泣き疲れて、そのまま意識が途切れたのだろう。確かに眠ったはずなのに身体がいやに思い。朝日の染みる腫れた瞼を持て余しつつ、康介の出ていった扉を見つめる。いつも通り、朝に彼が出て行った後はチェーンが掛けられていないが、ふと今日は扉の様子に違和感を抱いた。
「ヌイ、ちょっと向こうに行ってて」
てこてこと歩くミニチュアダックスフントを手で払い、ドアノブに指をかける。抵抗なく回ったそれを押せば、太陽の光が溢れる眩い世界へと簡単に繋がった。康介が、鍵を掛け忘れたのだ。
部屋の内側にいるのだから、普段から鍵をはずそうと思えばいつでも出来た。けれど、自分で鍵を開けるのとはじめから鍵が開いているのとでは、まったくわけが違う気がした。もしかしたらこれは、もう外に出てもいいという康介のメッセージなのかもしれない。一旦扉を閉め、深呼吸をして気持ちを落ち着ける。吸う、吐く、吸う、吐く。心臓の高鳴りはまったく静まらなかった。
外に出られたとしても、それは直接的に自由を意味はしない。この部屋での軟禁生活を終えれば、待っているのは過酷な逃亡生活だ。住んでいたボロアパートを、もう何日も空けてしまっている。長年、一切の便りのない両親は何も気付いていないだろうが、大家は不審に思い始めているかもしれない。公園で女の死体が発見されたというニュースはまだ聞かないが、いつ見つかるとも知れない状況で、ちょうど事件前後の数日間だけ行方が知れないのでは怪しすぎる。そう、今の私にとっては、この部屋を出て行くほうが危険なのだ。
がちゃりと、ドアロックを下ろす。これから先も短くない時間をこの部屋で過ごそうと思ったら、私には、もっと康介に好かれるための努力が必要だ。追い出されないように、捨てられないように、あわよくば、守ってもらえるように。……そんな自分の思考に、呆れと疲労が募る。昼寝でもしようと寝室へ向かえば、ベッドの主であるかのように鎮座する包丁がある。既に私は、その存在に耐えられなくなっていた。憎しみを込めて柄を握り、流し台に持っていく。その場所で初めて見たときから、暴力的な血痕がこの空間にそぐわないと感じていた。もう、その元凶を取り除いてしまおう。蛇口を捻り、丁寧に丁寧に刃を洗う。すっかり乾いてこびり付いた血は、こそげ落ちはするものの輪のような跡が残る。それさえ許さずに、何度も何度も指でなぞった。スポンジは使えない。万が一にも血が染み込めば、見苦しい赤が残ってしまう。
康介好みの服も、康介が口にする料理を作る権利も、すべて私が真澄から奪った。これからは全部私のもので、私へと取って代わるものだ。唯一この包丁に呪いの如くしがみ付いている血だけが、真澄にしか残せない痕跡。それももう、綺麗さっぱり消してしまった。新品のように輝く刃が、私の心を安らかにしてくれる。
「ヌイ、お昼ご飯食べようか。昨日の余ったウィンナー焼いてあげる」
キャンキャンと、喧しくも嬉しそうな声が聞こえた。
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