3.
「ごーめーん! ごめんってばー! みーちゃん、ちょっと待ってよー!」
大学を出て、もうしばらく経つのに、母さんはずっと同じことを言っている。
母さんが昔話(父さんとの恋物語)に熱中し過ぎてなかなか終わりが見えてこないので、一人話し続けている母さんをよそに僕は会計を済ませ、そのまま置いていこうとした。
すぐにバレて、追い付かれちゃったけど。
今はとりあえず、来る時に車を停めた駐車場へ向かっている。
「悪気はないの! ただ、ただね! 年頃の子供を持つ親っていうのは、恋とかしてるのかなーって、やっぱり気になっちゃうの! それだけなの! 冗談だったの! だから怒らないで? ねっ?」
「別に、怒ってないよ」
「ホント?」
「嘘」
「あーん、やっぱりー!」
母さんは悔しそうに両腕を左右に振っている。
こんなこと言うのもあれだけど、まるで子供みたい……。
っていうか、子供を相手に話しているかのような感じ。
僕だってもう年齢的に立派な成人なのに。
見た目のせいかもしれない。
「あーもー、怒ってないって! 嘘が嘘だよ! だから、安心して、ね?」
母さんを宥める為に、僕は立ち止まって、出来るだけ笑顔でそう言ってみせた。
最初母さんは本当かどうか心配そうだったけれど、ようやく少し落ち着いたらしい。
その顔に笑顔が戻っている。
「とりあえず、早く帰ろ? 僕、少し疲れたよ……」
「確かに、少し顔色が悪いわね……。 そうね、急いで帰りましょう!」
大したことは何もしていないのだけど、ちょっと体調が悪くなってきた。
とりあえず、今日の所は家に帰ってちょっと休みたい。
確か駐車場は大学からそこまで遠い位置では無かったはず。
この辺りは道が縦横に入り組んでいて分かり辛いけれど、きっとこの道で合っていると思う。
と、思っていると。
「あ、あそこね! 見つかって良かったわー! 1人だったら私、完全に迷子だった」
この道路の前方30メートル程先の右手側に、例の駐車場があるのが見えた。
良かった、道は間違っていなかったようだ。
と、僕はすかさず、『“子”じゃないじゃん』って母さんにツッコミを入れようとした――
次の瞬間。
人が。
目の前にある、信号もない小さな交差点を右から左へと猛スピードで走って行った。
文面で見れば、ただそれだけの事でしかなかった。
けれど。
何か、おかしい。
違和感がある。
交差点の右側から、誰か出てきた。
どうやら、出てきたのはおばあさんらしい。
立ち止まって道路に膝をついている。
相当疲れているようだ。
「ねぇ、母さん……」
「うん……!」
母さんも同じらしい。
僕達は目を合わせた後、すぐにおばあさんのもとに駆け寄った。
おばあさんはぜぇぜぇと息を切らして、苦しそうだった。
年齢は70歳前後だろうか。
僕はすぐにおばあさんに問いかけた。
「大丈夫ですか? 何かあったんですか?」
おばあさんは言葉を絞り出すように、
「大事……もの……取られて……」
震える指はゆっくりと持ち上がり。
走り去ってゆく、男の背中を指し示した。
今やその姿は小さく、もう大分離れてしまっているようだった。
老人を狙った、ひったくり。
予想は的中していた。
僕はすぐにその男を追いかけた。
「ちょっと、みーちゃん!? 待ちなさい!」
僕を止めようとする母さんの声が、後ろから聞こえてきた。
それでも、僕はその声に耳を傾けずに、そのまま走り続けた。
今走っているこの道は、元々商店街だったらしい。
今や立ち並んでいる店の多くはシャッターが下されており、走りながらでも見て分かる位に酷く錆びていた。
辺りには人の気配が感じられない。
ひったくりをするには、都合の良い場所なのかもしれない。
とはいえ、白昼堂々行われるようなものではない気がするけれど。
一生懸命走っているものの、前方を走る男との距離はあまり縮まらない。
むしろ、少しずつ離されているような気がする。
僕は走るのがあまり得意ではない。
今のところ、見失うことは無さそうだけれど。
このままでは、捕まえられない。
そもそも、追い付いたところで捕まえられるのだろうか?
