5.
「あ、お母さん? 昨日のメール読んだよぅ。色々とさんきゅー」
「んー? そっちに帰るのはまだまだ先になりそう。お父さんをなんとかなだめておいてちょ」
「うふふ。こっちの学校に来ただけで、別にお嫁に行くわけでもないんだし、お父さんにも子離れして欲しいよねぇ」
「うん、じゃ、またねー」
優は電話を切り、テーブルの上に置いた。椅子に乗せてあるカバンを手に取る。
8月1日。日曜日。
アパートのドアを出て鍵をかけ、ノブを揺らしてロックされた事を確認してから、アパートの階段を降りて外に出た。
セミが鳴いていて、道の向こうに入道雲が立ち上っているのが見えた。
結局優達の住む街は、地震の震源地から離れていたことや、津波の被害が無かった事などあって、2か月近く経った今では、以前の生活を取り戻せていた。
「しかし、あっついなぁー」
谷川の家まで続く道をタクタクと歩きながら、一人思わず呟いてしまう。まだ午前9時半だというのに、照りつける太陽は容赦なく優の汗を光らせる。
不定期ながら恒例となった谷川の家での映画鑑賞が、今日に設定されているのである。
T字路にさしかかると、そこでるりがブロック塀に軽くもたれかかりながら、ブランコみたいに優を待っていた。
「るりー」
呼んで手を振ると、るりはブロック塀から身体を起こし、こちらを見て笑った。
「おはよう、ゆうちゃん」
「ごめんね、いっつもるりが先に待ってるよねぇ。こういう待ち合わせ」
「いいよ、私が勝手に先に来てるんだしさ」
二人で連れ立って谷川の家への道を歩き始める。
「左近寺君とは最近何か、あった?」
優と歩調を合わせながら、るりが訊いてきた。
「夏休みだけどねぇ、別に、特になにもって感じだよぅ」
左近寺くんが、優を仲川と呼び捨てるようになって久しい。
「いつだろうね、告白してくるの」
7月に入るころにはもう、るりと左近寺くんはただの友達に近づいて、るりの立ち直りの速さに優も拍子抜けていた。
どうやら優のことを好いているらしい左近寺くんとの関係を、彼女は今面白そうに期待している。
「監視カメラみたいな事言うのやめてよぅ」
るりの軽口にも、優はどういう表情で返せばいいのか困っていた。親友が2か月前まで好きだった人なのだから。
でも、るりの表情に裏表は感じなくて、心の底から楽しんでいるようにも見えた。るりは、表情を隠そうとしても隠しきれない所があるけれど、今の表情に曇りは無かった。高校に入学して初めてできた友達は、失恋を乗り越えて以来優との接し方も少し変わったように見える。光の全反射みたいに、たぶん素敵な方向に。
「ゆうちゃんは? 自分の気持ち、分かってきたのかな」
「さぁねぇ……」
優は少しだけ頬を染めて笑うと、それだけ言った。
谷川家のリビングに入ると、エアコンが効いた部屋と、吾朗が座っているソファが二人を出迎えた。谷川は毎回恒例の麦茶を全員に出し、しばしの雑談タイムに入る。優は吾朗の隣に座り、その両脇に谷川とるりが座った。
「さて、今日の映画は楽しみにしてたんだぞ、瑠璃、早く見よう」
全員のグラスが半分ほど空いたところで、谷川が言った。
「まったくー、こんな名作を見ていないなんて、信じられないよ」
小さくぼやきながら、るりがいつものカバンから取り出したDVDのタイトルは、『時をかける少女』。
というかるりは大抵の場合、DVDの提供者になっているけど、自分が見たことのある映画ばかり見て楽しいのかな。モノレールみたいな気分になりそうだけど。
「『サマーウォーズ』は映画館で見たんだけどさぁ、こっちは見てなくてよー。吾朗は?」
「あー、うん、そうだな」
なぜか左近寺くんは少し言い淀んだ。
「おれもサマーウォーズしか見てない。だから今日のソレは、池田さん以外みんな見てないんじゃないか? 仲川も見てないんだろう?」
「そうだよぅ。だから今はキノコみたいにわくわくしてる」
「ありえないなぁ、まったく」
るりがまたぼやいて、DVDケースを開けた。
るりがDVDデッキを開こうとしたところで、リビングがクラクラッと揺れた。ここ最近ではもう頻繁過ぎて慣れっこになってしまっている余震は、最低でも4日に1回、身体を揺らす。実を言うと優は未だに余震がくるとヒヤリとするのだが、他の3人は特に何を気にする風でもなかった。
「左近寺くん」
るりがソファに戻ってリモコンを手に取るのを見ながら、優は、何かを考えるように俯いている左近寺くんに声をかけた。
「んっ?」
反射的に顔を上げて優の方を見る左近寺くんのこの顔は、最近ではもう見慣れた。パッケージされた桃のような、この顔は。
「んーん、また後でいいや」
こちらを見て蒟蒻ゼリーみたいに笑っているるりに、DVDの再生を促して、優は話題を切る。
黒い画面に赤いラインが映った。
6月12日、12時43分の地震は、今でも優の記憶に鮮明に残っていた。左近寺くんに呼ばれて天井を見上げた時の感覚も、背中が感じた恐怖まではっきりと思い出せる。
でも、あぁ――。
もしかしたらわたしは、あの時に左近寺くんに惹かれたのかな。それは、呼び捨てられたことも含めて、左近寺くんの気持ちを一番近く感じた瞬間だったからかもしれない。わたしを見つめていた真剣な目も、目の前にキャンバスを置かれれば精密な油絵で再現する自信がある。伝統工芸品みたいに。
左近寺くんは、普段からちょっと不思議な雰囲気があるから、だからこそ、そうやって間近で感じた彼の叫びは、新鮮でストレートに優の心に届いていた。
でも、るりが左近寺くんにフラれたことを電話で聞いた時、わたしは素直にショックだった。だから、わたしが具体的にいつ、左近寺くんを見るようになったかは自分でも分からない。ただ、もしかしたら親友が好きだった人、っていうのは、わたしが左近寺くんに惹かれる理由の一つになっているかもしれない。るりはわたしにとって、とても大切な友人だから。
オレ――、未来からきた って言ったら……、ワらう?
