目を覚ますと、僕はとても柔らかい感触に包まれていた。これはわかる、ベッドだ。それに甘い匂いもする。
 予想は遥かに飛び越えて、とんでもないところへと到着してしまった。すこぶる良い意味で、期待を裏切られてしまった。期待は拡散して、彼女に吸い込まれ、そしてこの展開を持ってきてくれたのだ。
「あ、起きました?」
 誰の声だろうか。この、まったく耳障りにならないメープルシロップのような声は。ぎゃあぎゃあうるさくもなく、イライラさせないこの素敵なものの持ち主は。
「ずっと寝ていて、心配だったんです」
「え、いや、その、だ……大丈夫…だか、ら」
 そんなに顔を寄せないで欲しい。だって僕はまだ心の準備が出来ていなくて、君の声にすでにやられているのだから。
 そう、声の主は彼女で、そして僕はずっと寝ていた。このいつも使っているベッドで。三百六十五日×いくつほどなのかはわからないが、それでもそんなに新しいものでもないような気がした。それほどに匂いがするのだ。
「す、すいません! 驚きましたよね? あの、どうして良いかわからなくて、あたしの部屋で寝てもらっていたんです。それで学校に行ってたんですけど、帰ってきてからも寝てるので、もっと心配になりました……」
 本当にイメージ通りの娘だった。何を話していいのかわからずに、焦っているところも可愛い。それよりも見ず知らずの男をこうして家に上げるという優しさにも、やられる。
「……ありがとう」
「ごめんなさい」
 何故彼女が僕に謝っているのだろう。むしろそうしなければならないのは僕の方で、さらに言えば土下座もしなければならないはずだ。だけどあの娘はそんなことを知らずに、こうやって罪悪感を持った表情を向けてくる。なるほど、これもまたすごく可愛い。
「何でそんな、謝るの?」ちょっと意地悪な質問を一つ。
「だって非常識ですよね? 救急車を呼べば良かったのに、こんなあたしの部屋で寝させてしまって。それに、嫌でしたよね」
「そ、そんなことないよ、とても感謝してる。この程度で救急車呼ばれると、笑われちゃうし」
 こんなにも寝てしまったのは、きっと昨夜眠れなかったからだ。そうだよ、ずっと君のことを考えていたからなのだ。そういう意味なら、君に謝られるのも無理はない。だってこうして倒れてしまったのだから。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
「う、うん。家も近所だから」
「じゃあ、送ります。心配ですもん」
「え、でも悪いよ。ここまでしてくれて」
「あ、何か心配してます? 大丈夫ですよ、ここはあたししか住んでませんから。お父さんとお母さんはちょっと旅行に行っていて、今は留守なんですよ。だから怒られませんよ」
「じゃあ、お願いしようかな?」
「はいっ!」
 制服から着替えていない彼女は、そのままパタパタとフローリングの上をスリッパで小走りに駆けていく。その後ろを僕は引っ張られるようについていく。
 がちゃりと開けると、もう夕方だった。オレンジ色の夕焼けがいきなり目に入ってきて、目薬のように沁みてしまう。こいつ、僕の瞳から彼女の姿を消そうとしているのか。横暴だ、いくら太陽だからと言って、こんな無茶苦茶なこと許されて良いはずがない。そうだ、だから僕はまだあの娘を見続けるのだ。
 マンションで、彼女の誘導を受けて僕は一緒にエレベータにも乗った。二階、それが彼女の階層。おなじ狭い空間ではまた倒れそうになってしまうが、今度はそんなみっともないところを見せるところではない。あれはいわゆるちょっとした始まりのための策だったのだから。
 適当に近いと思っていたのだが、それは案外当たるものだった。僕のアパートととは離れてなく、徒歩二分程度といった場所だった。マンションの外へ出て、この風景には見覚えがあった。
「ほんと、心配しましたよ」
 僕がこっちだよと合図を出しながら、歩いていく。まさかこうして並べる日が来るなんて、考えてもいなかった。
「朝、苦手なんだ」
「ここまで苦手だと、大変じゃないですか?」
「うんうん、今は大学だから大丈夫なんだけどね。高校の時とかは大変だった。もう、無理矢理頑張って行ってたって感じ」
 別に、そんなことはない。朝の低血圧なんてここまでひどいのは今日が初めてだった。めまいで倒れるやつを色々見てきたが、そんな馬鹿なと思っていたのでこれは驚きだった。目の前の彼女を見るだけで、まさかこうなってしまうというところもポイントだ。
「今度は倒れないように気をつけてくださいね」
「うん。なるべく気をつけてみる」
 ああ、あっさりだ。あっさりと僕は家へ着いてしまった。何の面白みもないあの古アパートにだ。すぐそこには輝く彼女が居るのに、僕はここへ帰らなければならない。これは悲劇だ。一体僕が何をしたと言うのか。
 したか。そうだ、僕は十分にした。だから今日はここまでなのだ。


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