その小屋はオカルト探究部の部室と似たような臭いだった。
古い木が腐った臭いだ。
昼の部室が遠い日の白昼夢のように思われ、木成はその場の空気を深く吸い込んだ。
悪臭に分類されるであろう臭いではあったが、嫌いではなかった。
「君も座ったらどうだね」
声が聞こえた。先ほどのしゃがれ声だ。
声の主へと向き直る。
揺れ動くロッキングチェアに腰掛けた老爺と、木製スツールに座る野根がいた。
木成が老爺に対して思ったことは、まるで枯れ木のような人だ、ということだ。
老爺の肌には深い皺が刻まれ、朽ちかけた老樹のように見えたからだ。枯れ木にボロ布を巻けば、きっと彼のようになるのだろう。
老爺はそれほどまでにみすぼらしく、この部屋と同じ臭いがした。
部屋――正確にはキャンプ場の外れにあるログキャビンの室内なのだが、端から端まで歩いても、五歩もあれば横断できるほどの広さしかなかった。
外から見たときはもっと広々としているように見えたのだが、壁に使われている木材が厚いのかもしれない。
狭いスペースに物が乱雑に置かれているため、物置だと言われれば信じてしまいそうなほどだ。
元の色が分からないほどに薄汚れた熊のぬいぐるみ、登山客への注意を促す黒ずんだ看板、錆の浮いた自転車、真っ赤なポリタンク、ひびの走った合成樹脂の衣装箱。
それらに加え、建築の際に余ってしまったのか、多くの木材が天井に届きそうなほど積まれていた。長方形のものから丸太まで、様々な形に加工されている。
これなら整理整頓がきいているぶん、木成の自室のほうが開放感があった。
「いえ、立っている方が楽なんです。お気遣いありがとうございます」
もちろん嘘だ。
今すぐその場に座り込んでしまいたい気分だったが、木成はそれを避けた。
なぜかわからないが、その場で落ち着くことに対して漠然とした不安を感じていた。
「何よ、いい子ぶっちゃって」
野根が桃色の舌をちらりと覗かせながら悪態を吐いた。
壊してしまった彼女の眼鏡は、今はジャージのポケットに押し込まれている。
いつも度の強い眼鏡を使っているせいか、眼鏡を着用していない彼女の瞳は普段よりも大きく見えた。
小屋についてから、野根はずっと老爺と喋っていた。例の殺人事件について話を聞いているのだ。
老爺は事件を老夫婦から知らされ、警察へ通報した張本人――このキャンプ場の管理人だった。
事件以降、野根と同様に物見遊山に訪れる若者は大勢いるらしく、周囲を警戒していたところたまたま二人を見つけたそうだ。
本来ならその場で帰らされるところだが、野根が転んで怪我をしたこともあり、彼の世話になることとなった。
「――てことは、死んだ二人はキャンプ場の利用客じゃあなかった、ってことですか?」
すり切れ、飛び出したジャージの糸くずを指先でいじりながら野根が言った。
ジャージの裂け口には巻かれたばかりの包帯が顔を覗かせている。真っ白な包帯だ。それだけが周りの景色から完全に浮いてしまっていた。
こんな薄汚れた小屋でも、医療用具だけは清潔を保っているらしい。
「ああ。……たぶん、この山で肝試しでもやってたんだろ。ちょうどそういう雑誌に載った頃だったからねえ。登山者を喰らう地獄穴があるとか、お化けが出るとかどうとか。夏になるとどこの山にも降って湧く類の話だ」
老爺はそう言うと、ひいひいと過呼吸のような笑い声をあげた。つられて野根も声をあげて笑う。が、木成は話の笑い所が理解できず、僅かに口元を緩ませただけだった。
「でも、そんな噂話がたつぐらいの方が、まだかわいかったかもなあ。今じゃあれだ。本当に人が死んじまったから」
老爺はふぅ、と息をつき、肩を落とした。
山の現状に落胆しているのか。もしかすると笑いすぎて疲れたのかもしれない。
「特に今は……あれだろ。夏休みだっていうじゃないか。若い連中がキャンプ場を使うでもなし、暇をつぶすためによく来るんだ」
憎々しげに唇を歪め、老爺は呟いた。
木成はその呟きに、既視感を覚えた。
それは――老爺が今呟いた言葉は、先ほど彼らに対して行われたお説教とまったく同じ内容だったのだ。
なぜ同じことを二度も言われなければならないのか。
疑惑と薄気味悪さが先端をちらつかせ、募る不安感が一層色濃くなる。
そんな木成の心中など露知らず、老爺は喋り続けた。