そんな力は、到底僕には無い。
正直、今こうして走っているだけでも、僕には相当辛い状態だった。
無茶をしているこの状態で、あとどの位まで走っていられるか、分からない。
ただ、僕は諦めたくなかった。
そこで試合終了、とかは別にして。
誰かの為に、頑張ってみたかった。
走るのがかなり苦しくなってきた今、その思いだけが僕の原動力だった。
たったそれだけだった。
と、これまでずっと直進し続けていた男がいきなり右折して、視界から消えた。
僕は見えなくなったことに焦りを感じて、出来るだけ早く、男が右折したその場所まで急いだ。
男が右折した場所には八百屋があった。
この店に関してはこの商店街にある他の店とは違って、普通に開店しているようだった。
店先には、数々の野菜や果物が並んでいる。
僕はようやく八百屋まで走り着き、その脇にある道へと足を移した。
あ。
男は、歩いていた。
もう安全だとでも思ったのだろうか?
男との距離はまだ多少あるものの、もうすぐにでも追いつけそうな範囲内だった。
完全に、油断している。
よし、今なら……!
僕の心臓が、ドクンドクンと唐突に早鐘を打ち始めた。
やるべきことは分かっていた。
ちゃんと走りながら、考えていた。
人を捕まえられるような、そんな力がない僕には。
そんな僕に出来る事は、限られていた。
「ねぇ、そこのおにーさん!」
「あぁ?」
男がゆっくりと振り返った。
その瞬間。
パシャ。
「!?」
男は慌てて、左手で顔を隠そうとするものの。
時、既に遅し。
僕のスマートフォンは、目の前の男を鮮明に記録した。
歳は40前後くらい、髪の毛は茶髪で、中肉中背のおじさん。
右手に黒のアタッシュケースを持っている。
これさえあれば、とりあえず犯人の特定は出来るだろう。
僕に出来る事なんて、こんなもの。
あとは警察の皆さんにお願いするだけだ。
「はい、上手に撮れましたー! ほら見て、ピントもばっちり!」
「何撮ってんだ、コラァ! ぶっ殺すぞ!」
「わー、こわーい。写真1枚撮ったくらいで、そんなに怒らないで下さいよ? それとも、何か撮られて困る事でもあるんですかー?」
そこで僕は、男が持っている黒のアタッシュケースを指差して。
にこっ、と笑顔を男に向けながら。
「それ、ひったくったとか?」
「この、クソガキ……」
男は怒りでわなわなと震えていた。
怒り心頭らしい。
じりじりと、近付いてくる。
僕もそれに応じて、少しずつ後ずさる。
あとは、逃げるだけだ。
そのタイミングを推し測っていた。
が。
がくん、と。
突然僕の左足の膝が、力なく折れた。
……あれ?
バランスを大きく崩して、僕は腰から地面に崩れ落ちた。
唐突に意識が朦朧とし始めた。
そうか、さっきの。
さっき、無茶をして走ったせいで。
僕の体力は、もう限界を超えていたんだ。
たった、あれだけで。
なんて、情けない。
僕は立つことも出来ずに、ただただ男を見上げていた。
男はいやらしく笑いながら、
「どうした、クソガキぃ? 怖くて、腰でも抜けたのかぁ? なっさけねぇなぁ、オイ! まぁ、いいや。おい、さっきのやつ寄越せよ、スマホ。ぶっ壊してやっからよ!」
持っていたアタッシュケースを地面に置いて、指をポキポキ鳴らしながらそう言った。
僕の返事は、もう決まっていた。
「……ない」
「あぁん? てめぇ、さっき俺を撮ったスマホ持ってんだろうが! 早く出せや!」
男は僕の胸倉を掴んで、僕に吠え立てた。
僕は言い返した。
「あんたみたいなクズに、渡すものなんて何もない」
「んだと、コラぁ!!!」
激昂した男が僕を殴り飛ばそうと拳を振り上げた、その瞬間。
「うぐぇっ!?」
何か、白い棒のようなものが男の顔に直撃した。
男は衝撃のあまり、後ろ向きに思いっきり倒れた。
地面に落ちた白い棒は、真っ二つに折れていた。
僕は折れた棒に手を伸ばし、それが何であるかを確かめた。
「これは…………大根?」
あ……。
僕はハッとして振り返った。
そこには大きなカボチャを持つ、母さんの姿があった。
その顔には笑みを浮かべて。
完全に仁王立ちで。
明らかに、怒っていた。
もしこれが漫画だったら、『ドドドドドドドドドドドドドドド』という文字が見えただろう。
っていうか、見えた気がした。
確かに『仁王立ち』というよりは『ジョジョ立ち』という方が近い気がしてきた。
疲れてるのかな、僕。
僕が男の方を向いた時には、男は既に立ち上がっていた。
「あらあらあらあら。そこのアナタ、ウチの子に何しようとしてたのかしら?」
「てめぇ、大根なんか投げやがっ――」
「聞こえなかった? 耳が悪いのかしら? いいわ、もう一度聞いてあげる。ウチの子に何をしようとしてたの?」
「この、クソババァ……!」
「……うふふ」
あー……ヤバい。
ヤバいヤバいヤバい!
