露出した肌は枝に裂かれ、疲労で全身の筋肉が悲鳴をあげている。
 痛まない箇所はなかった。
 漆黒の闇の中で方向感覚を失い、それでもただ前へと進み続けた。
 あの山小屋から――老爺から少しでも離れるために。
「木成くん、無理だって……。ほんともう、限界……」
 喉の奥から絞りだすように、野根が苦しげな声をあげる。
「頑張ってください。無駄に高そうなスニーカーが泣いてますよ」
「スニーカーなんてさっきの山小屋に置いてきちゃったわよ……。履くの待ってくれそうにないんだもん。地面の物を避けようにも暗くて見えないし……。もし明るくってもさ、眼鏡がないから見えないし」
「ああ……」
 うっかりしていた。
 小屋から逃げ出すことに夢中になるあまり、野根の準備などおかまいなしだった。
 よくよく考えてみれば分かりきったことだ。あれほど俊敏に駆けていた彼女が、こちらより先に音をあげるはずがない。
 木成は足を止め、野根の足下へと視線を落とした。
 確かに靴下が剥き出しになっている。白い肌がぽつぽつと水玉模様のように露出していた。
「もう足の感覚がないんだけど……石やら枝やら、一生分は踏んだと思うの」
「それはさすがに……」
 大袈裟だろうと一蹴してやりたかったが、急いで飛び出した手前、あまり強く言うのも気がひけた。
 木成は辺りを注意深く見回した。
 老爺が追ってきているとすれば、懐中電灯か何かを持っているはずだ。
 けれど、それらしき光は見えなかった。
「じゃあ、少しだけ休憩しましょう」
「少し、って……。ケチ臭いねーっ」
 ぶつくさと文句を言いながら、野根は近くにあった木へと寄りかかった。
 そのままずるずると崩れ落ち、ついにはぺたりと座りこんでしまう。
 山小屋で座っていた分、疲労は木成よりも軽いはずなのだが、あるいは本当に足の具合が悪いのかもしれない。
 彼女を真似て木成も座りこむ。
 我慢していた疲れがどっと噴き出してきた。
 果たして再び立ち上がることができるのか、もしもこの場で誰かに問われた場合、即答する自信はなかった。
 ぼんやりと空を見上げる。
 頭上に青葉が生い茂っているのか、雲でも出てきたのか――死体を探していたときとは違い、月は見えなかった。
 落ち着いてくると、一際強く青葉の匂いが感じられた。夜と朝の境目特有の清爽とした空気も心地好かった。
 思わず木成が疲労に身を任せ、瞼を閉じようとしたとき――
「ねえ、なんで急に飛び出したの?」
 野根の声だった。
 疲れを感じさせないはっきりとした口調だ。疲労よりも、木成の行動の方が気になる様子だった。
 ――大人しく休んでいる気はないのか。
 彼女にそう言うと「だって気になるじゃないの」と予想通りの返答が返ってきた。
 木成は重く迫ってくる眠気を押しのけ、再び月のない夜空を仰ぎ見た。
「……部長は気にならなかったんですか。あのお爺さんのこと」
「んん? あぁ、臭っさかったねー」
「臭いじゃなくて」
「じゃなくて? ううん、どうだろ」
 むううと重い唸りが聞こえる。珍しく真剣に考え込んでいるようだ。
「……駄目だ。やっぱ人間はさ、目が利かないとだめだね。臭い以外なんにもわかんなかったや」
 たいした時間も置かず、野根はそう答えてきた。
「そうですか」
 元々彼女の印象など参考にする気もない。どんな答えが返ってこようと構わなかった。
「……たぶん、軽い痴呆だと思うんですけど、言動が少しちぐはぐだったんですよね。物の名前を思い出せなかったり、人の血や骨が痴呆の対策になったり、って」
「言ってたね。……え、それが気持ち悪いから、って理由だけで飛び出しちゃったの?」
 暗闇のせいで野根の顔を見ることはできない。だが、馬鹿を見る目丸出しの彼女の表情が脳裏に浮かんだ。
「……ポリタンク」
 ぽつりと呟く。
「ポリタンク?」
「小屋に置いてあったんですよ。他のがらくたは元の色がわからないぐらいぼろぼろだったのに、それだけは原色を留めてた……。綺麗な、赤色でした。多分……最近用意した物だと思うんですけど」
「それがどうしたのよ。まさか闘牛でもあるまいし、赤い色を見たら興奮しちゃって走り出したくなりましたー、とか言わないでよね。誰だって使うでしょ、ポリタンクぐらい。灯油とかガソリンとか……キャンプ場の管理人さんだし、キャンプファイア用とかね」
「キャンプファイアが禁止されてるキャンプ場でですか?」
「そういや、そうだけど……冬に備えて先に用意したんじゃないの」
「暖房器具より先に燃料を用意する人なんて聞いたことないですよ」
 そりゃまあ……と野根の声が尻すぼみに小さくなっていく。このままでは結論を言う前に、彼女の興味が失せてしまうことは明らかだった。
 ここまで人に喋らせておいて、それはあんまりだろう。
 木成は矢継ぎ早に喋り続けた。
「キャンプファイアじゃなく、他の何かを燃やすために用意したんじゃないかな」
「何か、って――」
 そこまで言ったところで、野根が息を呑む気配が伝わってきた。
 あくまでこれはただの予想だ。想像や妄想の域を出ることはない。
「いや、まさか……ないってば、そんなの」
「人の骨って取り出すのに案外苦労するそうですよ。魚みたいに捌こうにも人の肉って硬いですし。最善策は焼くこと。火葬場もそうですよね。……それにあの人、最後に〝予備がある〟って言ったんですよ。話の流れからすると、例の痴呆に効く特効薬の予備が」
「それって――」

「死体……骨が半分足りないから取りに来たんですよね」

 返事は――なかった。
 耳を澄ませてみれば、一人でぶつぶつと呟き続ける野根の声が耳に届いた。仰天する反応を期待していたわけではないが、少しだけ寂しくもあった。
 木成は夜空に注いでいた視線を周囲へと巡らせた。灯りも何も、見えるものはない。だが、目には見えずとも、周囲を取り巻く状況は刻々と朝の到来を告げていた。
「明るくなるまで……休んでいきますか」
 やはり返事はない。
 代わりに、野根の呼吸音が返ってきた。
 いや、呼吸音と言うには些か乱暴な――いびきだった。
「……寝てるし」
 木成も彼女のように睡魔に身を委ね、何もかも忘れて眠ってしまいたかった。
 だが、彼にはまだなすべきことがあった。
 眠気を振り切り、木成はゆっくりと立ち上がった。


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