「まったく最近は大忙しだ。辺りのゴミ拾いも儂がやっとるんだが、酒の空き瓶やら下品な本が、まあ落ちてる落ちてる。それだけならまだいいんだが……あれが……あれだ、何て言ったかな」
老爺はそこで言葉を句切り、先ほどと同じく息を吸い込むように笑った。
下品な本と老爺は言ったが、彼自身の笑い方も品が良いとは言えなかった。
「君たちにはまだ早いか。あのときに着けるやつらしいんだが……捨ててあるあれがな、臭いのなんのってもう……。卵と魚を腐らせた臭いって言えばわかってもらえるか」
わかりたくもない。それに、これも先ほど聞いた話だった。
ちらりと野根を一瞥する。愛想笑いをするでもなく、彼女はきょとんとしていた。どうやら今回も老爺の話は伝わらなかったらしい。
それよりも、と木成は胸中の不安感――違和感ともいってもいい――に再び手をのばした。
老爺の声が妙にしゃがれているのは酒で灼けたかヤニで病んだか。その点はどうでもよかった。
木成が気にしているのは老爺の喋り方だ。
あれ、あれ、と物の名称を思いだそうともせず、まるで思考を放棄している。同じ話を繰り返しているのも気になった。
考えていると、厭な音が聞こえてきた。
機械音にも似たノイズ――蚊の羽音だ。
「やだ……噛まれちゃったみたい」
野根は糸くずで遊んでいた指を止め、手の甲をぽりぽりと掻きはじめた。
「掻くと余計痒くなりますよ」
「そうなったらもっと掻けばいいのよ」
なんとも頭の悪い発言である。
木成は呆れた表情を隠そうともせずに野根を見つめた。
以前聞いた話だと彼女の裸眼の視力は、それこそ手元の文庫本すら読めないほどらしい。それならば、どんな顔をしたところで見咎められることはないだろう。
蚊は野根から離れた後、天井近くを埃のように舞っていた。しかし、まだ腹が満たされていないのか、蚊は再び降下を開始した。
彼女の血を腹に溜め込んだせいか、ひどく緩慢な動きだ。
耳障りなノイズの音量が少しだけ増す。
こっちへ近寄ってきたら仕留めよう――木成は両手を胸の前で構えた。
だが、木成の集中力も虚しく、蚊は吸い寄せられるように老爺の首筋に飛び込んでいった。間髪入れず、枯れ木のような肌に口吻を突き刺し、蚊はぴたりと静止した。
「あ……っ」
慌てて手を振りかぶる。
けれど、その手が振り下ろされることはなかった。蚊と一緒に老人を叩いてしまうことに後ろめたさがあったわけではない。
手だ。
老爺のごつごつした手が、眼前へ突き出されていた。
「静かに。こいつが逃げちまう」
こいつとは首筋に止まった蚊のことを言っているらしい。
木成は振り上げた腕を戻せないまま、老爺の手が下ろされるのを待った。
異様な状況に思わず息を呑む。
やがて蚊の網目模様の腹部が膨らみ、色彩が黒褐色から銅色へと変わった瞬間、
パンッ!
膨らませた紙袋を破裂させたような音が、狭い小屋の中に響き渡った。
何の音なのかまったく理解できなかった。が、目の前にあったはずの老爺の手が首にそえられているのを見て、蚊を叩いた音だと気づいた。
枯れ枝のような腕からは想像もつかない速さだった。
むうっ……と重い唸りとともに、老爺はゆっくりと首から手を放した。
親指の爪ほどもある血痕が彼の首に残され、黒い筋が幾本も散っていた。蚊の残骸だろう。
老爺は眼前に手を移動させると、まるで輝かしい宝石でも眺めるように、法悦とした眼差しで手のひらを見つめた。
老爺の手のひらには、赤い染みが広がっていた。
血だ。
野根と老爺から血液を攫っていった蚊が、この世に残した最後の痕跡。
あの小さな腹の中によくぞこれだけ溜め込んだものだ。
そう感心したとき――
老爺の口から黄土色の物体が飛びだした。
突然嘔吐したのかと思い、思わず身を引く。
だが、それは吐瀉物ではなかった。苔が生い茂り無残にひび割れた彼の――舌だった。
腐った芋のような色の舌が、己の手を、そこに広がった血をべろりと舐める。手のひらだけではなく、指の一本一本までもしゃぶるように、何度も、何度も。
予想だにしない老爺の行動に、野根が小さな悲鳴をあげる。――いや、彼女は目の前で行われた奇行が見えていないらしく、相変わらず首を傾げていた。
悲鳴は彼女ではなく、木成の口から漏れていた。
「人の血肉……というものは……な」
面喰って後退る木成を気にすることなく、親指を吸いながら老爺は言った。
