「ありがとう、え、あの僕は――」
「あたし、未理(みり)です。組木未理(くみきみり)です」
 そう早口で言って、手を振りながら彼女は足早に去っていく。とたとたと足音が聞こえるようで、またそれも可愛い。未理ちゃんか。なるほど、似合っていてそして心にときめく名前だった。
 夜、また僕は眠ることが出来なかった。何故かわからないのだが、あまりの嬉しさで興奮してしまったのだろう。布団を抱いてぎゅっとするが、それでは何も満たされない。それはそうだ、こんな布団、未理ちゃんの何百、何千、何億、何兆分の一にも達しないのだ。
 だから僕はあのベッドの匂いがついている服を嗅ぎながら、夢へと落ちるのだ。そうすればきっと向こうで会えて、いくらでも抱きしめることが出来る。
 初めてだ、僕の手も勝手に動き始めた。
 
 それから僕は毎朝のように未理ちゃんと挨拶をするようになった。避けることもなく声を掛けてきてくれて、そのメープルシロップ声を堪能させてくれる。時間がちょっとある日は、少しだけ話もした。どんどん距離が近づいている気がした。
「それでですね、そこが――」
「へえ、そうなんだ」
 他愛ない話だった。だけれどそれは僕にとって十分楽しくて、まるで貸切の遊園地みたいだった。時間制限のあるところが、また良いのかもしれない。迫ってくるものがあればあるほど、心の炎は燃え上がるのだ。
「じゃあ、また」
「うん、いってらっしゃい」
 後姿がどんどん小さくなる。それは手を伸ばしても届かず、まして抱きしめることなんて出来ない。残り香だけが僕を包んで、また離さなくなる。しつけの効いた犬のように僕は待ち続けて、次の機会を窺っているのだ。
「また、行きたいな。家」
 ぽろりと出てきてしまった。とたんに恥ずかしくなって、一心不乱に周りの様子を確かめる。良かった、誰も居ないし、誰も見ていない。誰も聞いていない。
「倒れれば、行けるかな。もう一回倒れれば。いや、普通に言うべきなのかな」
 結末なんてわかるはずはない。けれど未理ちゃんは多分僕に嫌な印象は持っていないはずだ。ちょっと低血圧の変わり者のお兄さんだと思っているはずだ。そうだもの、僕はそういう男なのだから、そうに決まっている。
 そういう結論に至って、僕は彼女に家に行って良いか訊くことにした。何、お礼もしたいのだから、不自然なことではない。僕は感謝しているのだから。
「えっ?」
「うん」
 ある日、そのままの通りに言ってみると彼女は驚きの声を出す。
「その、ほんとですか?」
「その、お礼もしてなかったしさ。やっぱりここで借りは返さないと、と思って」
 悩んでいる。うーんとして、眉にしわを寄せている。実際、僕も無理難題を言っているので、断られても仕方がない。それはそれでまた別の方法を考えれば良い。
「あ、そりゃ駄目だよね。はは、忘れて忘れて」
「……いや」
「え?」
「良いですよ。汚いですけど、どうぞ」
 神様など信じてはいなかったが、こんなところでひょっこり出会ってしまった。まさかまさかの超展開で、僕はまた未理ちゃんの部屋へとお邪魔することが出来るようになった。頭の中で祝福のファンファーレが鳴り響くのが聞こえて、どこもかしこも僕を祝ってくれているようだ。
 目の前の彼女はやはり恥ずかしさがあるのか、少し顔を赤くしてうつむき加減だ。けれどそこがまた良くて、僕の鼓動を速くさせてくれる。行こう、家へ。君の、家へ。
 
「どうぞ」
「お邪魔します」
 こうやって入り口からは初めてだ。最初は寝ていたからどうやって来たのかは覚えていない。考えてみれば彼女はなかなかに力持ちだった。多分、僕をおぶってきたのだろう。体重は軽い方だが、それでもよく頑張っている。そしてそんな姿を想像すると微笑ましい。
「コーヒーで良いですか?」
「あ、うん。お願いします」
 しばらく待っていると、テーブルの上にかちゃりとコーヒーが置かれた。明らかにインスタントのものだが、彼女が淹れてくれるならばそんなことどうでも良かった。
「うん、美味しい」
 砂糖の加減も完璧で、味が口の中いっぱいに広がる。あと洗ってあるとはいえ、このカップもきっと未理ちゃんは使ったことがあるはず。そう思うと何だか恥ずかしくなるが、唇がなかなか離れなかった。
「そうそうお礼だね、お礼」
 僕は持ってきていたかばんから一つぬいぐるみを出した。よくある熊のぬいぐるみで、雑貨店で買ってきたものだ。


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