「ただいま……あれ、なんだか良い匂いがしますね」
 帰宅した康介がリビングのドアを開けた瞬間、首を傾げながら言う。キッチンに立つ私に気付いて、側に寄って来た。私の足に纏わりついていたヌイが、さっと避けて離れていく。
「千恵さん、何か作っているんですか?」
「これは野菜炒め。冷蔵庫の中身が貧相すぎて、まともなものが作れないよ」
「野菜炒めって、充分まともじゃないですか! どうしたんですか、これ」
「そろそろ惣菜に飽きてきたのと、あんまり暇すぎたから何かしようと思っただけ。……康介も食べる?」
「いいんですか!?」
 問えば、こちらのほうが気圧される勢いで驚かれた。嬉しそうに笑い、そして、私を抱き締めてくる。フライパンを手にしているせいで相手を押し退けることもできず、腰に回る腕をそのままにするしかなかった。
「な、なに?」
「いやぁ、なんだか感慨深くって。良いものですね、家に帰って、ご飯を作ってくれる人がいるって」
「康介のためじゃなくて、単なる暇つぶしなんだからね」
「はいはい、分かっていますよ。ありがとうございます」
「絶対に分かってない……邪魔だからどいて。焼きそばは作ってあるから、着替えて先に食べてれば?」
 身を捩れば、あっさりと康介は離れていく。ガスコンロの火に当てられ続けたせいか、身体が熱くて仕方ない。汗を拭った袖は、相変わらずワンピースだ。今日のそれは薄い水色で、着ることにもあまり抵抗はなかった。少しは似合っているだろうか、気になった。
「出来たよ、野菜炒め。豚肉入れたかったけど冷蔵庫になかったから、代わりにウィンナー使った。お米すらないってどういうこと? 侘しいメニューだけど我慢して……って、ああ。そっか、お惣菜買ってきちゃってるよね、ご飯作るって言ってないもん」
 野菜炒めの皿を並べようと座卓に向かったところで、康介の傍らにあるスーパーの袋に気付いた。当然、中には弁当が入っているのだろう。
「……ごめん、勝手なことして。材料ムダにしちゃった」
 急激に気分が沈んでいくのを自覚していると、康介は不思議そうな顔で私を見る。
「どうして無駄になるんですか?」
「だって、買ってきてくれたお弁当食べなきゃ」
「ああ、こんなもの」
 言って、積み重なった弁当を袋ごとゴミ箱に放り入れる。プラスチックの蓋が歪む、くしゃりという音がした。
「な、何してんの!? もったいないじゃん!」
「どうでもいいじゃないですか。僕は、千恵さんの作った料理のほうが食べたい」
 にこにこと笑って、ちゃっかり袋から取り出していた割り箸を渡される。呆気にとられているうちに、康介はもう焼きそばに手をつけていた。
「……おいしい?」
「はい。でも少しソースが薄いですね。僕、もっと濃い味のほうが好きです」
 まただ。康介は私に優しく、親切に、そしてどこか甘く接してくるけれど、ときどき容赦のない冷たい言葉を投げかけてくる。罵倒にはまったく届かないものの確実に私を否定するそれは、その裏で死んだ恋人と比較し、私が劣っていることを突き付ける。唯一口にしたことのある真澄の料理である肉じゃがは、しっかりと味が染みていてとても美味しかった。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るんですか? 千恵さんの料理が食べられて、すごく嬉しいです。明日からはスーパーで食材を買ってくることにしますね。それで、また何か作ってください」
 俯く頭を撫でられて、私はこくりと頷く。満足そうに笑った康介は、座卓から身を乗り上げて、向かいに座る私の額の髪を掻き分け、そっと口づけた。落ち込む私を慰めるようなそれに、意識せず涙が零れる。同時に湧き上がる、胸の痛む感情が私に言葉を紡がせた。
「あ、あのね、私、小さいときから親にあんまり優しくされたことなかったんだ。ネグレクトってほどじゃないけど、料理とか洗濯とか、自分でしなきゃいけないことが多かった。そのせいかな、学校だと、けっこう荒れてるグループに入ってストレス発散してた。でね、悪いことしてるのがバレると、そのときだけ親がすっごく怒るの。普段は構ってくれないくせに、罰だーとか躾だーとか言ってさ、一日中喚いたり叩いたりするんだよ。怖かったけどさ、やっぱりちょっと嬉しかった。それで、またどんどん悪いことやるの。無限ループ。よくある話だけどさ、こういうのって限度があるじゃん? 何度も繰り返すうちに親も諦めたのか、何も言ってこなくなっちゃった。それでも悪いことする以外に構ってもらう方法なんて分からなくて、なんか、今もこんな感じになっちゃってさ。お、親とはもう別々に暮らしてるのにね、変だよね。人を殺せばさ、さすがにビックリして連絡してくるかなって思ったのかも」
 矢継ぎ早に続ける私の話を、康介は黙って優しい表情で聴いてくれている。だから、私の告白は止め処なく溢れていく。
「もちろんさ、家庭環境に原因を押し付けるつもりはないよ。劣悪な環境ならそのせいでこんなポンコツ人間に育ったって言われるし、逆にマトモな環境だったとしても、それがかえって子どものストレスに……とか、いろいろ言い様はあるでしょ。そんなの意味ないよね、どうあっても結果は自分にしかないんだからさ。べ、別に面白がって彼女さんを殺したわけじゃないんだよ。そりゃあ、殺人なんてすっごい悪いことを経験して、それで親が心配してくれたら嬉しいなぁ、楽しいなぁなんて思わなかったって言ったら嘘になるけどさ。私なりに、あんなことした理由があったっていうか、事情があったっていうか……」
「嘘吐き」
 康介の唐突な言葉で、言い訳がましい私の台詞は遮られた。失言に青ざめる暇もなく、康介はいつも寝ているソファで横になる。
「せっかくお話ししてくれているのに、すみません。今日は疲れてしまったので、先に休ませてもらいますね」
口調は柔らかいのに、料理の皿は乱雑に放置されたままだ。彼がリビングで休むのならば、私は寝室に移らざるを得ない。キャウンというヌイの一声に追い立てられるようにして、寝室へ続く扉を開く。ベッドボードには、乾いた血に汚れた包丁が変わらずに置かれていた。いくらか埃を被ったそれが、今夜は無性に居たたまれなく見える。
 康介はきっと、本来はとても穏やかで優しい人間なのだろう。そして、心の底から真澄を愛していた。その愛情は今も変わらず、だから私に真澄と同じ服装を求め、真澄と同じ料理を求め、私を真澄の代わりにしようとしているのだろうか。だとしたら私は一生、康介にとっての真澄の代用品として振る舞うしかないのか。一生、真澄と比較され、真澄に届かないことに落胆され、真澄への愛情を押しつけられる。
 私を殺さないという康介の約束も、今ならば信じられた。彼が、愛しい恋人を殺すはずがない。





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