鍵が回り、冷蔵庫を開ける。
そこは『仮の宿』医院の中であった。

「どこから入ってきたんですか」

訝(いぶか)しげな、しかし懐かしい声はカタツムリ女史のものだ。

「黙って入ってくるなんて、ちょっと失礼よ」

「いろいろあってね」

建物の中は閑散(かんさん)としていて、患者は一匹もいなかった。




「間に合ったのか?」

「間に合ったかどうかは無事に先生を出すことができてから決まるわ」

任せてくれ、と私は「さて」の鍵を握りしめて私の本来の身体である穴へと向かった。
彼女も後からついてきた。
途中、私が触覚を差し出すと彼女は少し止まって、それからゆっくりと自分の触覚をつないでくれた。




それは不思議な時間だった。
穴に辿り着くまでのほんのわずかな距離が、私たちのデートの時間であった。
お互い、無言になった。
ただひたすら相手の触覚にある温もりだけを手がかりに、言葉のない会話をしていた。
いつまでもこの時間が続けばいい、とさえ思った。
私はわざとゆっくりと歩いた。




やがて彼女が口を開いた。

「何もかも無事に終われば、あなたは人間に戻るのね」

「そのようだね」

「戻ったら、まずは何をするの?」

まずは医者に閉じたままの口を開けられるようにしてもらわねばなるまい。
「さて」の鍵も歯医者の友人に届ける必要があるだろう。
そして。

「やることはたくさんあるな」




「そう」

人間も大変なのね、と彼女は神妙な声を出した。

「いや、なかなかどうして、アメフラシも苦労してることがわかったよ」

「カタツムリもね」

二匹の乾いた笑いが冷たい穴の中に響いた。
ヤドカリのいるところまでもう少しだ。
ふと彼女が足を止めた。

「どうした?」

「もしも」

もしもの話よ? と女史が言う。




「人に戻ることができなかったら、絶望する?」

「どうだろう」

それはアメフラシに失礼な気がして、私はお茶を濁した。

「なぜ?」

と、訊くと

「なんとなく」

と、彼女。

「そうか」

もしかしたら世界中の扉はすべて「なんとなく」の鍵があれば開いてしまうかもしれないな、
と、私はなんとなく思った。




やがて私たちはひとつの扉の前に辿り着いた。
これこそが私とヤドカリ医にとっての「さて」の扉だろう。
私は小さな鍵を取り出した。

「さっきの答えをまだ訊いてないわ」

どうやら選択権はあるらしい。
そしてこれがその権利を行使する最後のチャンスだということも。
なんとなく、理解できた。
アメフラシか、人間か。




物語には必ず終わりがある。
終わってほしくない話もあるということを今、私は知った。
いつまでも女史のそばで迷っていたかった。
握りしめた鍵はまるで冷蔵庫の中のように冷たかった。
振り返って、もう一度彼女を眺める。
その殻は相変わらず右に美しいうずを巻いている。




扉が開けられるときを、二匹で待つことにする。
それは突然やってきた。
がちゃり。

「さて」




                  おわり

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