「わあ可愛い! ありがとうございます!」
気に入ってくれたようだ。彼女はそのぬいぐるみを僕から受け取って、眺めてからそして抱きしめた。ふわふわの毛の質感が堪らないようで、嬉しさが飛び出したような声が漏れる。
「良かったそれで。気に入ってくれて」
「はい! 可愛いですよ。ありがとうございます。遥人(はると)くん」
今、僕の頭の中にハテナのマークがぱっと浮かんだ。遥人くんと彼女は言ったのだ。それは別の男の名前でも何でもなくて、正真正銘僕の名前だった。遥人、それがこの二十年近く一緒に歩いてきたものだった。
「な、何で?」
「えっ?」
そこから彼女も気づいたのか、どんどんと焦りの表情が組みあがっていく。大きな瞳がきょろきょろと動いて、落ち着かない。
「僕、遥人って教えたことないよ」
「い、いやぁ、その、ポストで」
「ポストには名字しか載ってないよ。どこで知ったの?」
彼女はすごく怯えているようだった。何故僕の名前を知っているのかと問い詰められ、怒られると思っているからだろう。しかし違う。僕はそんな小さな男ではない。むしろ名前で呼ばれて嬉しさがあふれ出ているのだ。あの声で呼ばれたのだ、それは凄いことだ。
「別に怒らないからさ、正直に言ってみてよ。ね?」自分が考えられる限界の、優しい声で訊いた。
「……抜いたんです、ポストから。それで……見たんです」
静かな時間が少しあって、それから彼女がうつむきながら言った。肩を震わせていて、まるでこれから罰せられる罪人のようだった。
「なるほど。それならわかるね、名前」
「ごめんなさい。気になって、あたし、あたし……」
「良いよ良いよ。でもそれなら最初の時、訊いてくれれば良かったのに」
「知ってたんです。あの時はもう」
今度は本当に驚いた。知っていたのだと彼女が言ったのだ。その意味を確かめるのに僕は何回も呪文のように唱えるが、何も魔法は起こらない。
「ずっと、ずっと見ていたんです。遥人くんを」
一体なんだと言うのだ。ずっと見ていたと彼女はそう言ったのか。とんでもない話だ。それは僕の方が間違いなくしているはずだ。いや、僕しかしていないはずだ。なのに未理ちゃんは。
「あの、ずっとあたしのこと見てたよね?」
パンと僕の頭が吹っ飛んだ音がした気がする。
「あの窓から、いつもあたしのこと見てたよね? 知ってたんです。気づくに決まっているじゃないですか」
何と言うことだ。完璧にバレていたのだ。僕のひそかな楽しみは、第三者に気づかれることはなかったのに、一番重要な本人に知られていたのだ。細心の注意を払ってきたはずなのに、こうもあっさりと見つかってしまっていた。
「い、いや、違っ……!」
「違わないです! だから、だからなんじゃないですか! 遥人くんがあたしをいつも見てるから、あたしは、あたしは……っ」
顔を近づけて、心痛そうに声を大きくする。瞳には涙が浮かんでいて、顔も紅潮してしまっている。とても複雑な表情で、どんどん距離が縮まっていく。
「気になってしまったの!」
まだまだ彼女は続ける。
「最初は、本当に気にならなかったの。だけど、ずっと遥人くんはあたしのこと見てて、どんどん気味が悪くなった。一時期は大っ嫌いだったの。なのに、しばらくしたら気になって気になって仕方がなかったの。そんなにあたしのこと好きなのかなって、そしてどんな人なんだろうかって。そして気づいたら、あたしこんなストーカーみたいな事してて」
ぼろぼろとついに大粒の涙がこぼれ始めていた。それはとてもキレイな形をしていて、重力に引かれていく。思わず掬い上げたくなったが、そんなことをしている場合ではない。僕のせいなのだ、彼女がこんな思いをしているのは。僕が辱めてしまったのだ。
「ごめん、ごめん。僕が悪いんだ。見てるだけじゃ誰にも迷惑をかけないって、そう思ってたんだ。だけど、違うんだね。こうやって未理ちゃんを泣かせてしまった」
バレなければとかではなかった。そもそもこういうことが良くない。崇高な趣味だと思ってやってきたのだが、そんなことはなかった。自分の欲望を満たそうとする、あの気持ち悪いやつらと一緒だった。そうだ、もっと早く気づくべきだった。僕は彼女を思って一体何を何回してきたのかということを。
「気持ち悪いでしょ、あたし?」
「ううん。僕のほうが気持ち悪いさ」
「そんなことない」
「いやいや、僕さ」
「あたしなの!」
「僕だ!」
ちょっと置いた後、同じタイミングで僕と彼女は噴出してしまう。お互いの顔を見合い、笑い始めてしまったのだった。この気持ちが悪い戦いがあまりにもおかしくて、それから何秒も笑い続けてしまった。
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