「ただいまー」
「あれ、今日は早いんだね」
 ヌイを相手にボールを転がして遊んでいたら、夕方の6時前に康介が帰って来た。キーホルダーの輪を指先でくるくると回し、とても上機嫌に見える。早くて7時か、遅い日には9時近くになって帰宅するのが常なので、珍しい。もっとも、多くの社会人の現状を鑑みれば恵まれ過ぎているくらいだろうが。
「まだ晩ご飯、何も出来てないよ?」
「今日は記念日なんですよ、お祝いのために早く帰られるよう、ずっと前から仕事の調整をしていたんです。千恵さんにもいろいろ作ってほしくて、食材をたくさん買ってきてしまいました。まだ料理を始めてないなら、むしろちょうど良かったです。何を作れそうか見てもらえますか?」
「うわぁ、3袋も何買ってきたの」
「肉とか野菜とか、いろいろと。ああ、その袋はヌイ用ですから、残りのやつでお願いします」
「だってさ、ヌイ。今日のご飯はお前も豪華になりそうだね」
 ひとつだけしっかりと口の結ばれた袋は、持ち上げてみれば随分な重さだった。それを康介に手渡し、残りの2袋の中身を漁る。
「わお、牛肉! 久しぶりに見たなぁ。って、あれ、豚肉も鶏肉も入ってる。合挽き肉まで……肉の種類をコンプリートするつもり?」
「さすがに羊や蛙は、スーパーでは見つけられませんでしたけど」
「野菜もたくさんあるなぁ……思い付いたメニュー、何でも作れそう。適当に挑戦してみるから、期待して待ってて」
「はい、楽しみだなぁ。じゃあ僕、先にヌイのご飯をあげますね」
「犬は食事の順番で序列を付けるらしいよぉ」
 ハンバーグにチキンライス、シーザーサラダ、考え得る限りの華やかで豪勢な夕食に思いを巡らせながら、高揚した気分でキッチンに立つ。
「ヌイ、お前も今日は良い肉をあげるね」
「私、お昼にウィンナーあげちゃったよ、太るかな」
「上等な肉は別腹でしょう」
楽しげに笑う康介の様子に、私も嬉しくなってくる。自然、料理にも気合が入った。
 ディナーという呼称が相応しい品々が完成した頃には、7時をとうに回ってしまっていた。急いで盛り付けた皿を、康介が座卓まで運んでくれる。些細な気遣いがとてもくすぐったい。
「ヌイはもう食べ終わっちゃったか。それ、骨付きカルビ?」
「僕たちも食べましょうか。真澄には格下に思われてしまったかもしれませんね」
「待たせた分の味は保証するよ……ん、何?」
「はい?」
「今、真澄って……」
 唐突に出された名前に、表情が凍る。
「いやだなぁ、真澄のことを忘れたんですか?」
 忘れるわけがない、私と康介に憑り付いた亡霊の名だ。殺さなければよかったと後悔し、同時に殺してよかったとも思う女。ふんわりとした長い髪と、裾の揺れるワンピースが似合う女。目玉を裏返し、涎を垂れ流しながら死んだ女。
「千恵さんは薄情ですねぇ。ほら真澄、お前も文句を言っていいんですよ」
 からかうように言って持ち上げたのは、満腹に微睡んでいたヌイの身体。睡眠を邪魔されたせいだろう、不満気に鼻を鳴らしている。
「ほら、真澄も千恵さんは酷いって。さあ、せっかく作ってくれた料理が冷めてしまう、いただきます」
 両手を合わせて宣言した後、箸へと伸ばされた康介の手を、私は皿ごと払い除けた。がしゃがしゃべちゃり、食器と料理の耳障りな音が響く。
「何なの、ますみますみますみって!? それはヌイじゃん、真澄は私が殺して埋めた、死んだんだよ! 死んだ奴のことなんてどうでもいいでしょ、早く忘れなよ!」
「この子の名前は真澄ですよ」
「嘘!」
 座卓を両拳で叩き、感情のままに喚き散らす。もう、私は我慢の限界だった。
「こんなところに連れてきて、閉じ込めて、振り回して! 私だって頑張ってるじゃん、慣れないヒラヒラした服を着て、康介好みの料理を作って、ヌイの面倒だって見てる! なのに、康介は全然認めてくれない。私、そんなに真澄より駄目? 真澄以下? 代わりにもならないの!?」
