても空元気で。山越えのために長袖を着たこのはは、びっしょり汗をかいていた。このはの分の荷物も、俺が抱えているのに。ちなみに、俺は前回の教訓を生かし、カメラしか持って来ていない。着替えは向こうに放置してあるからだ。
このはにあわせて歩いているが、眼に見えてペースが落ちている。前は俺のペースで歩けたから距離も苦ではなかったが、これでは日が暮れてしまう。時計を見ると、十三時。早く出たのに、ちょうど陽射しが厳しい時間帯に当たってしまった。俺はまだなんとかなるが――まだ、やっと小川を越えたとこなのに。
「ああもう、心配かけんなよ」
俺は立ち止まると、このはの前でしゃがみ込み、背中を示す。
「……え、みっちゃん、どうしたの?」
「乗れ、背負ってやるから」
そういうと、いやいやするようにこのはは首を振った。肩越しに見るこのはの顔を無視して、俺は急かした。
「いいから、早く乗れ。お前だけ、苦労させねぇよ」
そういうと。ぴくり、と。
このはの肩が、揺れた。
「俺はさ、丈夫なことくらいしか取柄がないんだよ。勉強だってできるわけじゃないし、運動神経だって人並みだし、他人の気持ちにだって鈍い。
だけど、このはには、俺のそばで笑ってて欲しいんだよ。今までそうだったから、俺、鈍くて、全然気付かなかった。このはが隣で笑ってくれてて、すごい、楽しいんだって。幸せだったんだって。
俺、このはの分まで歩いてやっから!
だから、……もう、あんなことしないでくれ」
さん、と。草の音。
ぐっ、と。
このはの重みを、背中に感じた。
それが、あまりにも軽くて。
俺は、泣きそうになった。
「――バカみたい」
突然の、声。
背中から、高い声。
「わたし、バカみたい……。なんで、なんであんなことしちゃったんだろ……。みっちゃん、ごめん、ごめんね……。わたしが、みっちゃんより早く、醜くなって、病気になって、朽ちてって……。そうなったら、みっちゃん、きっと、わたしとは違う、遠いとこに行っちゃう気がして……。
わたし、みっちゃんのこと、信じてなかったんだ。
わたし、最低だよ。……自分で勝手に、みっちゃんのことを信じられなくて、それで、辛くて、死んじゃおうだなんて――わたし、わたし……」
歩き出す、俺。
俺の背中にしがみつく、このは。
このはは、泣いてるんだろうか。
「俺も、……このはのこと、怒ってた。だけど、それって、このはがどんな風に考えてるかも考えずに、俺が勝手に怒ってたんだよな。ごめん。俺、頼りないからさ、そんな風に思っても、無理ないよ。
でも、これからは――」
頼れるような、男になる。
だから、泣かないでくれ。
俺も――泣きたくなるから。
「――分かった」
か弱く、このはは言葉を吐いた。
俺の視界に映るこのはの手首には、まだ包帯が巻かれていた。俺は堪らず、足元を見る。
痛かったろう。
苦しかっただろう。
気が遠くなる時、どう思ったんだろう?
