「さ、先生を穴から出してください」

アメフラシになった私に女史が言った。
こうして改めて見ると、なんとも彼女は魅力的だった。
上目づかいの触角がチャーミングに揺れている。

「その前にひとつ聞きたい」

「何?」

「君の名前は?」

私と彼女の身分など海水魚と淡水魚の生態ほどに違うのかもしれないが。
なに、構うものか。




「名前なんか聞いてどうするの」

「君を呼ぶことができるじゃないか」

好きに呼んだら。
と、カタツムリ女史は憂鬱(ゆううつ)そうに顔を歪めた。

「名前なんかなくても、バラという香りはそのままなんだし」

うむ。
今だかつて、こんなにもシェイクスピアの似合うカタツムリがいたであろうか。




「あのヤドカリの阿呆を穴から出したら、名前も教えてくれ」

この際プライドなど二の次、三の次だ。
必死に食い下がる私を見かねてか、彼女は仕方なさそうにうなずいた。

「先生を出してくれたらね」

貝の医者がいなくなったことで待合室が騒がしくなり始めた。
受付の彼女はまもなくその対応に追われつつあった。




ああ、悲しい。
約束というのは結ぶときがいっとう悲しい。
私は業務に追われる彼女の殻(から)を振り返りながらも、その建物を後にした。
私はこの先幾度と無くあの殻を思い出すだろう。
表情の見えない彼女の殻は、それ故にとても美しく右にうずを巻いていた。
恵比寿の町並みはいつもより静かな土曜日であった。





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