僕はチンクルライン産業のクレーム対応のためのコールセンターに勤めていた。チンクルライン産業といえば世界で唯一、燃素を生成する世界有数の大企業だ。燃素の発見により、世界中の多くの熱力学研究者は職を失い、僕らは物理学会などから激しい批判を浴びせられることになった。暇を持て余した彼らは月曜の始業から金曜の終業まで、延々とここのコールセンターにクレームを入れ続けるだけの簡単な“お仕事”に就いたのだ。だから僕らは毎日ヘトヘトだった。もちろんクレームに対応するためにはそれ相応の知識が必要であり、漏れ無く僕も元研究者だった。ここは、成果を挙げられなかった研究者の掃き溜め、流刑地なのだ。彼女に別れを告げて、仕事に戻った僕は、やりきれない気持ちでいっぱいになっていた。子供たちの声の効能は薄れ、僕は既に彼女を求めていた。10分ほど話してはっきりとわかったが、僕には彼女が必要なのだ。同時に彼女も『僕』を求めている。
「どうしたー、悩み事か?」
《お前はいいよなー、いつも呑気そうで》
手とともに、冗談混じりの笑みを浮かべつつ唇を動かした。
「ひでえなぁ、そんなことねえよ。俺だって人並みには悩んでるんだからなー、結婚とか結婚とか女とか結婚とか…」
《わかった、わかった。いっつもお前はそれだよ》
呪文のように繰り返されるそれを打ち切るように言うと、奴らからのコール音がした。それに僕とは違う方法で気づいた彼は、コーヒーを淹れるためにその場を離れた。僕とともに無理矢理ここに送られた彼に、電話応対はできるわけもなく、それほどこの会社の末端の管理は粗雑だった。もちろん誰も彼に文句は言わない、だが一日中コーヒーを淹れるくらいしかやることのない彼にとって、ここはまさしくグリーンマイルそのものだろう。彼の場合、コーヒーのスペルは飲む方の
coffeeで間違いはなかったが。この物語が幕を降ろしてからひと月が経つと、彼は会社を辞めさせられ、連絡は取れなくなった。だがそれはまた今度、彼の物語の時に語るとしよう。
疲れた体を癒すため、ベッドに身体を投げ出して今日のことを思い返した。時は砂のように流れ、重力に逆らって元に戻ることは無かった。僕は過ちを犯した、彼女を騙し、自分のために利用した。ただそれは最大のミスではないと思う。人は細菌や微生物から身を守るために、水に塩素を加えた。そんなことを考えながら、帰りに買ってきた缶コーヒーを開ける。今日の僕には少しだけ、甘かった。
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