「痴呆防止に……きくらしい。だから……腹一杯に血を蓄えるまで……藪蚊は大事に扱わねば……ならん。儂の婆さんが……言うとった。……本来は骨が一番なんだが……最近はあの……馬鹿共のせいで……」
舌の根が擦れるかどうかという程度の小さな声で、老爺は呟いた。
そんな話はついぞ聞いたことがない。
一般療法ではない。
民間療法でもない。
それはただの――オカルトだった。怪談として読み聞くには申し分のない治療法である。だが、そんなオカルトを盲信する本人がすぐそばにいるとなれば、話は別だ。
舌を動かし続ける老爺に視線を注いだまま、ごくりと生唾を飲み込む。
不意に心中に湧き上がった気持ち――それは胸中で燻っていた不安に、ついに火がついたのだ。
原因ははっきりしないが、抱えていた不安は嫌悪を通り越し、理解できぬものに対する恐怖へと姿を変え、今や爆発する寸前だった。
「木成くん……大丈夫?」
野根が声をかけてきた。利かぬ焦点を絞ろうと目を細めてこちらを見ている。
彼女の言葉には応えず、木成は後退した。
背中が何か硬いものにぶつかる。
ぎしぃっ、と木が軋む音。
気がつけば、山小屋の隅まで下がっていた。
その音を聞いて、まるでそこにいることに初めて気づいたように、老爺が木成の顔を見た。かさかさに乾いた唇から茶色い唾液が糸をひいている。
老爺と見つめ合ったまま、後ろに下がることもできず、呼吸が荒くなっていく。
後頭部が熱くなり、脈打つ鼓動が大きく耳を打った。
どうにかしなければ、この言い知れぬ恐怖に心が屈してしまいそうだった。木成は懸命に頭を巡らせた。
何でもいい。老爺と相対するこの状況を変えたかった。
どうにか老爺の興味を逸らそうと、木成は僅かな唾液で口内を湿らせ、口を開いた。
「そっ……そうなんですか。痴呆防止……いや、まったく知りませんでした。実は僕も最近物忘れが激しくなってまして。なんだ! そんな良い方法があるなら! さっさと試しておけばよかったな!」
喋るにつれて語尾が強く上がっていく。
老爺がロッキングチェアから腰を上げ――歩み寄ってきたせいだ。
「そうかい」
眼前に老爺の手のひらが見えた。止まることなく迫ってくる。荒れていたはずの手は血と唾液にまみれ、ぬらぬらと嫌らしい煌めきを纏っていた。
視界が歪んでいくのが自分でもわかった。泣きそうになっているのかもしれない。
「それならそうと……さっさと言ってくれればよかったんだが」
老爺は木成の肩に手をかけると、意外なほど強い力で彼をその場から押しのけた。
予想外な行動で、危うく散乱する木材でつまずくところだった。危なげな足取りでどうにか踏み堪えたとき、肩のあたりから下水道のような臭いが漂ってきた。
触られた部分に茶色く泡立つ粘液が付着していた。
咄嗟に老爺を罵りそうになるが、今は服を汚された怒りよりも、何も危害を加えられなかった安堵感の方が勝っていた。
「よくよく考えてみれば……君たちに茶を出してなかったな。ちょっとそこで待ってなさい。茶の代わりと言っちゃあ何だが、予備があったんだ。特別にわけてあげよう」
老爺はそう言うと、小屋の壁を横へと滑らせた。
壁だとばかり思っていたが、どうやら扉だったらしい。道理で外から見たときよりも室内が狭いはずだ。
山小屋にはもう一部屋あったのだ。
そう納得する木成の脳裏に、再び警鐘が鳴り響いた。
〝予備があったんだ〟
予備が、ある。
……何の?
言葉の意味に気づいたとき、木成はその場から駆けだし、野根の腕を掴んでいた。
「え、えっ、ちょっと、何よ急に!」
野根が批難めいた声をあげる。だが、木成は応えない。
今は一刻も早く山小屋から立ち去りたかった。
野根を引っ張り、入口へと走る。
金物が倒れるような音が聞こえた。
扉の向こうに消えた老爺が、異変に気づいたのだろう。
「待って待って、鞄が――」
「いいから!」
玄関口へ駆け寄ると、横っ腹を晒しているスニーカーを蹴転がし、つま先を突っ込む。履き終える時間が惜しく、かかとを踏みつけたままドアノブを捻ると、ほんのわずかな抵抗の後、ドアは大きく開け放たれた。
野根の腕を掴んだまま、木成は地を蹴り走り出した。
もう一度、暗闇が棲む山中へと向かって。
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