こんなにうまい酒はいつぶりだろう。思わず、笑う。
見三郎もそれに答えて、一層楽しげに笑う。酒の肴は幼少の頃から今までの話であった。寂れた呑み屋では、まるでそこにだけ陽が射しているかのように、慎之助と見三郎の卓は明るかった。
祝いの酒である。宇津木見三郎が江戸に発つことになったのと、それに合わせて妻を迎え、祝言をあげることになった。その祝いである。
「親父、酒をもってきてくれ」
酒代は慎之助持ち。孕石家の四男であって、小遣いもろくに貰えない慎之助が、人に酒を奢ることは珍しい。しかし、今日は例外。虎の子の二朱銀を使って呑もうという趣向である。
「―――河に落ちて―――」
「―――顔面を赤くして―――」
「―――隣家の娘に袖にされ―――」
「―――そして、額に大きな瘤を作った」
「―――肝試しでは叫び声をあげて―――」
二人の話は尽きることはなかった。水っぽい酒も苦ではない。
「―――しかし、貴様は恵まれている」
一方で、慎之助の心中は穏やかではない。
「なんだ急に」
見三郎は酔った眼を向けた。そして、意図に気づき鼻で笑った。
「やめろ、女々しい話は。酒が水っぽくなる」
まぁ、もともと水っぽいがな。そういって、見三郎は自分で笑った。
武家の次子以下は家を継げない。家業を手伝うという道もない。故に婿入りしなければならない。婿入り先を探すのは親である。慎之助の父は、慎之助が幼い頃に流行病(はやりやまい)で鬼籍に入り、母の『その』が残った。『その』は兄二人の婿入り先を見つけた。しかし、慎之助の婿入り先は見つけていない。それどころか探す素振りさえみせていない。(母上は自分に期待を抱いたことなど無い……)
慎之助は幼少の頃からそれを感じていた。たしかに慎之助は学問も剣術もそこそこであった。
(だが、理不尽だ)
そう感ぜずにはいられなかった。もし、自分が長子であったならどうであろう。そういった妄想が頭をよぎる。
だから、慎之助に見三郎を妬む気持ちがないといえば嘘になる。
慎之助に残された道は孕石家の一室を与えられ、やがて老いて、朽ちるのを待つ。飼い殺しだ。だが、無駄な穀潰しを抱えておくほど母は甘く無いだろう。恐らくは武家の身分を剥奪する道を取る。そして、百姓の身分に落とさせる。それで名乗る姓もなくなり、孕石家との繋がりは絶たれる。
「慎之助、そう真剣に考えこんでくれるな。家を出る方法などいくらでもある。例えば、道場に住み込むというのはどうだ?」
通っている藩校の道場には何名か住み込みで稽古に勤しむものはいる。しかし、それらはすべて師範に見込まれた者達だ。慎之助はそうではない。
見三郎は他にもいくつか案を出したが、どれも現実的とは思えなかった。
(見三郎は長子であるから、そんな杞憂を抱えたこともないだろうな)
当然だと思った。だからこそ、少し妬ましい。
二朱銀を払うと、少し釣りが出た。
酔った体には少し肌寒いくらいが心地良い。時節は初春で冬の寒さが、まだかすかに残っていた。
店をでると、神社に向かった。鎮守の森の獣道を通ると早く家につく。足取りのおぼつかぬ見三郎に慎之助は肩を貸してやった。
「旨い酒であったな、慎之助」
「おう。旨かった」
「この土地の酒は旨い。米が旨いからであろうな。米が旨いということは水が良いからだ。江戸の水はどうなのだろうな」
「心配か?」
「心配というほどでもない。ただ生まれた土地は離れがたい。ここで生まれて死ぬのが当たり前だと思っていたからな」
どこか口惜しげであった。酔いも手伝って感傷気味になっているのだろう。そんな見三郎を見るのは初めてのことだった。
「小便がしたい。見三郎、先に行っていてくれ」
鎮守の森で立ち小便することを罰当たりとは思わない。小動物がそこらへんで糞尿を垂れ流しているのだ。
袴をたくし上げ、モノを持ち上げる。