「……手首切ったって、死ねないのにね。バカみたい」
「何だよ、いきなり。
失血してかなりヤバかったって聞いたぞ」
「それは、血が固まりにくくなる薬を飲んでたからだよ。わたしも知らなかったけど」
「……痛かった、だろ?」
「――切ってから、辛くなったよ。それから、後悔したよ。なんで、こんなことしたんだろ、って。……あはは」
真夏日なのに、このはは俺の首筋に顔を寄せる。
さんさん、と。
俺が草を踏む音がする。
蝉の声がする。
鳥の声がする。
風の音がする。
このはの、息をする音がする。
俺たち、生きてるんだ。
突然、そう思った。
「――みっちゃん。聞いて」
「うん? なんだ?」
「……ホントはね、わたし、手首切った後、空気を注射しようと思ってたんだ。注射器をくすねてね。そうすれば、人間って簡単に死んじゃうんだよ。でもね――自分で注射なんてしたことなかったから……針を刺した時、すっごく痛かったんだ。どうしてか、先に切った手首より、ずっと。それでその時、わたし。
ああ、生きてるんだ、って思ったんだ。
そしたらさ、急にね、《死んだら、みっちゃんのバカも見れなくなるんだなぁ》って思って。そんな風に思っちゃったら、もう、涙が止まらなくて――。笑っちゃうよね。みっちゃんに見られたくないって思って、そんなことをしたのに。
でももう、遅かったんだ。血が止まらなくて。気付いたら、シーツが真赤。それで初めてわたしも慌て出して。《死にたくない》って思ったけど、もう、遅かったよ。気を失っちゃって……気付いたら、みんなに迷惑かけてた。恥ずかしくて、苦しくて、嫌いになって。みっちゃんに顔もあわせられなかった」
そういってから、くすりとこのはは笑った。もういいんだ、と俺は思った。もう、答えは出たんだ、このはの中で。
「とんだ、お笑いぐさだな」
そう言って笑いかけると、後頭部から「ひどいなー」と声が降って来る。その声は、とても明るくって。
「わぁ、吊り橋だぁ」
今度は毛色の違う温かさの声。眼を上げると、俺をあれほど苛ませた吊り橋が目の前に。このはは「この橋を渡るの、楽しみにしてたんだ! 下ろして下ろして!」と騒ぎ立てる。俺が宥めつつこのはを下ろすと、たたたっと走り出し、眼をきらきら輝かせて谷に架かる橋を眺めた。「いこっ、いこ!」と、このはは俺の背中の上で少しは疲れが取れたのか、はしゃいでいる。向こうから渡ってきた時は、必死だったから平然と渡れたが……。こんな子の前であんな醜態は晒せない。「ああ、行くか」と平静を装う俺。いける、今ならいける!
「……大丈夫? 顔、真っ青だけど」
「大丈夫だ、多少胃袋が寂しくなったが命に別状はない」
「コケンと男はボロボロだけどね」
渡りきってから、恐怖で胃の内容物リバースした。
情けない……。顔を上げると、このはは相当楽しかったのか、「空を歩いてるみたいで、気持ちよかったー」とかのたまっている。見習いたいものだ。
「ここからは下り勾配だし、河も流れてるから涼しいぜ。歩けるか?」
「うん、何とかいけそう。早く蛍森さんって人に会いたいな、早くいこ!」
文字通り峠を越えて、ゆっくりと歩く。河は綺麗だし、音からしても涼しげだ。このはは滝を見てははしゃぐし、しばらく歩いて蛍森邸に着いてからも庭に大はしゃぎだった。登りの疲れが嘘のようにはしゃぐこのはを見ていて、いつまでもこんな、このはを見ていたいと思った。
庭に興味津々のこのはをほっといて、俺は屋敷の玄関から蛍森さんを呼ぶ。蛍森さんが出てくると、このはが速やかに挨拶しに走ってきた。
「お久しぶりです、蛍森さん」
「こんにちは、蛍森さん!」
「こんにちは、このはちゃん。それと三刀屋くん」
「みっちゃんだよー」
「へぇー、みっちゃんって呼ばれてるんだ、三刀屋くん」
「それは、このはだけの特権ですよ」
「え、そーなの?」
「今からそう決めた」
こんな感じで、すっかり倒れる前と変わらず、元気にこのはは駆けずり回っていた。
夜。
気持ちのよい星空の下、下弦の月で程よく辺りは照らされていた。このはは蛍袋と提灯を手に、俺の横。