テレビから聞こえて来たセリフが、物想いに耽りながら画面を見つめていた優を現実に引き戻した。
ストーリーの不思議を一気に論理づけるそのキャラクターのセリフは、初雪みたいに衝撃的で、彼の言葉に引き込まれる。
物語の中で、色々なところに引っかかりを感じながら、優はこの映画を見ていたけれど、それはこのセリフで解け流れた。驚きに息を飲む。
――彼は未来人だったのか。
その告白を、左近寺くんはどんな顔をして受け止めたのだろう。チラリと隣に座っている左近寺くんの顔を窺う。
左近寺くんは、驚愕に悲しみを混ぜた表情で、眼に涙を浮かべていた。
優がその表情に驚いている内に、彼の右の眼から涙が一筋流れ出した。
帰り道、るりは寄りたい所があると言うので谷川の家の前で別れ、優は左近寺くんと並んで歩いていた。
あの後もう一本映画を見て(監督つながりで『サマーウォーズ』)、少しお喋りをして。時刻は5時を過ぎているが、真夏の今、まだ太陽は赤くなく、視界も明るい。
「仲川、髪伸びたよな」
谷川の玄関前から数メートルのところで、左近寺くんがポツリと言った。
「うん、入学した時からずっと伸ばしてるんだよぅ」
4月には肩くらいまでだったが、今では背中の真ん中にまで優の黒髪は伸びた。るりはもっと長いのだけど。
「左近寺くん的には、女の子の髪はどれくらいが好みなの?」
自分と頭一つより大きい身長差がある友達以上を、横顔で見上げながら優は訊く。
「あー、いや」
見上げた左近寺くんの顔は少し優から目をそらし、前を見た。
「あんまり、髪の長さとかは気にしない」
「ふぅーん」
じゃあ、何を気にするの? とは、訊けなかった。
「でも」
「んー?」
「仲川の今の髪型は、良い、と、思うよ。髪が長い方が似合うのかな」
「えはは、酢豚のパイナップルみたいな事言うね、左近寺くん」
日は傾き始めてはいるが、まだ日差しは強く、西向きに歩いている二人には少し眩しく、暑い。
「朝」
「うん?」
「映画を見る前に、何か言いかけてただろ。何の話だったンだ?」
「あぁ」
訊いてもいいものか、躊躇っている質問だった。
左近寺くんは、なぜ今の高校に転入することになったのか。
どうやらそれなりの事情がないと、高校の転入というのは認められにくいらしいし、それがプライベートなものなら質問するべきでもないとも思う。
ただ、4月30日以前の彼を知りたいという気持ちももちろんある。
「オレの、前いた高校の話か」
どう口にすべきか迷っているうちに、左近寺くんがピタリと当てた。
「左近寺くんって、たまに凄く勘いいよね」
力を抜いて笑って、優は言う。
「でも、こういうのって、訊いてもいいのかなぁって、悩んじゃうんだよね」
「気持ちはわかる」
小さい優の歩幅に合わせて、左近寺くんも若干ペースを落としているのだろうか。二人はゆっくりと路地を歩いた。
「オレは、うん。まだ言いたくないな」
優の質問に、そう答えた。
「そっかぁ。それならそれでいいんだよぅ」
優は軽く笑って受け流した。触れられたくない場所っていうのは、誰にでもあるだろう。
しばらくの間、無言が続いた。
左近寺くんは何かを考えているようだった。
「お互い一人暮らしなわけだけど、余震とか、大丈夫か?」
「だめだよぅ、ぶっちゃけた話、わたし地震苦手みたい」
あれだけ大きな地震を体感したのは初めてだったこともあり、優は若干のトラウマをつくっていた。
「えーと、6月12日だったか、あれ」
「12時43分だね、うん。一人暮らしだからさ、部屋にいる時、余震来ないかいつもヒヤヒヤしてるんだよねぇ。うふふ、左近寺くん、いっそ一緒に住まない?」
優が冗談を言い終わる直前、左近寺くんは唐突に足を止めた。少し前に出た優は、彼を振り返って見上げる。
彼との身長差を埋める首の角度を、優はもう覚えていた。それと同時に、左近寺くんが少し瞳を揺らすことも。
振り向いた勢いで、彼が似合うと言ってくれた長さに伸びた髪がふわりと流れた。
少しずつ赤くなり始めた西日が、左近寺くんの顔を照らす。優の影は彼の胸にまでしか落ちない。
左近寺くんの目は必死に何かを抑えつけていて、何かを言おうとしてやめた。
それでも彼は口を開く。
「仲川」
「なに?」
一度瞬きして目を合わせると、左近寺くんは少し震えた声で言った。
「お前さ」
今日二度目、左近寺くんの涙を、優は見た。
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