「あのー…………おにーさん?」
「ったく、うっせぇな! なんだよ!?」
「多分、謝った方が……ほら、人生長いですし、命って大事ですしおs――」
「はぁ!? 何言ってんだよ!?」
「今のうちに土下座しておけばまだ何とか…………」
「土下座ぁ!? てめ、ふっざけんなよ!!」
あ。
男が、僕を突き飛ばした。
僕は地面に倒れこんだ。
「うふ、うふふふふ」
「おい、てめぇ何笑って――」
「うふふふふふふふ」
「てめぇ、無視してんじゃ――」
「あーあ、手遅れかも……」
「お前ら、何言ってんだよ……!?」
「うふふふふふふふふふふふふふふ」
「!?」
母さんの顔は、さっきから何も変わっていない。
そう、何も。
ずっと笑顔を張り付けたままだ。
まるで、仮面のような。
笑顔なのに、とてつもなく怖い。
母さんがこんな状態になったのを、僕は過去に2度見たことがある。
1度目は、父さんが浮気していると、母さんが誤解してしまった時。
2度目は、自棄を起こした僕が父さんの悪口を言った時。
それぞれ2回とも、それはそれは壮絶な事態に陥ったのだけれど。
ここで語るのは止めておく。
あまり、思い出したくない。
所謂、トラウマというやつだ。
場合によっては。
今まさに、そのトラウマがもう1つ増えてしまうかもしれない状態だった。
そんな訳にはいかない。
何とか、母さんを止めないと。
「母さん、僕は大丈夫だから! だから――」
そう言いながら、立ち上がろうとした。
けれど。
目の前の世界が大きく歪み始めた。
立ち上がれず、またしても地面に膝を突いてしまった。
「みーちゃん!」
母さんの叫び声が聞こえる。
顔を上げると、母さんがこちらに駆け寄ろうとしていた。
すると後ろから、
「おっと、近付くなよ。もし来たら、このガキの綺麗な顔に傷が付くことに――」
男は最後まで言い切ることが出来なかった。
「ぐぇぇっっ!?」
大きな衝撃音と共に、男の苦しそうな呻き声が聞こえた。
そして、何かが地面に落ちた音がして。
僕が振り向いたのと同時に、男はドスンと大きな音を立てて、仰向けに倒れた。
地面に落ちていたのは、やっぱり。
「やっぱり、カボチャだよねぇ……」
さっきから何で持ってるんだろうと思っていたけれど。
やっぱり大根同様、投擲用だったようだ。
そこの八百屋から持ってきたのだろうか。
地面に落ちているカボチャは大きく割れており、黄色い中身を辺りに撒き散らしていた。
男にぶつかった時に割れたのか、それとも落ちた時に割れたのか。
その瞬間を見ていないけれど、僕にはどちらかの見当は付いている。
間違いなく、前者だ。
ぶつけられた当の本人はというと、完全に気絶しているようだった。
もしかしたら地面に散らばっているカボチャみたいに、頭部が粉砕してしまったのではないかと心配していたのだけれど、それは大丈夫だったらしい。
トラウマ回避は成功したようだ。
本当に、良かった。
ひったくり犯の確保と、トラウマの回避が出来たという事実に安心したせいか、急に眠くなってきた。
身体に力が入らない。
倒れそうになった僕を、タイミング良く、母さんが抱え込んだ。
「みーちゃん! ねぇ、みーちゃん、大丈夫!?」
薄れゆく意識の中で。
僕が最後に感じたのは、優しい香りだった。
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