物語の中でトンネルを抜けると雪国があるらしいが、
冷蔵庫を抜けた先には工場があるらしい。
私は自分の仲間というべきなのか多くのアメフラシたちが、
鍵が流れるベルトラインの側面に立っている様をぼんやりと眺めていた。
彼らは金気臭い鍵ひとつひとつに品番プレートをつけたり、
何の装飾もない木製の箱に詰めたりしていた。
「おいこら、仕事をさぼるんじゃない」
突然、私は誰かに背中をつかまれて他のアメフラシたちと同じように工場ラインの側道に立たされた。
「君はここで鍵を冷やして形を固めてくれ」
つかんできたのはウミウシだった。
どうやらここの監査員らしき生物のようだ。
そうして私は働くことになった。
私は先の短いノズルで、流れてくる鍵に次々と冷却用スプレーを吹きかけていった。
なるほど。
世界中の鍵はこんな風にアメフラシの手、いや触覚で作られていたのかと納得する。
平気で鍵を使っていた人間の時分には思いも寄らなかった事実だ。
大げさかもしれないが、真理の一端を目の当たりにしたような気分だった。
だが、いかんせん退屈だった。
真理とは退屈でできているのか。
ほんの10分ほどノズルを握っているだけで飽きてきた私は、隣の疲れ果てた顔をしたアメフラシに話しかけてみた。
「休憩はまだかな」
「そうだな、あと5時間ってとこじゃないか」
冗談じゃない。
だいいち、鍵ばかりつくってどうするのだ。
疲れ顔のアメフラシは言った。
「それが人生ってやつだよ」
「どういうことだ?」
「だからさ、人生ってやつは開けるドアもない鍵をつくるようなものなんだよ」
よくわからんが、とにかくこの工場からは早いとこ退散するべきだ。
「なあ、一緒に逃げよう」
「逃げていいのか?」
疲れ顔は心底驚いているようだった。
「いいに決まってる」
「いや、やっぱり駄目だ」
首の代わりに触覚を振った疲れ顔は続けた。
「逃げたらすることがなくなる。誰にも必要とされなくなる」
彼はどうやら私より幾分この工場に思い入れがあるらしい。
私は訊いてみた。
「君はここに長いのか?」
「もう20年ほどかな」
都合が良い、と思った。
「なら教えてくれ。ここに『さて』はないか? 私の物語は今、転がることを必要としているんだ」
「『さて』があるかどうかわからないが、接続詞の鍵なら向こうでつくっているはずだよ」
疲れ顔は工場のさらに奥を指して言った。
ありがたい。
私は道を師事(しじ)してくれた彼に何かお礼をしたかった。
「そうだ、これを」
それはあの憎きヤドカリの阿呆に土産として差し出す予定だった、江ノ島の海水を詰めた小さな瓶だった。
「ありがたい。久しぶりの海の匂いだ」
彼は気持よさそうにそれを飲み干した。
今までろくな目に合ってこなかった私ではあるが、彼は本当に気のいい奴だった。
いい奴は皆、不幸なのだ。
私は彼と再び会う約束をして泣く泣く別れた。
やはり約束は結ぶときがいっとう悲しいものなのだ。
私はウミウシに見つからぬよう奥へと進んだ。
するとなるほど、そこには大量の接続詞たちが鍵となってラインを流れていた。
「だから」の鍵。
「それから」の鍵。
「しかしながら」の鍵。
「まず」の鍵。
中でも一際(ひときわ)小ぶりな鍵が、ラインの隅で光り輝いているのを見つけた。
私にはわかった。
これこそが「さて」の鍵だ。
「おい、何をしている」
まずい、ウミウシの連中に見つかった。
私はその求めていた鍵をひとつだけつかむと、できる限りの速さで走った。
うむ、遅い。
やはりアメフラシの身体はスピード競技に向いてない。
追いつかれるかと思って振り向くと、なんと奴らも遅い。
どうやら運にはまだ見放されてはないようだ。
「待て」
「誰が待つものか」
工場内は今やパニックになっていた。
「待て、その鍵がなければどこかの物語が転がることなく終わってしまうんだぞ。
お前にその責任がとれるのか」
そんなもの、とれるわけがない。
しかし。
「私にだって物語があるのだ。誰にだってそれはあるはずだ。他人の物語までかまってられるものか。
そして私には、私の話に関わった奴らを何とかする義務がある」
「その覚悟があるのか」
いつの間にか私たちは追いかけっこをやめていた。
「ある」
私は大声で叫んだ。
今や工場中のアメフラシたちが私に注目していた。
ラインは止まり、冷たい空気の流れる音がした。
静けさの音だ。
「本当か? その鍵の届け先を見てみろ」
言われた私は手元の鍵に貼られたシールを覗きこんだ。
ああ、なんということだ。
そこにはあの、歯医者の友人の名前が印字されているではないか。
「どうだ、それでもお前はその鍵を自分のために使うというのか」
ウミウシたちは私の目の前で薄ら笑いを浮かべていた。
「かまわん」
「なに?」
そのときである。
あの疲れ顔が、背後からそっと冷却ノズルを私に手渡してくれた。
「かまわない、と言ったんだ」
そう叫ぶと同時に私は冷却ノズルを噴射させていた。
ウミウシたちの足元が凍りつく。
「あとはまかせてくれ」
疲れ顔が言った。
「すまない」
「なーに、俺もすぐにここを出るさ。あの海水と、あんたが見せてくれた覚悟のおかげだ」
疲れ顔はもはや疲れ顔ではなくなっていた。
「ありがとう」
私は再び走った。
走っている間、助けてくれた彼のことを考えた。
――次に会うときまでに呼び名を決めておかねばなるまい。
江ノ島の磯の香りに包まれた彼の名を。
そうこうしている間に工場内を抜け、冷蔵庫の中へ戻ってきた。
暗い室内は何かを予感させてくれるような稼働音がした。
寒い。
――なるほど。
私は全てを把握(はあく)して、持っている鍵を冷蔵庫の内側にある鍵穴に差し込んだ。
がちゃり。
「さて」
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