 手が痛くなっても、私は座卓を叩き続けた。康介が私に優しくしてくれる内は、どんな理解不能を押しつけられても我慢できた。安全と平穏に身を置くための取り引きとして、康介の好きにさせるし、気が向けば尻尾を振ってやってもいい。けれど時折、康介が突き付けてくる真澄の影には耐えられなかった。良心の呵責ではない、自らの居場所を侵される感覚が恐ろしかった。この部屋にいる私は異質な存在で、理不尽に生まれた欠落を取り繕った偽物で埋めているに過ぎないと思い知らされるのが苦しかった。
涙がぼろぼろと零れ、私の視界を滲ませる。正面には、ぼやけて歪んだ康介が座っている。
「千恵さんは、真澄の代わりになりたいんですか?」
 くすりと笑われたのが、見えずとも分かった。
「真澄みたいに、僕と笑いあって、僕と触れあって、僕に優しくされて、僕に愛されたいんですか?」
 頷く私の頬に手が添えられ、涙を払われる。幾分クリアになった眼前、とても近くに康介の顔があった。額、頬と辿る唇は、私のそれに重なり、離れてはまた重なる。背に回された腕が寝室へと誘った。その先には、しばしの間その主を半分にしていたダブルベッド。そっと押し倒してくる康介の首を引き寄せ、私からも口づけた。
 僅かに身を離した康介は、ベッドボードに置かれた包丁を見遣る。
「これ、洗ったんですか」
「うん、もう見ていたくないよ。指も切られたし、私、これ嫌い」
「……そうですか」
 康介が満足そうに笑う。嬉しくて、私も笑った。身体を這う手のひらがとても心地良い。触れてくる康介の手も、囁く康介の声も、真綿で包むような康介の愛情も、すべて私のものだ。康介の背に回した腕で、より強く抱き締める。
「ねえ、私、康介が好き」
「もっと言ってください」
「大好きだよ」
「もっと」
「愛してる」
「もっと言って」
 求めに応えるために、私は掠れた声で叫んだ。
「私、康介がいないと生きていけない!」
「僕もですよ」
 耳元の低く優しい囁きが胸を満たす。更なる愛の言葉を求めて背に這わせた腕は、しかし、不意に身を離されたせいで空を掻いた。その手は包丁を握りしめ、ゆっくりと、私に見せつける位置で留める。たとえ汚れひとつなくとも、反射する光のないところでその刃は輝かない。けれど鼻先にまで突き付けられれば、その鈍い銀色を見て取ることはできた。
「あの日、喧嘩なんてしなければよかったって、ずっと思っていました。『結婚したら新しい部屋に引っ越そう、けれどペット可のところだと探すのが大変だね』なんてヌイを邪険にするようなことを言ったから、真澄は怒ってしまった。真澄はヌイをとても大切にしていたのに、くだらない冗談で彼女を傷つけてしまった。今日、婚約指輪だって渡すはずだったのに」
 間に包丁を挟んだまま、康介が身を倒してくる。結局、私を殺さないという言葉は嘘だったのか。どんなに頑張っても康介の目には真澄の影しか映らず、私は真澄に勝てない。けれど、康介に殺されるのならば私は受け入れることができる気がする。陳腐な復讐の果ての死でも、思い入れのない他人に殺されるのではなく愛した人に罪を裁かれるのならば、私はきっと幸せなのだろう。
穏やかな気持ちで瞼を降ろした私の唇を、深く塞がれた。口内に言葉が吹き込まれる。
「僕も、真澄がいないと生きていけない」
 いつまでも離れない唇の息苦しさに、目を開く。その先には、ほとんどが白と赤に占められた瞳があった。康介の頭がゆっくりと崩れ落ち、はっはっという犬じみた荒い呼吸が耳朶を叩く。ごとり、包丁の落ちる音。ワンピースがぐっしょりと濡れて重くなる。
 康介の喉は、深く、真っ直ぐに切り裂かれていた。ひゅうひゅうという隙間風のような息がどんどん弱くなっていく。それらは、あの公園で見た死とまったく同じだった。
「や、やだよ……康介が死んじゃう」
 混乱して触れた喉元からは、噴き出すほどに血が流れ続けている。半開きの口からも、唾液か血か分からない液体が溢れていた。痙攣する身体は、それでも何かを伝えようとしているのか、私の腕を痛いくらいに掴む。ベッドに沈み込んだ康介は、泣きながら見下ろす私を拘束しながら舌を動かした。
「あいしてる」





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