4.



目を覚ますと、そこは見た事のない和室だった。
畳の良い匂いがする。
床の間には掛軸が掛かっており、『磨穿鉄硯』と書かれていた。

どういう意味だろう?

っていうか。

何処?

あまりにも今の状態が訳分からなさすぎて、1番重要な事に気が付いてなかった。


とりあえず、僕は緩やかに光を遮っている障子に手をかけ、それを開けた。
太陽の光が眩しくて、僕は思わず目を細めた。

一瞬真っ白になった世界は、すぐに色を取り戻していた。
目の前にはとても美しい日本庭園が広がっていた。

けれど、やっぱり見た事がない場所だった。
こんな綺麗な庭、来たことあるなら覚えていそうなものだけど。

そもそもここに来る前、僕は何をしていたんだっけ?


僕は縁側に腰掛けて、記憶を辿ってみた。

母さんと下宿先を探しに行って。
カフェでランチを食べて。
そうだ、ひったくり犯を追いかけたんだ。

そこで……。

体力が尽きて、倒れたんだっけ。


「…………」


やっぱり、全然体力無いんだね、僕は。
母さんが来てなかったら、僕は無事だったか分からない。
勝手に飛び出しておきながら、結局は母さんの力を借りて。


「悔しいなぁ……」


僕はそう、小さく呟いた。


ともかく。

何にせよ、この立派な日本庭園を持つ、この家にいる理由が分からない。
家なのかどうかも分からない。
もしかしたら旅館なのかもしれない。
どっちにしても、気を失う前の記憶とは繋ぎ目が合わなさすぎる。

どういうこと……?

僕が足をブラブラさせて、唇を指で押さえながら考え込んでいると、


「あら! みーちゃん、起きてたの!? 気分はどう? 少しは良くなった?」


後ろから母さんの声が聞こえてきた。
振り向くと、縁側とは反対側の襖が開いていて。
開いた襖の間には母さんと、その他にもう1人いた。


「さっきの……おばあさん?」


そこにいたのは、さっき男に荷物を取られていた、あのおばあさんだった。


「あ、紹介するわね! こちら、『鐵 たたら』さん。みーちゃんの体調を心配して、この家で休憩する事を提案して下さったの」

くろがね?
何かカッコいい……!


「さっきは、どうもありがとうね。あの荷物には、本当にとっても大事なものが入っていたの」


そう言って、たたらさんは丁寧にお辞儀をした。
その振る舞いは、とても凛としていた。
僕は何故か焦ってしまって、思わず僕もお辞儀をした。


「本当にありがとう。そして、ごめんなさい。あなたに無茶をさせてしまったわね」
「いえいえ! 全然、大したことないですよ。それに僕は、僕は何も出来ませんでしたから……」


僕はそっと、目を逸らした。
そんな僕を見て、


「そんなことありませんよ。あなたの勇気のおかげで、私は助かったの。自分に誇りを持って」


たたらさんはゆっくり、そして力を込めて僕にそう言ってくれた。
すると母さんも、


「そうね、あの場ですぐに追いかけてなかったら、見失っていたかもしれないわ。私はたたらさんの介抱をしていたからね。流石は私の子ね!」


僕に向かって、ウインクをする。
と、急に少し怒った風になって


「たーだーしー。あんまり無茶をするのだけは止めてよね! それにこれ!」


母さんは自分のスマートフォンを僕に向けた。
そこにはさっきのひったくり犯の姿が映っていた。


「これ、みーちゃんの所に着く前に届いたんだけど。きっと写真撮ってすぐに送ったのよね?」
「……」


そう、僕は男の写真を撮ってすぐに、母さんに送っていた。
幸い、男にはバレていなかったようだけど。


「もし気付かれていたら、その場で危害を加えられていたのかもしれないのよ? そもそも、この写真、正面からいきなり撮ったでしょ? そんな無茶しなくても、私が来るのを待つか、あまり気分の良いものじゃないけれど、こっそり撮っちゃえば良かったのよ。 何も宣戦布告のように、撮らなくてもね」


母さんは腕を組んで、尚も続けた。


「写真を撮った後だって、『あ、人違いでした』とか言えばまだ収まったかもしれない。最悪、送ったのがバレてないって分かっていれば、スマートフォンを渡しちゃっても良かったのよ。みーちゃんの方が、ずっとずっと大事だもの。でも、あなたはそれをしなかった。どころか、私が駆け付けた時には、犯人はものすごく怒っていて、みーちゃんを殴る直前だった。まるで、煽られたかのように」


母さんの言う通りだった。
僕には、もう少し良いやり方があった筈だ。

でも、僕はそれを選ばなかった。


「まぁ、倒れちゃったこと以外は、大したこと無かったから良かったんだけどね。ああそう、あの犯人はちゃんと警察に捕まったわよ! 結局、パトカーが来てもあの人起きなくって、お巡りさんが2人がかりでパトカーに運んだの。やり過ぎだ、って私もちょっぴり怒られちゃった」


いや、まぁ、そりゃ怒られるよね。
あんなに大きなカボチャ、勢いよく顔に当てられたら、下手したら死ぬよね……。


「と、とりあえずっ! 無茶はしない事! いいわね!」
「うん、分かったよ……」


と、少しの間、静かにしていたたたらさんが、


「ふふふ、仲が良いのね。そう、それでね。あくまでもあなたが良ければなのだけれど、私から1つ提案があるの」
「な、何でしょうか?」
「あのね、うちに住まない? 正確には、うちの離れなのだけれどね」
「え……!?」
「さっきね、向こうでお茶をしている時にお母様から聞いたの。あなたが下宿先を探してる、ってね。実は、うちでも離れを学生さんに下宿先に提供していたことがあったの。ある事があって、ここ数年はやめていたんだけれど、あなたなら是非うちに来て欲しいって思ったの。家賃は光熱水費込で月に1万円、トイレは付いているけれどお風呂が付いてないから、本家の方で入って貰う必要があるわ。どうかしら? そんなに悪い条件ではないと思うのだけれど」
「え……それは……」


悪いどころか、これ以上なく良い条件だ。
出来過ぎていると、感じるくらい。

でも……。


「でも、本当に良いんですか? そんな条件じゃ……」
「良いのよ。あなたには本当に感謝しているの。むしろ、私はあなたに来て欲しいの。人は多い方が楽しいでしょ?」


たたらさんはそっと微笑みながら、そう言った。


「ね、みーちゃん! こう言って下さっているんだし、ね!」
「う、うん……」


僕は背筋を伸ばし、姿勢を正しくして。


「宜しくお願いします」
「はい、こちらこそ」


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