「――さん」
うるさい、私は穴なのだ。
穴に話しかけるでない。
「――さん、診察です」
受け付けのカタツムリ女史の声で、私は自分の診察時間がきたことを知った。
「穴になってる場合じゃありませんよ。ヤドカリ医師がお待ちです」
しまった、穴になんかなるんじゃなかった。
これでは診てもらえない。
「――さん、どうしました。診察の時間ですよ」
今度は別の、女史より幾分低い声がした。
おそらく当のヤドカリ医だろう。
「お、こりゃいい穴だ。湿度、狭さ、暗さ申し分ない。よし決めた。今日からここが私の住処だ」
冗談じゃない。
ヤドカリなんかに住まれてしまったら穴ではなく、家になってしまう。
「先生、困ります。仕事してください」
「うるさい、医者なんかやってられるか。私はここで静かに暮らす。冷たく心地よい床で遠い海を想うのだ」
二匹は私という穴の中で勝手に言い争いをしている。
――なんということだ。
私はヤドカリの終(つい)の住処(すみか)として一生を終えようとしている自分を恥じ、絶望した。
ああ、穴があったら入りたい。
「――さん、聞いてるんでしょ? お願い、先生を穴から出して」
この声はカタツムリ女史か。
そんなこと言われても今の私にはどうすることもできない。
私という穴は絶望に包まれてますます冷たくなったようで、ヤドカリの阿呆は
「うーん気持ちいい」
と、すでに寝言を呟いている。
呟きたいのは私のほうなのに。
「先生をここから出してくださるんでしたら、あなたがまた呟けるようにアタシが何とかしますから」
またとない話だった。
また?
はて、私は以前に何かを呟いたことがあったのかしら。
「それでいいですね? いいということにしますよ?」
まあ今はそんなことどうでもよい。
過去とは人の持つものであって、穴である私はただ冷たくあるべきだ。
返事すらできない私の返事を汲(く)んでくれた女史は、私の意識をアメフラシにしてくれた。
身体は依然として、ヤドカリの住処だ。
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