それが結局、山中を野根と二人で歩く羽目になってしまった。
進路をさえぎる枝を押しやりながら、深い溜息をつく。
原因はやはり――これも野根の言葉なのだが――
『木成くんさ。二学期の中間テスト、去年の問題がどんなのだったか見たくない?』
すごく……見たかった。
今年の一年生にも同じ問題が出題されるとは限らない。担当教員が違うのだ。出題も違って然るべきだろう。
けれど、傾向を見極められるのは魅力的だった。
結局、同行するだけなら二教科、無事戦利品を獲ることができれば全教科の問題用紙を見せてもらえる事になった。
報酬の振り分けに大きな差があったが、一蹴するには惜しい。
それでも、と木成はあらためて目をこらす。この暗闇には辟易させられる。
頭上に生い茂る青葉に月の光を遮られ、薄い闇と濃い闇の二種類しか視界には映っていない。絵の具の黒が可愛く思えるほどの真っ暗闇だが、かろうじて自分の手足は確認できた。
乱雑に扱ってきたスニーカーに木成は初めて感謝した。目立つ白でありがとう、と。
蛍光塗料が自己主張する腕時計に目を落とす。時刻は午後十時。
山中では民家の明かりが届くわけもなく、地上を見下ろしても、遠くの方で星くずのように輝く光が見えるだけだった。
溜息をこぼしながら進んだ先で、待ち構えていたかのように蜘蛛の巣が顔を覆った。
ひぃっ、と女の子のような悲鳴をあげ、顔を手で拭う。
溜息の数も、蜘蛛の巣に引っかかった数も、これで何度目か数える気にもならない。
その様子を見て、すぐ後ろを歩く野根が声をかけてきた。
「うへぇ、きつそうだね……歩く順番代わろうか?」
「いえ、いいです。部長が前にいても、低い位置の障害物しか避けれませんし」
返事の代わりに肩から提げたショルダーバッグが痛いほど強く引かれた。
ショルダーバッグは学校指定のもので、野根が提げているものと同じ鞄だ。はぐれてしまわないように、肩ひもを彼女に掴んでもらっていた。
死体を詰めるのにこの大きさなら丁度いいでしょ、との理由で採用された鞄だ。
「あれ。なにこれ。鞄になにか詰まってるみたいだけど」
鞄の重さが気になったのか、ぐいぐいと引っぱりながら野根が言う。
彼女の動きにあわせて鞄の中身が揺さぶられた。
「え……? わっ、だめです! 中身は関係ないですから!」
慌てて野根の手をはたき、揺するのをやめさせる。
鞄の中身を、彼女に知られるわけにはいかなかった。
「なによ。ひょっとしたら木成くんも懐中電灯を持ってきてくれたのかなあ、なんて……ちょっと期待しちゃったじゃない!」
それならとっくに使ってますよ――木成はそう言って再び暗闇に目をこらした。
当初は野根の鞄に懐中電灯が二人分入っていた。昼間、彼女が自分で用意すると言ったからだ。
しかし、山を登り始めて一時間と保たずに光源は役目を終えた。
電池を使い古したまま持ってきたらしい。
懐中電灯が潰えたあとは携帯電話のライトを代用した。
幸いなことに二人とも新しい機種だったため、その明るさたるや、もしも地底人がその光を見れば、瞬時に失明せしめるほどのものだった。
だが、携帯のライトも三十分と保たなかった。
明るくしすぎたのだ。
二人はどうにか手探りで登山を続けたが、目的地であるキャンプ場は未だに見えてこなかった。
暗闇のせいで正規の登山道と獣道を間違えてしまったのか。本来ならばとっくに到着して、あれこれ探索し終えているはずの時間である。
遭難。
自分達には一生縁がないと思っていた二文字が頭に浮かんだ。
立ち止まっていても汗をかくほどの熱帯夜なので、遭難しても死ぬことはないと思うが、夜通し歩く羽目になるのは真っ平だった。
しかし、仮に今から下山したとしても、終電には間に合わないだろう。
野宿になるのは確定だった。
そのための準備も、そのための覚悟もしているはずがなく、ただただ溜息の数を増やすことしかできなかった。
ふと、野根のことが気になった。
自分はいざとなれば腐葉土を枕にしてもいいが、彼女の場合はどうだろう。無理にでも下山して、人工的な光の下で休んだ方がいいのではないか。
「野根部長」
「なあに?」
野根の声にあわせて肩ひもが軽く食いこむ。
「このままだと外泊コースですけど……いいんですか?」
「……あっ、もうそんな時間なんだ」
木成も足を止めて野根へと振り返る。
見下ろせば、思っていたより近くに彼女の顔があった。この暗闇でも表情がわかるほどの距離だ。
ちなみに野根の服装は上下ともに赤を基調としたジャージだ。胸元に『二年四組 野根』と書かれた名札が縫われている。
学校で着ているものを私服としても利用しているのか、あるいは中学時代のジャージかもしれない。彼女の体格ならば全く問題なく着こなせるだろう。
年齢的には厳しいが、小学生の体操着も大丈夫なはずだ。――さすがに履き物はラフなものではなく、しっかりとしたスニーカーだったが。
「え、ええ。もう十時過ぎです。今から帰っても終電には間に合いそうにないですけど」
「しょうがないね。ここまで来たんだし、このまま登っちゃお」
