現実とファンタジーをごっちゃにしているわけでも、今日見た映画に影響されたわけでもない。
非現実的な事を言っているのは分かっているし、それが仲川にとって、――優にとって。触れられたくない場所である事も分かっている。
だが、吾朗は優を諦めるために、その確信を口にするしかなかった。
最近、どうやら自分に好意を持ってくれているらしい優と、線を引くために。
彼女が未来に帰る時、笑って別れるために。
大好きな優と。
「え……っと――?」
優のいつもの軽い口調はどこかに溶けて、その静かな狼狽で彼女は瞳を揺らした。
最初の違和感は、中間テストの部活動停止初日にあった。
スターウォーズの上映会の日付けを決めた時、優は会話を遮って日付けを訊き返した。
普段、会話の調和を乱さない優のその言葉は、吾朗にとってとても意外で、6月12日は何か意味のある日なのだろうかと妄想していた。もしかしたら彼女の誕生日か何かなのかもしれない、その日、サプライズ的に口にしようという画策なのだろうかと。優ならやりそうなことだ。
6月12日、吾朗は彼女を観察していたが、誕生日だとか記念日だとか言い出す気配は無かった。ただ彼女は、谷川の家に着いてからずっと、時間を気にしていた。映画を見ながらもチラチラと、デジタル時計に視線を走らせていた。
あの地震が起きた瞬間も、優が卓上時計を確認していたのを吾朗は覚えている。
とにかく、6月12日の地震を、優は事前に知っていたんじゃないかと、記憶していたんじゃないかと、吾朗は思っていた。日付けはともかく、発生した詳細な時刻なんて、吾朗も覚えていない。
なぜか。
その答えが、今日見た映画の中にはあった。根拠は薄いが確信できる解答だった。
そしてきっと、あの地震がこの地域にそこまで大きな被害をもたらさないことを調べていた。むしろ、だからこそこの地域の高校を選んで、何らかのタイムマシンが開発された未来から進学してきた。あの日の優の態度を今思い返せば、そうだろうと思う。
「いつ、帰らなきゃいけないんだ」
優の困惑顔にかぶせて、吾朗は訊く。
夏休みに入って、会う頻度が減ったせいだろうか。吾朗が転入した時よりも優の髪が伸びていることを、今日実感した。
映画の言葉で言えば、タイムリープ。
優が使ったそれの、そのメカニズムを吾朗は知らない。ただ、優は過去にあっても時間経過の影響を受けている。だから、そう長くこちらにもいられないだろう。
未来で待っている家族も、友人も、もしかしたら優を好きな人だって、いるはずだから。
優は、いつか帰らなければならない。
あの映画を見ながらその事に気付いて、いつの間にか涙が流れていたことを知ったのは、雫が左手に落ちた時だった。
狼狽を飲み込んだ優は、いつもの柔らかい笑顔を浮かべて、口を開く。
「時かけごっこ?」
吾朗は答えず、優の目を見つめる。
「いや、だって。リアクションに困るよぅ。そういうことは冗談顔で言ってくれないと」
「変な事言ってるのは、分かってるんだ」
「困らせないでよね。ジャングルジムじゃないんだからさ」
「未来にもあるのか、ジャングルジム」
吾朗が表情を変えずそう訊くと、優はついに俯いてしまった。
「てっきり、告白でもされちゃうのかな、とか、期待しちゃったのに」
「仲川は、いつか帰らなきゃいけないだろ」
「意味分かんないよ……何言ってるの、左近寺くん」
優の声音に、吾朗は高ぶっていた感情を一気に冷やされた。
少し暴走している自分に気付く。
「いや、うん……ごめん」
「んーん……」
しかしそれでももう遅く、優が顔を上げることは無くて。
優と吾朗は、その路地で別れた。
77.
吾朗はいつも通りの時間に研究室を出て、大学近くの喫茶店へ向かった。
毎週水曜日は昼食をそこで食べる。
カランカランという音と共に、クーラーの利いて涼しい店内に入ると、顔見知りのマスターが軽く笑って会釈した。吾朗も少し顔を揺らす。
狭い店内を見回したが、今は吾朗だけらしい。
「音楽変えたんすね」
「あぁ、8月になったからね、夏らしいのにしたよ」
マスターは吾朗がいつも注文するメニュー(マスターの気まぐれサンドイッチとアイスコーヒー)を、すでに作り始めていた。
店内のBGMは、青空と入道雲を思わせる伸びやかなインストゥルメンタルで、マスターの狙い通りこの季節にぴったりだった。
「……――」
聴き覚えがある。
カウンターに座った吾朗は目を閉じて、音楽に耳を傾けた。
あぁ、あれか。
大好きだった女の子と別れてしまうきっかけになった映画の、オープニングとエンディングシーンで使われていた曲だ。
ここ最近、ちょっとしたことですぐに目頭が熱くなるようになった。
マスターに見られると恥ずかしいので、瞬きをして誤魔化す。
6年前。
あれから、優とは少しずつ疎遠になり、谷川と池田さんは理由も分からないままに、二人の仲をなんとか取り持とうとしてくれたのだが、1年生の二学期中頃にはもう、二人は友達とすら言えないほどにお互いを避けるようになった。
2年生、3年生と、吾朗の予想に反して優はこっちに残り続けた。だが、気まずくなっているという事実そのものが、吾朗の確信が正しいということの根拠だと思っていた。そして案の定、高校の卒業と同時に、優は姿を消した。
笑顔で別れることは、結局できなかった。
きっと、前代未聞の被害をもたらしたあの地震の様子を、影響を、観察・記録するために、優はこちらへ来たのだろうと吾朗は思っている。記録映像はきっと、未来にも色々と残されているはずだけれど、優はその肌で体感したかったのだろうか。それはちょっと不謹慎じゃないかいと、文句の一つも言いたくなる。
彼女が今、ここにいたのなら。
言いたい事は、たくさんある。
吾朗は東京の大学へ進学して、今は芸術を学んでいる。と言っても絵を描いたりするわけではなく、芸術史とか芸術批評とか、そういう方向の勉強だ。一度実習的な講義も履修したけれど、半期を待たずに放棄した。自分の絵心の無さには呆れる。誰かさんと違って。
カランカランと、喫茶店のドアの開く音がした。
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