不意に、正面の木が桜であることに気がついた。神社境内には桜の木が十数本あり、時期になると、武士や農民が桜見に興じる。今はそれには早く、蕾もやや小ぶりだ。しばらくぼんやり眺めていると、太い幹が折られているのを発見した。断面の肌色が夜目にも分かる。折られてから日はたっていないと見えた。その幹にも沢山の蕾が実っている。なにか可哀想なものを見た気になった。
「ぎゃあああ」
それを叫声と解するには一瞬、間があった。はじめは動物の鳴き声かと思ったのだ。
「見三郎……!」
慎之助は走りだす。あの千鳥足では遠くまでは行っていない。見三郎が前のめりに倒れているのが眼に入る。正面に男。武士の風体だ。
「お、おい。見三郎」
正面の男に気を配りつつ、見三郎を抱き上げる。男はどうやら宗十郎頭巾を被っている。ぬるりとした、嫌な感触がした。
「見三郎!」
見三郎とは違うものに転じていた。あらん方向を向いた眼は生き物の眼ではない。小刻みに身体を震わせるのが、死に際の小動物を思わせ、そこはかとなく不気味であった。
首元から鎖骨にかけて、深く斬られている。嫌に綺麗な肉の隙間から、骨が覗いている。
気づいたときには刀を抜いていた。宗十郎頭巾の男も刀を抜いている。あの凶刃で見三郎を殺めたのだ。そう事実は理解できたが、義憤や憤怒、ましてや仇討などと考えて刀を抜いたわけではなかった。恐怖。身に迫った危機がそう行動させた。
刀の切っ先が揺れる。手の震えが止まらない。剣術の稽古で真剣を握ったことは幾度となく有る。しかし、巻藁に刀を向けるのと、人に向けるのとは違う。
人に刀を向けたとき、先に立つのは『相手を殺してしまうかも知れない』という恐怖である。殺されるのも怖いが、殺すのも怖いのが人間である。
横の茂みが揺れる。思わず視線がそちらにいく。武士。刀を身体の横に付け、突進してくる。
(仲間か!)
わかった瞬間、慎之助は死を覚悟した。身を固くする。
「むっ」
痛みはなかった。突進してきた武士は四つん這いの状態。茂みの枝を袴にひっかけて、転んでしまったのだ。鬢と襟の間。首もとが露(あらわ)になっている。咄嗟に刀を叩きつけた。
「たぁッ!」
ガキッ、と石と石を叩き合わせたような音がした。刃が頚椎にぶつかった音であった。噴水の如く、血が噴き出た。慎之助は全身に血を浴びた。
土を蹴る足音に視線を上げる。宗十郎頭巾の男が刀を掲げて向かってくる。素早く首から刀を抜くと、宗十郎頭巾の男が振り下ろした刀を受ける。鍔競り合いの形となった。慎之助は腰を入れて、思い切り押した。相手がよろける。慎之助が胴を狙う。宗十郎頭巾の男がそれを受ける。が、慎之助は手応えを感じなかった。
宗十郎頭巾の男は自らの刀を見つめた。鎬(しのぎ:刃の中ほど)から上が折れている。
「なまくらッ」
上ずった声でそう叫んで、折れた刀を投げつけた。だが、慎之助に当たらず、後方の茂みに吸い込まれていった。
慎之助は首を狙って、刀を振った。二回目の返り血を浴びた。
痛いほど早く心臓が鳴っていた。汗は滝の如く流れ、着物が肌に密着している。
(大丈夫だ、もう、大丈夫、もう大丈夫……)
慎之助は刀から手を離そうとした。なぜかそれが落ち着くための第一歩だと思ったのだ。しかし、離れない。血糊のせいかと思ったがそうではない。掌の筋肉が緊張して、開くことができないのだ。
「離れろ、この」
血に濡れた刀が月明かりに妖しく光る。邪悪なものを手にしている。これを手から離すことによって、人を斬り殺したという事実からも離れようとした。
柄を握る指の一本一本を噛んで、剥がしていく。
静かだ。やっとの思いで刀から手を離したとき、慎之助はそう思った。ただ自分の荒い息だけが聞こえた。
(深呼吸だ、深呼吸)
鼻から深く吸った。
―――血の臭い。
慎之助は嘔吐した。
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