俺たちに質素だが手の込んだ夕食を振舞ってくれた後、蛍森さんは頃合を計ってホタルを見に行くように勧めてくれた。何か気を遣ったのか、蛍森さん自身は来てくれなかったけど。道を知らないと言っても、「来る時見た滝壺が一番の見所よ」とだけ言って、同行してくれる気はなさそうだった。俺はこのはの分の機材をまとめて持ち、このはは提灯を手にゆったり歩いていた。次第に沢が近づくにつれ、虫の声にせせらぎの音が混じる。
「わぁ」
このはの歓声が聞こえた。一匹、また一匹。少しずつ、けれど確実にホタルが姿を現しだした。ふと、沢へ至る道の奥へ眼をやると。
淡い碧の光が、無数に舞っていた。
「わぁぁ、すごい……!」
耐え切れなくなったのか、提灯を揺らして走り出すこのは。転びでもしたら大変だと思いながら、俺も重い機材を揺らして後を追う。
そこは、何か別の場所に思えた。
見渡す限り、点滅する無数の光で一杯だった。プラネタリウムが動き出したかのようにも思え、俺もこのはも、言葉を失った。このはは慌てて提灯の火を消す。月明かりに薄暗い中、ふわふわと舞う碧の明かり。
美しいでも足らず、綺麗でも足らず。
語彙を知らない俺には、言い尽くせなかった。
「場違いかな、わたしたち」
このはの言葉に、俺も共感せざるを得なかった。
「写真に撮るなんて、もってのほかだな」
おどけて言ったが、本心だった。
二人して見とれて、ただただ立ち尽くしていた。
「こんなに頑張ってるのに、もう来年はいないんだね……」
ぽろりと何かをこぼすように、このはは言葉を口にした。それが、ホタルが《頑張っている》というのが、俺にはとても、感慨深く聞こえて。
「なぁ、このは」
「……なに?」
「俺、ここしばらく、不思議な夢を見てたんだ」
ホタルになって、仲間を追いかける夢。そのことを告げると、このはは柔らかく、にっと笑った。
「……やっぱり、みっちゃんだったんだね」
「え?」
俺は、横にいるこのはに向き直った。月のお陰で、辛うじてこのはと分かる、その頭。
「……独りでね。自由に空を飛んでたら、わたしに構ってくる子がいたんだ。独りになりたかったのに、ぜんぜんその子は独りにしてくれないの。何度も何度も、そんなことを繰り返したんだ。そうしてね、やっと分かったんだ、昨日。
その子は、わたしに、隣にいて欲しいのかな、って。
わたしがいても、迷惑じゃないのかなって」
蛍森さんの言葉が、脳裏をよぎる。俺は、何も言えずに、月明かりに照らされたこのはの顔を見た。柔らかく綻んだ、儚げな笑顔。
あるいは、必然だったのかもしれない。
互いの想いに縛られて、身動きの取れない俺たちは。
こうして会うしか、道はなかったのかもしれない。
みっちゃん。大事なこと、わたし、言うから。
よく、よぉく聞いてて。
ああ、聞いてるよ。
――わたしは、ホタルです。
わたしはこんなに小さくて、二十歳で白髪になります。
三十路で眼が濁って、ものがよく見えなくなります。
四十路で病気になって……。
五十路になれるか、わかりません。
わたしは、あなたの半分しか生きられません。
あなたより早くおばあちゃんになって、
あなたの姿が見えなくなって、
あなたの声が聞こえなくなって……
あなたを残して、遠くにいかなければなりません。
わたしはそんな、一夏のホタルです。
でも、だから、だからこそ。
精一杯、短い一夏の間に、
あなたに、一生分、この身を捧げます。
――大好きです、みっちゃん。
……ああ。
ばか、早すぎるよ。
俺には、そんな、
このホタルみたいな言葉に、
こたえられる言葉なんて、ないのに。
俺は泣き笑いの顔に、なっていた。
その顔を見せないように、俺は顎を上げる。
涙が、こぼれないように。
……さいごのときまで、ずっといっしょにいてやる。
そう言って、俺は、このはを抱きかかえた。
木の葉のように、軽いその身体。
応えるように、このはも俺の身体に手を回す。
けれども腕は、その細い腕は、短かすぎて届かない。
このはの匂いがした。
ホタルが瞬く、音が聞こえた。
――俺も、大好きだよ。
このは。
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