「でも野宿になっちゃいますよ?」
「だいじょぶ。こう見えても廃墟巡りや廃村探索で、外で寝るのは慣れてるからっ!」
ふふんっと鼻息荒く、野根が胸をはった。
廃墟に入るのは不法侵入に当たる可能性がある。廃村であろうとも民家に侵入すれば同様だ。決して誇れることではない。
人の道理を重んじる木成には考えられない行動だった。
とはいえ、木成とて聖人君子ではない。
幼い頃、親の財布から夏目漱石をお迎えして、友達と一緒にお菓子を買いに行ったことがあった。
人の所有物に一目惚れしたうえ、拝借。それっきり返していない物もある。
それらを思い出し、野根を批判する気持ちはすぐに失せた。
「木成くんもこんど一緒にいく?」
野根がにやにやと、厭らしい笑みを浮かべた。
――いや、きっと暗闇のせいでそう見えるんだ。
木成は自分に言い聞かせ、首を左右に振った。
「遠慮しときます」
「はっはあ。ほんとは怖いんでしょ」
思わず野根のおでこをはたきそうになったが、木成はその衝動を必死に抑えた。
「ちがいますよ……」
そう応えて野根から視線をはずす。あまりむきになりすぎて、虚勢を張っていると思われたくなかった。
再び進行方向へと踵を返す。
相変わらず視界は闇に慣れようとせず、辺り一面真っ黒なままだ。踏み出す足の裏が傾斜を捉えていなければ、山を登っているのか平地を彷徨っているのか、頭を悩ませているところだろう。
「それより、泊まりになる、って親御さんに言わなくて大丈夫ですか? 心配すると思いますけど」
鼻に触れた木の葉を振り払いながら、背後の野根へと尋ねた。
「ああっ、いいのいいの。うちはお母さんとお父さん、二人とも滅多に帰ってこないし」
それに――と野根が言葉を続ける。
「連絡しようにも使えないじゃない、携帯」
「……あっ」
そうだ。照らしすぎたんだった。
ひたすら夜の山を歩き続けたせいだろうか。つい先ほどの失敗を忘れてしまうほどに頭がぼんやりとしていた。
そんな状態だからこそ、木の葉が消えて、開けた視界に小さな光が映ったときも――
明るくて羨ましい。
ぐらいにしか木成には考えられなかった。
――えっ……光?
羨ましいから妬ましいに感情がすり替わり、その後思考が二周したあたりで、ようやくそれが持つ意味に気がついた。
山の中にある光。奇異なほどに明るいそれは、人工物に違いなかった。
「どうかしたの?」
「部長。明かりです、明かり」
「明かりぃ?」
呟くと同時に、野根は駆けだしていた。
「あ……っ、部長!」
慌てて木成も後を追う。
速い。
信じられない速度だった。
野根と運動なんて、日本とブラジルほどに遠い存在だと思っていた。だが、もはや彼女のスピードは、獲物を前にした狩人に近い。
光が見えたと言っても、光源までの距離は随分とある。
まだまだ薄暗い山の斜面と、生い茂る枝葉が続いていた。
しかし、まるでそれらの障害が無いかのように、野根の小さな後ろ姿は更に小さくなっていった。
やがて斜面が緩やかになり、靴裏が平坦な地面を捉えた。
光源が頭上に見える。古めかしい型の街灯だった。
街灯の下、ぽつねんと立ち尽くす野根の後ろ姿が見える。
必死になって追いかけたせいか。露出した手の甲には赤い線が幾筋もひかれていた。
葉の汁でも付着したのか、頬がじくじくと痛む。
「部長っ……いきなり……、走らないでくださいよ……っ」
みっともないほどに呼吸を乱しながら、非難の言葉を絞り出す。
「見て」
そんな木成とは対照的に、涼やかな声色で野根が言う。
彼女の人差し指はすっとのばされ、地面へと向けられていた。
つられ、彼女の指先に視線を落とす。
乱れていた呼吸が思わず、止まった。
街灯に照らされた土は、どうということはない土気色をしている。
しかし、野根が指さした場所――その部分の土だけ、煤けた黒と炭化した白、二色のまだら模様に変色していた。
「多分、ここがキャンプ場だよ。ここで燃やされたと思うんだよね、解体された二人」
「ずいぶんきっぱり言い切りますけど……来たことあるんですか?」
「ううん、ないよ。土が燃えて白くなってたからさ」
そうですか、と木成は囁くような小声で言った。
ここで……高校生が焼かれた。
恐る恐る足下を見ていると、白い土が自分の足下にまで広がっていることに気づき、木成は慌てて飛び退いた。
野根の言葉を信じるなら、その炭化した土こそ人が焼かれた証だという。
犬の糞でも踏んだほうがましだった。
「じゃ、そろそろ始めよっか!」
沈む木成をよそに、まるで遠足前の園児のような調子で野根が言った。
「何をですか?」
「何を、って……やだなあ木成くん」
びしっ、と眼前に人差し指が突きつけられた。思わず首をひく。
「ここに何しに来たか忘れちゃったのかな?」
やることなんて一つ。そう言いたいのだろう。
木成とて今回の目的を忘れていたわけではない。
ただ、できることなら忘れたかっただけだ。
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