歯が鳴る。震えが止まらない。寒さからくるものだった。
番小屋に事と次第を届け出た慎之助は、なぜか奉行所に連行されず、孕石邸での蟄居を命じられた。追って出る沙汰を待つようにと。
帰宅すると、全身にこびりついた血と汗を流すために風呂に入ろうと思った。婢女に命じて、風呂を焚かせようとすると、母・『その』が止めにはいった。
「一人のために風呂を焚くのは薪の無駄」
やむなく慎之助は井戸水を頭からかぶった。季節外れで火鉢はもうしまわれており、自分の身体を温める術がなかった。
指先の感覚はなくなったが、頭は冴えた。
あれは全くの偶然だった。
二つの偶然が重なれば、それはもう奇跡と呼ぶべきものだろう。
茂みから出てきた武士がもし転んでいなかったら、ここに俺はいない。
宗十郎頭巾の男の刀が折れなかったら、ここに俺はいない。
この奇跡が己の人生を変えることもありうる。少なくともこれで辻斬りを退治したという箔が付く。それによって婿の貰い手が見つかるかも知れない。
見三郎の死に顔が浮かぶ。手に入れた奇跡も素直に喜べるものではない。いうなれば見三郎を踏み台にして手に入れたものであり、これから手に入るかも知れない幸福は、全て見三郎の不幸と引き換えによって得られる物。
(とんでもない物を背負わされたのやも知れぬ)
「慎之助、入るぞ」
裃姿の兄・民親が文十郎と名乗る武士を伴って、現れた。
「魚の臭いがするな」
「兄上、それは魚油の臭いでございます」
兄は魚油のことを知らぬのだ。慎之助の部屋では母の意向により、行灯の燃料に菜種油よりも安価な魚油を使っている。これは燃やすと異臭を放つ。そもそも兄がこの部屋に入ってくるなど初めてのことで、末弟に興味を持ったことなどのない兄が、そのことを知らぬのは当然と言えば当然であった。
「先刻まで家老の国木田様に呼ばれてな、城内にいた。そこで決まったことを慎之助にも話しておこうと思う」
「はい」
―――慎之助が斬ったのは、国木田の長子と国木田の家臣であること。
―――辻斬りをしていたのは一度や二度ではないこと。
―――このことが表沙汰になれば軽い処分では済まされぬこと。
(何かあるな……)
慎之助は話の方向が不穏であると感じ始めていた。家老は自分の失敗を闇から闇に葬ろうとしている。兄は家老に何を吹きこまれたのか。落ち着き払っている様子のいつもとは違い、興奮しきったようにまくし立ててしゃべるのも不気味であった。
控えている文十郎という男も、家老の家臣という割には風体がまるで浪人。ただならぬ眼光をしている。
「ここからが肝要だぞ、よく聞くのだ」
「はい」
「ご家老はこの事をご内密にして欲しい、とのご意向だ。もちろんタダで、とはおっしゃらなかった。それがしを書院番組頭に推挙していただけるとの由だ。それに合わせての加増も考えていただける」
「内密……しかし、人が三人死んでいるのは事実。国木田家老の子息、家臣のことはごまかせたとしても、見三郎の死はごまかせるものではないと思いますが」
「そこでご家老の考えた筋書きがある」
―――国木田継乃進、家臣・高尾、慎之助、見三郎の四名は酒に酔っていた。つまらぬことで喧嘩になり、三名は斬り合い末、死亡。慎之助が一人残った。
「これでご家老も最悪の懲罰は免れる」
「ですが、私闘となれば、この孕石家も懲罰をうけて、推挙どころでは……いえ、見三郎はどうなりますか。孕石家は出世が約束されているから良いですが、見三郎は辻斬りにあって殺されただけだというのに私闘扱いにされ、懲罰をうけることになるのではありませんか」
慎之助は思わず熱くなった。見三郎が不憫でならなかった。辻斬りなどという馬鹿げた行為の犠牲者になっていなかったら、有望な前途が拓けていたのだ。
「む……」
民親は慎之助の気迫に負けたように押し黙ってしまった。もとから性根の座った男ではない。
廊下から足音が近づいてくる。摺り足のように静かに歩く。同時に布が擦れる音。
(母上)
生まれた家である。足音で誰かは判別がついた。
「民親ッ! なにをもたついているのですか!」
顔を見るのは久しぶりであったが、特に感慨はわかなかった。怒鳴りこんでくることは間々あった。兄達の話によると親父が死んでから、神経質になり、癇癪持ちが悪化したらしい。
「民親から話は全て聞いています。これで潔く腹を召しなさい」
『その』は慎之助に向かって、短刀を投げつけた。
「あ、兄上、これはどういうことでしょうか」
「国木田家老は推挙についてもう一つ条件をお出しになったのだ。それが今回の喧嘩の責任を慎之助がとって、切腹いたすこと。すまぬ慎之助」
「謝る必要などありません。もともとは農民に身分を落として、孕石家をでるはずの人間だったのです。それが孕石家の為に奉公できるのですから」
「お待ちください。切腹など了承した覚えがありません」
「了承など必要はありません。慎之助は孕石家の者、煮るなり焼くなり家長のすきにできます」
「そんな馬鹿な……」
「慎之助、孕石家のためだ」
「嫌です。切腹など……」
慎之助は立ち上がった。とにかく逃げなくては、このままでは殺される。
「民親、押さえなさい!」
「はい」
文十郎の動きが素早かった。慎之助を後ろから羽交い絞めした。民親は慎之助の足を押さえた。
「慎之助! 孕石のために」
『その』が短刀を拾い、抜いた。その白刃を生々しく感じられる。
「やめてくれ! 兄上、お頼み申す!」
兄は黙って視線を外した。
「慎之助、覚悟を決めなさい!」
『その』が慎之助の腹に短刀を突き立てた。
「うっ……」
異物が侵入してくるという感覚。鋭い痛みが走る。そして、燃えるような熱さ。
「慎之助、御家のため」
気狂いの眼というのこういうものをいうだろう。母の顔を見て思った。
母は息子に突き立てた刃を横に滑らせていく。
「ぐっ!ううう!」
「皆、お離れください」
文十郎が口を開いた。立上って刀を抜く。介錯の恰好である。
慎之助は逃げようと思った。しかし、すでに身体の自由が効かない。腹を抱え込むような恰好のまま、どうにも動かない。
(この刃から逃げたとて、俺はもう助からない)
母は狂気の視線をこちらに送り、兄は尻餅をついて、わなわなと震えている。家長が聞いて呆れるものだ。
この中で俺を助けようというものいない。一番近しいと思われる母の愛すら受けることが出来なかった。だから俺は家族ののけ者だ。
―――殺される。
文十郎の刀が振り落とされた。
漬物石のごとく転がる慎之助の首を見て、民親はしばらく動くことが出来なかった。
(俺は……とんでもないことをした)
謀を持って人を殺すとは如何なる事か、咎ない人を殺すとは如何なる事か。目先の出世に目を奪われ、そのことが分かっていなかった。
(大変なことをした……)
それから一ヶ月して、民親は発狂した。更に一ヶ月後、慎之助の幻影に苦しめられながら狂死した。
国木田家老は事件から五ヶ月後に起こった政変により失脚。ほどなくして亡くなった。
感想
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